日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホライン」の意味・わかりやすい解説
ホライン
ほらいん
Hans Hollein
(1934―2014)
オーストリアの建築家。ウィーンに生まれる。1949年から1956年までウィーン工芸学校土木工学部で学ぶ。1958年から1959年までシカゴのイリノイ工科大学で学ぶ。1960年、カリフォルニア大学バークリー校で修士号を取得。オーストリア、南米、スウェーデン、ドイツの建築事務所をまわり、1964年、ウィーンで事務所を開設。1965年から1970年までウィーンの建築雑誌『バウ』Bauの編集長を務める。ワシントン大学、デュッセルドルフ美術アカデミー、エール大学で教鞭をとる。1979年、ウィーン工芸アカデミー建築学部教授。オーストリアの代表的なポスト・モダン建築家として活躍した。
1960年代は、伝統的な都市において小さな商店を設計しながら、非建築的なドローイングや過激なマニフェストを発表して、世界に知られるようになった。処女作のレッティ蝋燭(ろうそく)店(1964、ウィーン)は独立した店舗ではなく、大きな古典主義建築の建物の一部である。素材にこだわりシンメトリーを追求した密度の高い空間をもつ。正面は、アルミニウムのパネルを鍵穴の形にくり抜き、内部は八角形の部屋が鏡の効果によって無限に反射する。ほかにも商店のデザインとして、グラフィックが特徴的なブティックCM(1967、ウィーン)やファサードに亀裂を入れたシュリン宝飾店Ⅰ(1974、ウィーン)などがある。
1968年、ホラインは自ら編集する雑誌『バウ』において「すべてが建築である」と建築の概念を拡張し、都市計画からオブジェまで、あらゆるデザインを建築とみなした。建築家としての仕事が少なかった時代、巨石と都市の風景を合成したドローイング「ウィーンの都市形成」(1960)や丘の上に浮かぶ航空母艦のフォトコラージュ「航空母艦都市」(1964)を制作した。そしてオーストリアの美術家ワルター・ピッヒラーと共同した最小限環境ユニット(1965)や「死」展(1970)など、家具のデザインや展覧会でも興味深い活動を展開した。
1970年代からは実作の機会が増え、マニエリスム的なデザインを行う。1980年代からは、IBAベルリン集合住宅(1985)など大きな施設も手がけている。メンヘングラートバハのアプタイベルク美術館(1982)では、段上のテラスによって敷地に配慮し、地形と一体化した建築を設計した。1990年代には、豊饒(ほうじょう)な内部空間をもつウィーンのハース・ハウス(1990)や航空母艦を参照したフランクフルト近代美術館(1991)が実現している。
AIA(アメリカ建築家協会)名誉会員(1980)。ドイツ建築賞、プリツカー賞、オーストリア国家賞、ウィーン市賞受賞。そのほかのおもな建築作品にリチャード・フェイゲン・ギャラリー(1969、ニューヨーク)、ガラス&セラミック美術館(1978、ベルリン)、オーストリア旅行代理店支店(1979)、ケーラガッセの小学校(1979、ウィーン)、シュリン宝飾店Ⅱ(1982、ウィーン)、ニーダーエスターライヒ博物館(1996)などがある。
[五十嵐太郎]
『『GAグローバルアーキテクト47 OTTO WAGNER』(1978・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『『ハンス・ホライン』(セゾン美術館・1990)』▽『磯崎新著『建築の解体――一九六八年の建築情況』(1997・鹿島出版会)』▽『Metaphors et Metamorphoses (1987, Centre Georges Pompidou, Paris)』