日本大百科全書(ニッポニカ) 「プドゥチェリ」の意味・わかりやすい解説
プドゥチェリ
ぷどぅちぇり
Puducherry
インド南部、コロマンデル海岸に面する中央政府直轄地区。2006年にポンディシェリPondicherryから改称。プドゥシェリーともいう。チェンナイ(マドラス)の南南西約150キロメートルに位置する。面積490平方キロメートル、人口97万3829(2001)、124万7953(2011センサス)。中心都市プドゥチェリ市の人口は22万0749(2001)、24万4377(2011センサス)。フランスのミッション・スクールによる教育が普及し、文字の読めない人が他地域より少なく、識字率の平均は43.4%で全インドの30%よりはるかに高い。市街地にはフランス風の建物が多く、町の景観や人々の風俗は周辺のタミル・ナド州やチェンナイと比較して西欧風であり、エキゾチックな情緒を醸し出しており、港も近代化されている。しかしインド人の貧しい労働者が町の周辺にバスティー(スラム)を形成しており、これの解決が大きな課題となっている。主要言語はタミル語とフランス語で、周辺農村ではラッカセイや綿花を産する。
[北川建次]
歴史
1672年にフランス領となり、1954年にインドに併合されるまで、インドでのフランス植民地経営の拠点となった。町がインド史上脚光を浴びるのは、インドでのイギリスとフランスの抗争が本格化する1740年代から、フランス側の敗北で終わる1761年までである。デュプレクス総督の時期(1741~1754)には、イギリスと対抗しつつインド国内政治への積極的介入政策がとられ、一時はカルナータカからデカンにまでフランスの支配が及んだ。しかし、イギリス側勢力と一進一退を繰り返しながらのたび重なる戦乱は、南インド経済を極度に疲弊させ、支配地域からの税の遅滞を生み、本国からの送金のとだえと相まって、その財政基盤を崩壊させた。町は1761年にイギリス軍に占領され、2年後にはふたたび返還されたものの、町のインド史上の重要性はすでに失われていた。
[水島 司]