メキシコ(読み)めきしこ(英語表記)Mexico

翻訳|Mexico

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メキシコ」の意味・わかりやすい解説

メキシコ
めきしこ
Mexico

北アメリカ大陸の南部にある連邦共和国。正式名称は「メキシコ合衆国」Estados Unidos Mexicanos。メキシコは、英語読みで、スペイン語ではメヒコ。メヒコは古代アステカ帝国の太陽と戦争の神「メシトリの大地」を意味する「メシコ」に由来する。国旗は緑、白、赤で縦に3等分され、中央の白地に、蛇をくわえた褐色の鷲(わし)がサボテンにとまっている図柄を配した、きわめてユニークなもの。北はアメリカ合衆国、南はグアテマラとベリーズに国境を接している。西は太平洋、カリフォルニア湾、東はメキシコ湾、カリブ海に面している。北アメリカ大陸に位置しているが、カナダ、アメリカ合衆国のアングロ・サクソン文化圏とは著しいコントラストを示すラテン文化圏に属するため、中央アメリカ諸国として分類され、中央アメリカ最大の国、また南アメリカ諸国をも含めたラテンアメリカ諸国のなかでの政治的・経済的大国としての影響力が大きい。国土面積は196万7183平方キロメートルで、ラテンアメリカではブラジル、アルゼンチンに次ぐ広さ。人口は9736万1711(2000年センサス)、1億0620万2903(2005年推計)である。首都はメキシコ市(シウダー・デ・メヒコ/メキシコシティ)。

[丸谷吉男]

自然

国土は熱帯から亜熱帯地域にわたっており、山地と砂漠地帯が70%を占める。太平洋側には西シエラ・マドレ山脈、カリブ海側には東シエラ・マドレ山脈が南北に走り、両山脈に挟まれた形で標高1500メートル以上の高原地帯が国土の中央部に展開しており、気温、湿度、降水量などの点から経済活動の中心となっている。南部の熱帯地域や海岸部は高温・多湿で年平均気温18℃、北部と西部の大部分は乾燥した砂漠地帯である。

 北緯19度線沿いに国土を横断する形で火山帯が走り、ポポカテペトル(5452メートル)、イスタクシワトル(5286メートル)、オリサバ(5675メートル)の高峰がそびえている。火山の噴火や地震も多い。とくに1985年9月のメキシコ大地震は記憶に新しく、死者8000人、マグニチュード8.1を記録した。いくつかの山脈に囲まれた中央高原にはさまざまな起伏があり、渓谷、盆地、湖沼が点在している。河川の多くは急流で、船舶が航行しうる部分は少なく、雨期にはしばしば氾濫(はんらん)して被害を生ずる。メキシコの山地は貴重な鉱物資源の宝庫であるとともに、豊富な森林資源を提供している。メキシコの国土はその標高にしたがって三つに分類される。第一は熱帯地で、標高500メートル以下、平均気温は25~27℃、第二は温帯地で、標高は500~2000メートル、平均気温は21~24℃、第三は寒冷地で、標高は2000メートル以上、平均気温は18℃以下である。人口の大半は温帯地に集中しているが、それは標高差による気温の相違に適応した生活の知恵といえる。降水量は一般に不十分であると同時に不規則である。国全体の平均降水量は年間1500ミリメートルであるが、地域差が著しく、ほとんど雨の降らない広大な地域がある反面、洪水にみまわれる地方も多い。北部諸州では水資源の確保が重要課題となっている。

[丸谷吉男]

地誌

メキシコの国土は、それぞれの特徴に基づいて次のように区分される。

[丸谷吉男]

北部太平洋岸地域

南・北両バハ・カリフォルニア州、ナヤリト州、シナロア州、ソノラ州からなり、国土面積の約21%、人口の8.7%を占める。砂漠・半砂漠地帯と降水量の多い沿岸地帯があるが、メヒカリ、シウダー・オブレゴン、エルモシヨ、ロス・モチスの諸都市周辺では灌漑(かんがい)施設により綿花、小麦、豆類の生産が伸び、アメリカ合衆国に接する国境都市ティフアナなどでは「マキラドーラ」とよばれるメキシコ独特の低賃金利用型の輸出保税加工業の発展が目覚ましく、観光都市としての魅力と相まって経済発展が著しい。

[丸谷吉男]

北部地域

コアウイラ州、チワワ州、ドゥランゴ州、ヌエボ・レオン州、サン・ルイス・ポトシ州、タマウリパス州、サカテカス州からなり、国土面積の41%、人口の17.5%を占める。東西両シエラ・マドレ山脈および北部高原地帯からなり、砂漠・半砂漠地帯が大部分を占めるため、農耕には適せず、牧畜業が主要産業となっていたが、国境寄りのラグーナ地区やメキシコ湾岸では灌漑(かんがい)投資が行われた結果、豊かな農業地帯となった。メキシコ第二の工業都市モンテレー、鋳造業のモンクローバ、パルプ工業のチワワの諸都市があるが、最近はシウダー・フアレスなど国境都市での輸出加工工業の発展が続いている。

[丸谷吉男]

中部地域

連邦区(メキシコ市)、メヒコ州、アグアスカリエンテス州、グアナフアト州、イダルゴ州、ハリスコ州、ミチョアカン州、モレロス州、プエブラ州、ケレタロ州、トラスカラ州からなり、農業、工業活動の中心地域である。国土面積の14%のこの地域に人口の50%が住んでおり、人口密度はもっとも高く、政治・経済の中心でもある。

[丸谷吉男]

メキシコ湾岸地域

カンペチェ州、タバスコ州、ベラクルス州、ユカタン州、キンタナ・ロー州からなり、国土面積の12%、人口の12.3%を占める。タンピコ、ポサ・リカ、ミナティトランは石油化学工業、ベラクルス港は欧米諸国への海の玄関、カンペチェ、カルメン市は漁業基地として繁栄している。ユカタン半島はサイザル麻の世界的産地であり、パパロアパン川流域では政府の開発計画が進められ、米、サトウキビ、タバコ、バナナの産地に変貌(へんぼう)しつつある。

[丸谷吉男]

南部太平洋岸地域

コリマ州、チアパス州、ゲレロ州、オアハカ州からなり、国土面積の12%、人口の11.3%を占める。主たる産業は農業であるが、北部太平洋岸地域にみられる輸出向け、あるいは国内市場向けの商品作物よりは、むしろトウモロコシなどを中心とする自給農業が主体である。内陸部では乾燥・半乾燥気候であり、海岸沿いやグアテマラ国境地域では熱帯・亜熱帯気候となっている。

[丸谷吉男]

歴史

先住民インディオはメキシコ湾岸からオアハカ盆地にかけてオルメカ文化、ユカタン半島にマヤ文化、中央高原にトルテカ文化アステカ文化を築き上げたが、1521年にコルテスのスペイン軍に征服され、以後1810~1821年の独立戦争までスペインの支配下に置かれた。1821年のコルドバ条約で独立を達成し、イトゥルビデの帝政を経て1824年に連邦共和国となった。1845年テキサス州併合問題を端緒とした対米戦争に敗れ、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で国土の約半分を失った。ちなみに、現在のアメリカのカリフォルニア州、アリゾナ州、ニュー・メキシコ州、テキサス州はこのときにメキシコが失った領土であり、この事実はメキシコ人の根強い反米感情の大きな原因となっている。

 政治的・社会的改革の試みは保守派と自由派の間の内戦を招き、やがて債務の支払い、損害賠償問題をめぐってイギリス、アメリカ、フランスの干渉を招き、1864年にフランスが皇帝に仕立てたオーストリアマクシミリアン大公が1867年にフアレス率いるメキシコ軍によって処刑され、戦後の混乱を巧みに処理したフアレスも1872年に急死した。1876年から1910年の革命まで35年間独裁者として君臨したディアス大統領のもとでメキシコは秩序を回復し、大地主、外国資本、教会勢力、軍部に支えられたディアス体制のもとで近代化が進められ、鉱山が開発され、鉄道が建設され、メキシコ市にはパリのシャンゼリゼ通りを模したレフォルマ通りが建設されたが、そのような進歩の恩恵に浴することの少なかった農民や労働者や民族資本家の不満がやがてメキシコ革命を引き起こした。メキシコ革命の理念を具体化した1917年憲法は、土地改革、労働者の権利、カトリック教会の勢力削減、地下資源に対する国家の主権などを明記した。

 カルデナス政権(1934~1940)のもとで、土地改革が推進され、メキシコ労働総連合が設立され、石油産業国有化が行われた。カマーチョ政権(1940~1946)は工業化計画に重点を置き、アレマン政権(1946~1952)は教育の普及、観光開発に力を注いだ。その後、コルティネス政権(1952~1958)、ロペス・マテオス政権(1958~1964)、ディアス・オルダス政権(1964~1970)のもとでメキシコ経済は長期にわたる高度成長を続けたが、その間に貧富の格差は拡大し、民衆の不満が高まった。1968年のメキシコ・オリンピック直前の学生暴動はその象徴的な事件であった。内務相としてこの暴動の鎮圧にあたったエチェベリーアは、大統領就任後繁栄の恩恵をあらゆる階層に配分するとして、外資規制法の制定や、国連での「国家間の経済的権利・義務憲章」の採択など革新的路線をとった(1976~1973)が、第一次石油危機や内外民間部門の反発から経済は混乱に陥った。ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)は石油収入の利用に活路を求め、積極的な経済開発計画を進めたが、その開発資金の多くを外国借款に依存したため、対外債務の膨張を招き、国際金利の上昇、石油価格下落の衝撃を吸収できず、史上最大の経済混乱のなかで退陣した。デラマドリ政権(1982~1988)は石油価格の大幅な下落による「逆オイル・ショック」、巨額の対外債務の処理、メキシコ大地震、首都郊外でのガス爆発事故など相次ぐ困難にもかかわらず、合理性に基づく政策運営を続けることにより難局に対処したが、十分な成果をあげるに至らぬまま、1988年自分と同じテクノクラート出身の企画予算相サリナスCarlos Salinas de Gortari(1948― )に政権をゆだねた。サリナス政権(1988~1994)は規制緩和の推進、NAFTA(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などで成果をあげた。しかし与党次期大統領最有力候補コロシオLuis Donaldo Colosio Murrieta(1950―1994)暗殺事件、チアパス州での農民の生活向上を求めるサパティスタ民族解放軍(EZLN)の武装蜂起(ほうき)などが発生、社会不安が増大した。1994年の選挙でセディジョErnesto Zedillo Ponce de León(1951― )が当選しセディジョ政権(1994~2000)が誕生したが、前政権のときからの政情不安、貿易収支悪化、為替(かわせ)政策の失敗により資本逃避が止まらず、外貨準備高が激減、深刻な通貨危機(テキーラ・ショック)に陥った。アメリカ、カナダ、IMF(国際通貨基金)などの緊急支援により財政再建したが、所得減少や失業者増加、与党幹部の腐敗への不満が高まり、1997年の選挙では1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)が下院で初めて過半数割れした。2000年の選挙では国民行動党(PAN)のフォックスVicente Fox Quesada(1942― )が当選し、71年間続いたPRIの一党支配は終了した。フォックス政権(2000~ )は、民主主義強化、所得格差是正などに取り組んでいるが、少数与党のため改革は難航している。

[丸谷吉男]

政治

政治制度

1910年に独裁者ポルフィリオ・ディアスを打倒したメキシコ革命の理念と精神は1917年憲法に盛り込まれ、その後のラテンアメリカ諸国の憲法に影響を及ぼすとともに、部分的な改正を重ねて現在に至っている。議会制の三権分立、連邦制を中心とする共和国を政治体制とする。国家元首は大統領で、6年を任期とし、国民投票で選出されるが、再選は禁止されている。立法府は二院制で、上院は連邦区と31の州から4名ずつ選出される任期6年の議員128名で構成される。下院は500議席で、そのうち300議席は連邦区と31の州から選出され、残り200議席は得票数に比例して野党に配分され、任期は3年である。国会の会期は9月1日から12月31日で、初日に大統領が発表する年次教書は重要事項を網羅する情報源である。大統領の権限はオールマイティといえるほど強大であり、閣僚の任命権、州知事の罷免権、両院を通過した法案に対する拒否権をもつ。軍部に対しても文民優位が確立されている。司法権は連邦裁判所に属し、最高裁によって統轄され、最高裁判事は大統領の任命により、上院の承認を必要とする。高等裁判所は12、地方裁判所は68ある。

 地方行政では、連邦区と首都とその周辺の31の州に分けられ、それぞれ憲法と代議制の政府をもつ。行政権は直接選挙で選ばれる任期6年の州知事に属し、立法権は州議会、司法権は州最高裁に属する。

[丸谷吉男]

政党

与党の国民行動党(PAN)のほかに、野党として制度的革命党(PRI)などが下院に議席をもつが、その多くは野党育成政策の一環としての比例代表制によるものである。PANは1939年に結成され、北部の工業都市モンテレーの財閥や教会を基盤とする保守政党であるが、最近は都市の新中間層に勢力を拡大し、上院46、下院148議席をもつ。2000年の大統領選挙で勝利し与党となった。PRIは1929年に結成された民族革命党(PNR)が二度改称したもので、2000年まで政権を独占してきた。労働者、農民、一般人の三部会制をとり、全組織労働者の約90%を占めるメキシコ労働総連合(CTM)、全国農民連盟(CNC)、全国一般人組織連合(CNOP)などを基盤とするが、最近はテクノクラート(技術管理職者)を中心とする一般人部会の発言力が強い。PRIは上院58議席、下院223議席をもつ。民主革命党(PRD)は、メキシコ・ナショナリズムの記念碑ともいうべき石油国有化を断行したラサロ・カルデナスの2世を中心とする左派政党で、1988年の大統領選挙ではサリナス候補を追いつめる躍進をみせた。1990年代に入って退潮を続けていたが2003年の下院選挙では議席数を増やし、上院15、下院97議席をもつ。労働党(PT)はかつての労働運動の闘士トレダーノの影響力も弱まり、下院に6議席をもつのみとなった。ほかに緑の環境党(PVEM)があり、上院5、下院17議席をもつ(2005)。

[丸谷吉男]

外交

メキシコは独立後もフランス、アメリカなど先進諸国の干渉に悩まされた経験に基づき、内政不干渉、民族自決、紛争の平和的解決、反植民地主義、国家の法的平等の原則を外交政策の基調としてきた。1970年代には石油危機を契機として高まった資源ナショナリズムを背景に、第三世界のオピニオン・リーダーとして行動し、1983年ベネズエラ、コロンビアとコンタドーラ・グループ(3か国蔵相会議)を結成し、中米和平の実現への協力、史上初の南北サミットの開催、中米・カリブ諸国への石油の安定供給などによって影響力を高めた。「カリブ海の赤い星」といわれたキューバとは一貫して友好関係を続けた。セディジョ政権(1994~2000)は、(1)戦略的関心のある国との関係の緊密化、(2)国家の目標に適し、地球規模の問題の解決に資する国際機関、地域機関への積極的参加、(3)開発のための手段としての国際協力の促進の三つを中心に、対米関係を成熟したものとし、APEC(アジア太平洋経済協力)に加盟し、日本、中国、韓国、シンガポールとの関係を深めた。またラテンアメリカでは南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))、カリブ諸国連合との関係を強化する一方で、チリ、コロンビア、ベネズエラ、コスタリカ、ボリビアとの自由貿易協定締結に尽力し、ヨーロッパ連合(EU)やヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)との間でもFTAを締結した。フォックス政権(2000~2006)では従来の外交政策を踏襲しつつ、さらに国際政治の舞台において積極的な役割を果たす方針で、2002~2003年国連安全保障理事会の非常任理事国を務めたほか、2002年APEC首脳会議開催、2003年世界貿易機関(WTO)閣僚会議開催、2005年非核地帯会議開催などを行った。一方、従来からの親米路線はフォックス政権になってから強くなり、友好関係を続けてきたキューバとの関係は縮小方向にある。ただしアメリカのキューバ経済制裁強化法には反対している。アメリカとの関係では、不法移民問題(在米メキシコ人不法移民は約480万人)、麻薬密輸取締問題など課題は多い。

[丸谷吉男]

防衛

メキシコの軍部は歴代の文民政権の周到な政策により、ラテンアメリカでもっとも非政治的な集団となっており、クーデターの可能性も少ない。北の隣国アメリカは強大すぎて戦争の恐れはなく、南の隣国グアテマラは弱小であり、キューバとは一貫して友好的であるため、軍の肥大化が抑止されてきた。しかし、1994年初めのチアパス州の農民武装蜂起(ほうき)、1996年の革命人民軍(EPR)のゲリラ活動、麻薬組織との対決などを契機に、国内治安に占める軍の役割が拡大している。2005年の兵力は陸軍14万4000人、海軍3万7000人、空軍1万1770人で、2005年の軍事予算は国内総生産(GDP)の0.4%となった。

[丸谷吉男]

経済・産業

メキシコ経済の歩み

1910年に始まったメキシコ革命は、革命軍指導者の間の権力闘争のためにメキシコを十数年にわたる内戦状態に陥れ、経済・産業を疲弊させたが、1929年の世界恐慌は事態をさらに悪化させた。カルデナス大統領(在任1934~1940)は石油の国有化、農地改革など革新的政策を推進し、対米関係を悪化させたが、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)は石油などの戦略物資供給国としてのメキシコの立場を優位にした。大戦中、メキシコは連合国への戦略物資輸出で多額の外貨を獲得する一方で、輸入できなくなった工業製品を国産化する「輸入代替工業化」を推進し、大戦終了時には農業国から工業国へと脱皮した。

 その後1970年まで、メキシコ経済はインフレのない高度成長、通貨の安定を実現し、「メキシコの奇跡」として注目された。しかしエチェベリーア政権(1970~1976)の外資規制法の制定、第三世界外交、ナショナリズム高揚などが内外民間資本の反発を招き、そのうえ1973年の第一次石油危機に伴う混乱も加わり経済が停滞を続けたため、政府は対外債務を導入し、公共部門主導による経済再建を目ざした。その結果、対外債務の急増が通貨不安を高めることになり、任期末の1976年8月には22年ぶりの通貨暴落に追い込まれ、経済危機が深まった。

 ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)はこの戦後最大の経済危機を乗り切るために従来の石油政策を転換し、石油輸出収入の拡大による経済再建を目ざし、国家工業開発計画、国家エネルギー計画、四大臨海港開発計画など多面的な開発計画を展開したが、資金の多くは外国銀行の借款に依存した。そのため、1982年6月の原油価格の反落は国際金利の上昇、農業不振による食糧輸入の急増、公共部門の非効率、財政赤字の拡大などと相まって、1982年8月の金融危機をもたらした。

 近代メキシコ史上最大の危機のさなかに発足したデラマドリ政権(1982~1988)は若手テクノクラートの登用、国際金融機関との協調、民間部門との対話、国有化した銀行への補償、公務員の綱紀粛正などにより1984年には経済の立て直しに成功し、対外債務についても多年度一括再編成を達成した。しかし、1985年の石油価格急落による「逆オイル・ショック」とメキシコ大地震はふたたびメキシコ経済を大混乱に陥れた。

 史上最低の得票率でかろうじて当選したサリナス大統領(在任1988~1994)は、(1)政府、経営者団体、労働団体、農民組織の間の対話路線の確立、(2)経済活動に対する規制の緩和、(3)国営企業の民営化、(4)貿易の自由化、(5)外国投資の自由化、(6)対外債務問題の積極的処理、(7)NAFTA(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などの面で成果をあげ、「サリナス革命」として注目されたが、NAFTA発足当日の1994年1月1日に起こったチアパス州での農民の反政府武力闘争、次期大統領の最有力候補であったコロシオ候補の選挙運動中の暗殺、与党幹事長暗殺など、政治、社会面の不祥事が外国資本に不安を与えた。

 与党のコロシオ候補が選挙戦のさなかに暗殺され、急拠後継候補に指名され、当選したセディジョ大統領(在任1994~2000)は就任直後の1994年末に為替(かわせ)政策を誤り、短期に外国資本が大量に流出したために通貨危機に陥り、その「テキーラ・ショック」はまたたくまにラテンアメリカ諸国、南欧諸国、アジア諸国に広まり、日本もまた1ドル=79円という超円高に襲われた。セディジョ政権はアメリカ、カナダ、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の緊急支援を背景に新自由主義経済路線を推進し、約2年間でメキシコ経済を再建した。しかし通貨危機の影響等による国民所得の減少・失業者の増加、不正選挙や汚職問題などで国民の不信感は高まり、1997年の選挙で1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)は下院で初めて過半数割れした。

 2000年の大統領選挙では野党の国民行動党(PAN)のフォックスが当選し、政権交代を実現した。フォックス大統領(在任2000~ )は前政権に引き続きマクロ経済政策を実施。アメリカの景気に左右されてはいるが、比較的安定した経済運営を行っている。しかし、税制・金融・エネルギーなど各部門の構造改革は難航し、緊縮財政を強いられている。

[丸谷吉男]

産業
鉱業

メキシコは1938年に世界初の石油国有化を断行し、国営会社ペメックスがラテンアメリカ最大の企業として一貫操業することになった。1970年代には新興石油大国に躍進したが、1980年代以降の原油価格の低下、そして重質油の比率の高さが不利に作用したため、アメリカ資本との共同精製などで活路を探っている。2004年の確認埋蔵量は146億バレル、生産量は日量341万バレルで世界有数の石油産出国である。金、銀、銅、鉛、マンガン、モリブデンなどを産出する資源大国である。

[丸谷吉男]

農牧漁業

農業は、灌漑(かんがい)施設などのインフラ(基盤)の未整備、エヒード制(土地共有制)による農地細分化と非効率、若年労働力の都市への流出などにより停滞を続け、食糧自給が困難になった。NAFTA発効(1994)から15年以内に農産物の関税が撤廃されるため、政府は憲法のエヒード条項の改正、新農地法の制定、「プロカンポ」(新農業政策)により農業の近代化に取り組んでいる。国土の約半分が牧畜に適し、長い海岸線と広い大陸棚があるにもかかわらず、牧畜、水産業の開発が遅れているため、インフラ整備、技術の近代化が急務となっている。

[丸谷吉男]

工業

1980年代の債務危機は産業政策を輸入代替から輸出振興に転換させ、ペソの下落、貿易自由化がそれを助長し、2004年には製品輸出が輸出の85%に達した。政府は国際競争力のある工業の育成を目ざし、中小企業支援、中間財工業、裾野産業の強化に力を注いでいる。製造業をリードする自動車生産台数は1995年に93万台、2005年に160万台に達し、輸出も急増している。電気・電子機器も輸出の好調を背景に成長を続け、世界的な多国籍企業の進出が目だっている。化学工業も石油化学を中心に伸びており、食品工業では加工果実・野菜、冷凍エビ、ビールが輸出に支えられて活況を続けている。紙・パルプ、印刷・出版、繊維・衣料などは輸入の自由化のために近代化を迫られている。「マキラドーラ」とよばれる輸出保税加工業の躍進は目覚ましく、2000年には約3600工場があり、織物、電気・電子部品、家具、化学品、自動車部品を生産し、約134万人が雇用された。

[丸谷吉男]

対外経済関係

貿易自由化により輸出は1990年268億ドル、1995年795億ドル、2000年1665億ドル、2004年1886億ドル(暫定)と急増し、そのうち85%を製品が占め、原油・鉱産物は12%、農産物は3%となった(2004)。輸入も1990年313億ドル、1995年725億ドル、2000年1745億ドル、2004年1972億ドル(暫定)と急増し、そのうち94%を製品が占め、農産物は3%。輸入の内訳は中間財が76%を占め、資本財、消費財は各12%である(2004)。貿易相手国は輸出ではアメリカ87.6%、カナダ1.7%、スペイン1.1%、ドイツ0.9%、日本0.6%、中国0.5%であり、輸入ではアメリカ56.2%、中国7.3%、日本5.4%、ドイツ3.6%、カナダ2.7%、ブラジル2.2%、台湾1.8%である(2004)。1994年1月1日に発効したNAFTAは15年間で貿易自由化を図ることを定めた。これによってアメリカ、カナダがメキシコの非石油品の80%に対する関税をただちに廃止したのに対し、メキシコは42%のみを廃止するとし、織物、自動車・同部品、農産物については特別ルールを定めた。また、メキシコは石油、石油化学、原子力、電力の生産、投資についての国家の支配を留保しており、サービス貿易(輸送、港湾、電信、金融)、政府調達についても規定している。1965年に導入されたマキラドーラ制度は輸出品の製造に必要な部品や原材料などを保税で輸入できるシステムであるが、NAFTAの規定により2000年11月以降認められなくなったため、政府は新たな優遇関税措置であるPROSEC(産業分野別生産促進措置)を導入した。ただし、マキラドーラ制度はNAFTA・EU・EFTAなど自由貿易協定を結んだ地域・国向けの輸出には廃止されたが、その他の地域・国への輸出には引き続き適用されている。

[丸谷吉男]

社会・文化

住民・文化

スペイン人によるメキシコ征服のあと先住民インディオとスペイン人の混血が始まり、スペイン人が連れてきたアフリカ人も混血に加わったため、1821年の独立時には総人口の59%がインディオ、40%が混血となり、純粋のスペイン人、アフリカ人はごくわずかとなった。独立後の移民は少なく、既存の人種間の混血はさらに進み、最近ではインディオ25%、スペイン系白人など15%、残余の60%は混血となっており、国是としても「混血の文化」を誇るに至っている。山間部などにはいまなお、他の人種との接触を嫌い、スペイン語よりも先祖伝来の土着語を話すインディオの少数民族が存在するが、政府は彼らに無理に同化を強制せず、保護を加えながら時間をかけて同化してゆく姿勢をとっている。公用語はスペイン語で、全人口の90%以上がスペイン語人口であるが、ナワトル語、マヤ語、ミシュテカ語、サポテカ語などを日常語とする先住民も存在する。

[丸谷吉男]

人口問題

メキシコはラテンアメリカ諸国のなかで人口抑制政策に成功した例外的な国であり、1975年に3.5%に達していた人口増加率は2005年では1.17%に低下し、かつては7、8人の子供が普通であった中間層以上の家庭でもすでに2、3人の子供が通常になっている。これは1970年代にエチェベリーア政権(1970~1976)がローマ法皇の反発を受けながら始めた家族計画が定着したこと、教育の普及が少子化を助長したことのほか、違法な中絶が増加しているためである。カトリックの総本山バチカンは「家族計画の手段としての中絶に反対する」という姿勢を変えていないが、中絶の合法化を求めるメキシコ家族計画財団などが活動している。

[丸谷吉男]

教育

教育制度は革命憲法第3条に基づき、宗教からの独立、民族主義の強調、非識字者の撲滅、初等教育の充実、革命精神を備えた教員の養成を目標としている。文部省は国家予算の配分においてつねに高い優先順位を与えられており、教育予算が国防予算を上回り、教員数が軍人数を上回っている。小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学3~7年で、小学校・中学校の義務教育は無償である。2002年の小学校在学率は99.5%、中学校在学率は62.5%。成人識字者率は90.3%(男92%、女88.7%)に向上したが、先住民人口の多い地域では識字者率は低い。2001年に高等教育機関は2539校、大学は1283校であり、メキシコ国立自治大学、国立工科大学、モンテレー工科大学、コレヒオ・デ・メヒコなどの有名校のほか、州立大学の充実ぶりが注目される。大都市では職業訓練学校、専門学校、英語学校が活況を呈しており、企業のニーズに対応しうる労働力の供給に寄与している。メキシコの北米自由貿易圏への参加の機運を背景に、国定歴史教科書が1992年、1994年と相次いで改訂され、排外的民族主義、特に反米的記述が削除されるなど論議を生んだ。

[丸谷吉男]

宗教

カトリック教会は植民地時代からメキシコの社会・文化に大きな影響を及ぼし、独立後も大土地所有を背景に勢力を拡大し、20世紀初頭にはディアス独裁政権を支える四大勢力の一つとなった。そのため、メキシコ革命以後には政府と対立し、1917年憲法の反教会条項は、「宗教的自由擁護連盟」の反乱、クリステロス戦争を誘発した。

 サリナス政権(1988~1994)は革命憲法制定以降初めてカトリック教会への規制を緩和する憲法改正を行った。従来は法人格は否定され、資産所有は禁止され、聖職者の公民権は否定され、政治的発言や政治的集会も禁止されてきたが、1992年の憲法改正により多くの規制が緩和され、聖職者の選挙権も認められた。しかし被選挙権はなお否定されている。民衆のカトリック信仰は強く、メキシコ市北部の「グアダルーペのマリア(グアダルーペ・イダルゴ)」に対する信仰は先住民の信仰とカトリック信仰の巧みな融合を示すもので、「褐色の聖母(マリア)」として知られる。

[丸谷吉男]

社会福祉

失業保険はまだ制度化されておらず、IMSS(社会保険庁)、ISSTE(公務員保険庁)、PEMEX(石油公社)、INI(先住民庁)、DIF(総合家族開発庁)などが医療その他のサービスを提供しているが、これらの対象外の者はSSA(厚生省)などの無料サービスを受けることになる。地域の発展格差、所得格差が福祉の不平等を生んでいることから、政府は貧困層への対策、地方分権化に力を注いでいる。1970年から2003年の間に平均寿命は61歳から74歳に延び、幼児死亡率は6.9%から2.8%に低下した。1996年には260万人の児童に無料朝食が、280万人の家族に無料トルティーヤ(トウモロコシ粉や小麦粉を煎餅(せんべい)状に焼いたもの)が提供され、栄養の改善が図られた。また、アメリカに居住している多くの移住労働者の社会保障が問題となっていたが、2004年アメリカとの間で社会保障協定が締結され改善が図られることとなった。

[丸谷吉男]

文化
特徴

メキシコ文化の最大の特徴は「インディヘニスモ」であり、それはディアス独裁政権の圧政に対して蜂起(ほうき)したインディオを中心とする民衆が革命を成就したときに、かつての支配者の信奉してきたヨーロッパ文化に対するアンチテーゼとしてメキシコの土着文化を再評価しようとして生まれた運動である。したがって現代のメキシコ文化は、マヤ文化やアステカ文化の流れをくむ素朴で力強い一面と諦観(ていかん)的で孤独な一面をもつ土着の要素に、スペイン風の情熱的で享楽的な要素、カトリック的な要素が融合した独自の「混血の文化」を形成しており、他のラテンアメリカ諸国の文化ともかなり異なるユニークなものとなっている。国民性は一般に明るく、人生は楽しむためにあるという考え方が支配的で、日本の江戸時代の「宵越しの金は持たない」に似た消費様式や現在を楽しく生きる風潮が強いため、貯蓄率はきわめて低い。スポーツではサッカーやボクシング、プロレスが大衆の人気を集めている。ビジネス面では「コネ」や「人脈」がものをいうことが多く、したがって血縁関係、地縁関係が尊重されるほか、名付け親を中心とする独特の「コンパドラスゴ」(儀礼的親族関係)が大きな影響力をもっている。

[丸谷吉男]

芸術

メキシコの芸術もまた革命後大きな変貌(へんぼう)を遂げた。文学では、写実主義によって社会の矛盾を描いたアスエラの『虐げられし人々』(1916)、ルイス・グスマンの『鷲(わし)と蛇』(1928)、フエンテスの『大気澄み渡る地で』(1958)などは「革命の文学」として知られる。メキシコ革命はまた美術の分野で独特の壁画運動を生み出し、リベラ、オロスコ、シケイロスの3巨匠は公共建造物の壁面に巨大な壁画を描き、革命精神を鼓吹した。政府は文部省を通じて美術の振興に力を注ぎ、メキシコ市には美術館や画廊が多く、美術愛好家を楽しませてくれる。インディオ文化がもっとも力強く継承されているのは歌と踊りの分野であり、国立民族舞踊団の「鹿(しか)の踊り」はスペインの征服以前の先住民(インディオ)ヤキ人の踊りがそのまま保存されたものといわれており、またいまなお農村に残っている「コリード」とよばれる物語歌は、毎年数百編に及ぶ叙事詩を生み出している。民族衣装に身を包んだマリアッチ楽団の演奏する「ランチェロ」とよばれる農民の歌や、アグスティン・ララの多くの愛の詩もまた国際的な評価を博している。最近の首都圏や地方都市における博物館や美術館の充実ぶりには目をみはるものがある。

[丸谷吉男]

マス・メディア

メキシコの言論・出版活動はラテンアメリカ諸国でももっとも活発であり、スペイン語圏における影響力も大きい。2000年現在、日刊紙は311紙、発行部数は925万部。主要紙には中立系の『エクセルシオール』、最古の歴史をもつ『エル・ウニベルサル』、もっとも新しい『レフォルマ』、政府系の『エル・ディア』、保守系の『ノベダーデス』、1984年創刊で左派系の『ラ・ホルナダ』、タブロイド版の大衆紙『ラ・プレンサ』、経済紙『エル・フィナンシエロ』、スポーツ紙の『エスト』、急進派の『ウノ・マス・ウノ』、英字紙『ザ・ニュース』などがある。週刊誌『ビシオン』『プロセソ』はスペイン語諸国で広く読まれている。通信社は国営メキシコ通信、テレビは公共1、商業局はテレビサなど235局あり、水準はきわめて高い。

[丸谷吉男]

日本との関係

1609年(慶長14)、上総(かずさ)(千葉県)海岸に漂着したヌエバ・エスパーニャ号の高官が徳川家康、秀忠(ひでただ)に謁見し、1613年伊達政宗(だてまさむね)が派遣した支倉常長(はせくらつねなが)らの使節団はメキシコを通過してローマに向かった。1888年(明治21)の日墨(日本・メキシコ)修好通商条約は日本にとって最初の平等条約であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17)、メキシコは連合国側の一国として宣戦布告したが、1952年(昭和27)に対日平和条約を批准し、国交を回復した。エチェベリーア大統領(在任1970~1976)は最初の外遊先として公式訪日し、留学生交換計画など文化面、経済面の交流拡大に努めた。第一次石油危機後、ロペス・ポルティーヨ政権期(1976~1982)にメキシコが巨大油田の発見により世界的石油大国に変貌(へんぼう)するなかで、石油の確保を目ざしたわが国は官民あげてメキシコに接近した。田中、大平両首相のメキシコ訪問、エチェベリーア、ポルティーヨ両大統領の訪日を機に日本の経済協力、民間投資は大幅に拡大したが、1982年にメキシコが金融危機に陥り、その後大地震、逆オイル・ショックなども加わり、デラマドリ政権期(1982~1988)には両国関係は冷却化した。サリナス大統領(在任1988~1994)は財政の再建、貿易・投資の自由化、規制の緩和、国営企業の民営化などにより、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の路線に沿った構造調整を推進した。NAFTA、APECなどに加盟し、メキシコ経済を近代化して、後継者のセディジョ大統領に政権を引き継いだ。セディジョ政権は発足直後に通貨危機に陥り、その回復に2年を要したが、1997年には経済の安定化を背景に日本を公式訪問し、橋本龍太郎総理のメキシコ訪問とあわせて両国関係は改めて友好の度を深めた。フォックス政権(2000~ )にかわっても良好な関係を築いており、2002年の日墨首脳会談で小泉純一郎首相とフォックス大統領は両国の経済連携強化のための締結交渉を立ち上げ、2004年日本メキシコ経済連携協定(EPA)に署名(2005年4月発効)した。また2003年にはフォックス大統領が日本を公式訪問し、第三国への技術協力を共同で実施するための「日・メキシコ・パートナーシップ・プログラム」が署名された。2003年現在、日系進出企業は日産自動車、コニカなど339社、在留邦人は4510人。日本の対メキシコ輸出額は2004年に51.9億ドルで、機械・設備、自動車・電機部品が中心であり、輸入額は21.7億ドルで石油、豚肉、銀などが中心である。日本は経済協力に積極的で、重油脱硫、ディーゼル油脱硫、国鉄機関車修復への円借款供与、ガソリン無鉛化、上水道整備、首都圏植林への輸銀融資のほか、無償資金協力として漁業訓練船、小学校校舎建設、漁業調査センター整備、地震防災センター設立などを行っている。技術協力では2003年度までにメキシコから5260名の研修員を受け入れ、1551名の専門家派遣を行い、青年海外協力隊員144名を派遣している。アジア諸国がメキシコとの経済交流を拡大する傾向があるなかで、日本も橋本龍太郎首相のメキシコ訪問(1996)以降、交流拡大の機運が高まり、2004年に小泉純一郎首相がメキシコ訪問の際、日墨文化サミット開催に合意(翌2005年にメキシコ市で開催)し、経済分野のみならず文化交流を含めた幅広い分野での交流が促進されている。

[丸谷吉男]

『恒川恵市著『従属の政治経済学メキシコ』(1988・東京大学出版会)』『黒沼ユリ子著『メキシコの輝き』(1989・岩波書店)』『丸谷吉男編著『メキシコ――その国土と市場』(1993・科学新聞社)』『工藤律子著・篠田有史写真『居場所をなくした子どもたち――メキシコシティのストリートチルドレン』(1998・JULA出版局)』『邸景一他著、「旅名人」編集部編『ユカタン半島――メキシコ・マヤ文明の足跡』(1998・日経BP社、日経BP出版センター発売)』『NAFTA研究会編著『新生するメキシコ産業――NAFTA効果の検証』(1998・日本貿易振興会)』『星野妙子著『メキシコの企業と工業化』(1998・アジア経済研究所、アジア経済出版会発売)』『並木芳治著『メキシコ・サリーナス革命――北米自由貿易協定に賭けた大統領』(1999・日本図書刊行会、近代文芸社発売)』『谷浦妙子著『メキシコの産業発展――立地・政策・組織』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『石黒馨著『開発の国際政治経済学――構造主義マクロ経済学とメキシコ経済』(2001・勁草書房)』『宮本雅弘編著、村上達也・白田良子他著『図説 メキシコ――混血が生む新しい民族文化』(2001・河出書房新社)』『国本伊代著『メキシコの歴史』(2002・新評論)』『工藤律子著、篠田有史写真『仲間と誇りと夢と――メキシコの貧困層に学ぶ』(2002・JULA出版局)』『加藤薫著『メキシコ壁画運動――リベラ、オロスコ、シケイロス』(2003・現代図書、星雲社発売)』『鈴木康久著『メキシコ現代史』(2003・明石書店)』『丸谷雄一郎著『変貌するメキシコ小売産業――経済開放政策とウォルマートの進出』(2003・白桃書房)』『安原毅著『メキシコ経済の金融不安定性――金融自由化・開放化政策の批判的研究』(2003・新評論)』『高山智博著『メキシコ多文化 思索の旅』(2003・山川出版社)』『野村暢清著『宗教と社会と文化2――メキシコ・カトリック村落の研究』(2003・九州大学出版会)』『山崎真次著『メキシコ 民族の誇りと闘い――多民族共存社会のナショナリズム形成史』(2004・新評論)』『国本伊代・畑恵子他著『概説メキシコ史』(2004・有斐閣)』『禪野美帆著『メキシコ、先住民共同体と都市――都市移住者を取り込んだ「伝統的」組織の変容』(2006・慶應義塾大学出版会)』『世界経済情報サービス編・刊『メキシコ(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』『山本純一著『メキシコから世界が見える』(集英社新書)』



メキシコ(市)
めきしこ
Mexico City

メキシコ合衆国の首都。メキシコ中央高原の中央部、アナワク高原に位置する。正称はシウダー・デ・メヒコCiudad de México。人口859万1309(2000)。旧市内区の12区と周辺行政区の12区をあわせたメキシコ連邦区(Mexico D. F.)を行政区とし、行政は大統領によって任命された長官による。緯度的には熱帯に属すが、高地にあるため気候は温暖で、年降水量は1266ミリメートルである。東に連なるポポカテペトル火山、イスタクシワトル火山の雪解け水に恵まれ、かつてはテスココ湖、ソチミルコ湖の広がる水郷地帯であった。周辺一帯のアナワク高原のアナワクとは、原地語で「水のある所」を意味する。人口は1970年代までは伸びが急激で、国の総人口に占める割合でみると、1940年までは8.9%であったが、50年以降は10%を超過し、78年には14.5%にもなった。これは農村部からの人口の流入によるもので、増加率も5%から7%にも達し、人口の集中化が進んだ。近郊には流入した人々が土地を不法に占拠してつくった掘立て小屋集落が広がった。しかし、その後人口集中の動きは鈍化、1990年代になると国の総人口に占める割合は10%程度を維持している。人口を就業別にみると、第1位はサービス業で38.5%。農村部出身者のなかにはメイドになる者や靴みがきなど街頭で働く者も多い。次は工業関係で31.1%、金属工業、化学・食品・織物業が中心である。都市最大の悩みは、給水、洪水、排水の水の問題と地盤沈下であるが、これは乾燥気候にあることと、湖沼地帯を干拓して都市が発展してきたこととによる。1985年の地震では、地盤が弱いため大被害を受けた。

 市街は、ソカロ(憲法広場)が官庁街の中心で、ホテル街はレフォルマ大通りにある。南西部にチャプルテペック公園があり、人類学博物館など各種文化施設が整っている。北部は工業地域で、南部にメキシコ国立自治大学を中心とする近代的な大学都市がある。高級住宅区はコロニア地区で、アパート団地は北部のノアルコに、スラム街は南部に、掘立て小屋群は外縁部にみられる。市民の生活の中心は広場と教会で、ともに社交の場となっている。広場では市(いち)が立ち、教会行事は生活のリズムである。住民の90%以上がカトリック教徒であるが、グアダルーペ寺院の褐色のマリアの信仰などは、土着宗教の要素も強い。なお、ソカロ周辺の歴史地区は1987年に市郊外の水郷ソチミルコとともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[高木秀樹]

歴史

前身はアステカ王国の首都テノチティトランで、1345年、アステカ人がテスココ湖上の小島に築いた小集落が、15世紀中ごろからアステカ人の勢力の拡大とともに発展した。1473年には北方のトラテロルコと併合し、16世紀初頭には人口数百万の王国の首都として繁栄の極に達した。当時の住民は20万~30万ともいわれ、湖上都市の中央には大神殿や宮殿が並び、東は十数キロメートルの大堤防でテスココ湖と分かたれ、北岸、西岸、南岸の諸都市とは数本の堤道で結ばれていた。しかし1519~21年のスペイン軍との戦争で破壊され、その廃墟(はいきょ)の上にスペイン人の都市メキシコ市が建設された。かつての大神殿はカテドラルやソカロに変わり、堤道の一部は道路となっている。以後、1821年の独立までの300年間、メキシコ市はヌエバ・エスパニャ副王領(メキシコ)の首都として栄えた。住民は16~17世紀は数万程度、18世紀に入って10万を超え、フンボルトは1803年の首都人口を13万7000と記している。1810年に始まる独立戦争、対米戦争、改革戦争、対仏戦争、さらに1920年に終わるメキシコ革命と戦乱が続いたが、首都はたいした破壊は受けず、住民数も1850年代の20万弱から1910年の47万余へ増大した。周辺山地の樹木伐採や牧場化による表土流出などが原因となって、植民地時代以来繰り返されていた大洪水も、1900年の大排水路完成によっていちおう解決したが、水位の低下によって湖はいっそう縮小し地盤の沈下をもたらした。

 1920年代の中央集権の確立、1930年代後半の土地改革を含む急進的な社会改革、40年代以後の工業化の進展、そして以後1970年代初頭まで続いた「メキシコの奇跡」とよばれる経済発展は、首都の急膨張を引き起こした。とくに1950年代には、南部の大学都市や中心部トラテロル大団地の建設、道路網の大改造、北部工業地帯の建設などが行われ、さらに1968年のメキシコ・オリンピックを機に地下鉄も開通した。このような近代化の反面、周辺部には巨大なスラムが広がり、交通、住宅、環境問題など深刻な都市問題を抱えている。

[野田 隆]

『山崎春成著『メキシコ・シティ』(1987・東京大学出版会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メキシコ」の意味・わかりやすい解説

メキシコ
Mexico

正式名称 メキシコ(スペイン語ではメヒコ México)合衆国 Estados Unidos Mexicanos。
面積 195万9248km2
人口 1億2727万6000(2021推計)。
首都 メキシコシティー

北アメリカ大陸最南部を占める連邦共和国。北はアメリカ合衆国,南東はグアテマラベリーズと国境を接し,東はメキシコ湾カリブ海,西と南は太平洋に面する。ユカタン半島とメキシコ湾岸低地を除くと,国土の大半は山地と高原からなり,東マドレ山脈西マドレ山脈に挟まれたメキシコ高原がその中核をなす。同高原の南縁には北緯 19°の線にほぼ沿って火山帯が連なり,ここにメキシコの最高峰シトラルテペトル火山(5700m)をはじめとする火山,高峰がそびえる。全体に標高が高いため,緯度のわりに熱帯気候に属する地域は少なく,ユカタン半島,海岸低地などにかぎられる。北東貿易風ハリケーンの影響下にあり,その風上にあたる東部から南部にかけての沿岸低地および海に面した山地斜面では雨が多く,一部に熱帯雨林が繁茂するが,国土の半分は年降水量 600mm以下の乾燥地で,メキシコ高原北部,バハカリフォルニア半島砂漠気候となっている。先住民ラテンアメリカインディアン(インディオ)と征服者スペイン人が民族的,文化的に融合して今日のメキシコを形成しており,住民のおよそ 3分の2が両者の混血メスティーソである。そのほかインディオが約 20%,白人が約 15%。公用語はスペイン語。住民の約 90%がキリスト教のカトリック。20世紀初頭のメキシコ革命後,新体制のもとにきわめて安定した政情が続き,農地改革が進展,豊かな資源と相まって経済が急速に発展した。第2次世界大戦後の人口の増加は著しく,1950~90年で 3倍以上となった。農業は第2次世界大戦後,国内総生産 GDPに占める割合が急速に減少したが,依然として基幹産業である。主要作物は国内消費用のトウモロコシ,コムギ,マメ類,イネ,輸出用のサトウキビ,コーヒー,綿花,果物,ヘネケン(繊維植物)など。牧畜も盛ん。鉱業は植民地時代以来の重要産業で,なかでも銀の生産量は世界最多。このほか蛍石,ビスマス,硫黄,石墨の世界有数の生産国であり,銅,鉛,亜鉛,金,水銀,鉄,マンガンなども産する。またラテンアメリカではベネズエラと並ぶ産油国で,石油も重要な輸出品。工業は近年著しく発展。主要工業は石油化学,食品加工,化学,自動車,電機,印刷,製紙,衣料,金属,鉄鋼など。工業発展に伴い消費財の輸入は減少したが,生産財の輸入と人口増加に伴う食糧の輸入が近年増加し,輸入超過が続いている。テオティワカン遺跡やアステカ帝国の遺跡,またカンクンアカプルコなど世界的に有名なリゾート地があるため,観光も重要な産業になっている。鉄道網,道路網ともよく発達。近年は乗客,貨物とも道路輸送が主力となってきている。山がちのため空運も盛ん。(→メキシコ史

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