プレスブルクの和約(読み)プレスブルクのわやく

百科事典マイペディア 「プレスブルクの和約」の意味・わかりやすい解説

プレスブルクの和約【プレスブルクのわやく】

ナポレオン戦争中の1805年,仏・オーストリア間にプレスブルクPressburg(現ブラチスラバ)で結ばれた和約。オーストリアは北イタリア・南ドイツ所領イタリアバイエルン等に割譲ナポレオンのイタリア支配を承認。第3回対仏大同盟は崩壊し,神聖ローマ帝国解体が決定的となった。
→関連項目アウステルリッツ会戦

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プレスブルクの和約」の解説

プレスブルクの和約(プレスブルクのわやく)
Preßburg

1805年12月,オーストリア‐フランス間に結ばれた和約。オーストリアはナポレオン国王とするイタリアにヴェネツィアイストリアダルマツィアを割譲したほか,バイエルンヴュルテンベルクバーデンなどドイツのフランス同盟国にも南ドイツの所領を割譲,またそれら諸国の完全な主権を承認。これにより第3回対仏大同盟は瓦解し,神聖ローマ帝国分解も決定的となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プレスブルクの和約」の意味・わかりやすい解説

プレスブルクの和約
ぷれすぶるくのわやく

1805年12月、プレスブルクPressburg(現ブラチスラバ)において、オーストリアとフランスとの間に結ばれた和約。ロシアと結んだオーストリアは、同年のアウステルリッツ戦い三帝会戦)でナポレオンに完敗し、第3回対仏大同盟は解体した。この和約によって、オーストリアは、ナポレオンの支配するイタリア王国ベネチア、イストリア、ダルマチアを割譲したほか、ナポレオンに味方したバイエルンにもチロールを割いた。またウュルテンベルク、バーデンに南西ドイツにおける領土の一部を割譲し、完全な主権を認めた。1806年ライン同盟が結成されて、中世以来の神聖ローマ帝国の解体は決定的になった。

[進藤牧郎]

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旺文社世界史事典 三訂版 「プレスブルクの和約」の解説

プレスブルクの和約
プレスブルクのわやく
Preßburg

1805年12月,アウステルリッツの戦いに勝ったナポレオン1世がオーストリアと結んだ条約
オーストリアはナポレオン1世のイタリア支配を承認し,ヴェネツィア,イストリア,ダルマティアを失い,ここに第3回対仏大同盟は解体した。

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