カザフ族(読み)カザフぞく(英語表記)Kazakh

翻訳|Kazakh

改訂新版 世界大百科事典 「カザフ族」の意味・わかりやすい解説

カザフ族 (カザフぞく, 哈薩克
)
Kazakh

中央アジアのカザフスタン共和国と,中華人民共和国新疆ウイグル自治区の伊犂哈薩克自治州を主たる居住地とするトルコ系民族。ロシア人が誤って,キルギスあるいはキルギス・カザフと呼んだため,古い欧文文献ではそのように記されている。人口は,カザフスタンに約707万(1992),中国に101万(1988),ウズベキスタン,ロシア,モンゴルなどのカザフ族と合わせて1000万人に及ぶと推定される。元来遊牧民であるが,現在では定住生活を送る者も多い。民族名が史上初めて登場するのは,15世紀中ごろである。そのころ,ウズベクのアブー・アルハイル・ハーンに圧迫されて,キプチャク・ハーン国左翼支配した王族の後裔ジャーニーベク・ハーンJānībeg Khānを戴く遊牧集団は,シル・ダリヤ流域から西部天山北麓へと移住した。彼らはウズベク・カザクÖzbeg-Qazaq,あるいは単にカザクQazaq(放浪者,冒険者の意)と呼ばれ,ウズベクから離れた者をも吸収して,キプチャク草原(カザフスタン)に勢力を拡大していった。16世紀前半のカーシム・ハーンQāsim Khān(在位1511-23)のときには,人口30万とも100万ともいわれる大勢力にふくれあがり,やがて,西はウラル山脈,カスピ海北西岸から,東はバルハシ湖までの広い領域を版図とするにいたった。彼らは遊牧生活を営み,ハーンを頂点とする王侯が支配階級を構成した。スンナ派イスラムを信奉していたが,多分に表面的レベルにとどまっていた。慣習法とイスラム法によって律せられ,英雄叙事詩や滑稽話,純愛をささげる若きヒーローの悲劇など,口承文学を愛した。しかし17世紀には,大オルダ(バルハシ湖~シル・ダリヤ),中オルダ(カザフスタン中部),小オルダ(カザフスタン西部)に分裂し,弱体化していった。大・中両オルダは,勃興したジュンガルの勢力下にはいったが,18世紀中葉,清朝によるジュンガル殲滅(せんめつ)の結果,その名目的な藩属国となり,一部は新疆北部へ移住した。また,シル・ダリヤ流域はホーカンド・ハーン国に占拠されることとなった。一方小オルダは,中央アジアへの進出を狙っていた帝政ロシアに屈服し,ロシアは,1735年にオレンブルグ要塞を建設して,カザフスタン経営の根拠地とした。18世紀後半になると,カザフスタンは,畜産物供給地,穀物や工業製品の市場としてロシアとの経済的結びつきを強め,同時に,軍隊商人,入植者によって土地を奪われたカザフの不満は,しだいにつのっていった。プガチョフの乱は,小オルダと中オルダの一部をもまき込んだが,それに続き,1783-97年には,反ロシア暴動が勃発するにいたった。19世紀前半,ロシアは中・小オルダを相ついで直接管轄下に置き,ホーカンド軍を破って大オルダをも服属させ,1860年代には,全カザフスタンを支配下におさめた。そして,遊牧地にロシア人農民を大量に入植させ,1880,90年代には,草原地帯に500以上のロシア人,ウクライナ人の村落が出現した。また,商品貨幣経済が全般に浸透し,植民地市場,原料供給地として,ロシア経済の一環に組み込まれていったが,それはシベリア鉄道の建設(1891-1904)後とくに著しかった。1917年十月革命にいたるまで,カザフは,帝政ロシアの政治的・経済的支配を甘受しなければならなかったのである。
カザフスタン
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のカザフ族の言及

【カザフスタン】より


[歴史]
 18世紀,それまで三つのジューズ(モンゴル語でオルド。一般にオルダともいう)に分かれて遊牧していたカザフ人のうち,シル・ダリヤ以北のステップとアラル海北方の中小二つのオルダがロシアに臣属し,19世紀の60年代大オルダが併合されカザフスタンはすべてロシアの領土となった(ロシア革命以前の歴史については〈カザフ族〉の項を参照されたい)。 1913年には2万人の工場労働者,2万3000人の鉄道労働者を数えたが,まだ大部分のカザフ人は遊牧生活を続けていた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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