対仏大同盟(読み)タイフツダイドウメイ(その他表記)Coalition フランス語

デジタル大辞泉 「対仏大同盟」の意味・読み・例文・類語

たいふつ‐だいどうめい【対仏大同盟】

フランス革命の波及とナポレオンの大陸支配に対抗するため、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国が結んだ同盟。1793年から1815年にかけて7回にわたって結成された。

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精選版 日本国語大辞典 「対仏大同盟」の意味・読み・例文・類語

たいふつ‐だいどうめい【対仏大同盟】

  1. 〘 名詞 〙 フランス革命期から第一次帝政にかけて、革命の波及とナポレオンの大陸支配に対抗するために結ばれたヨーロッパ諸国の軍事同盟。一七九二年から一八一五年までに前後七回結ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「対仏大同盟」の意味・わかりやすい解説

対仏大同盟
たいふつだいどうめい
Coalition フランス語

フランス革命を敵視するヨーロッパ諸君侯の反革命国際リーグを根幹に、ナポレオンに敵対する軍事同盟をあわせて、この名でよぶ。欧州大同盟ともいう。

[金澤 誠]

第1回

ルイ16世の処刑を機に、1793年春にイギリス、スペインが革命フランスに干渉し、前年来すでにフランスと戦っていたオーストリアプロイセンをあわせ、さらにオランダナポリサルデーニャなどを加え、イギリス首相ピット(小)の提唱により結成された。大同盟の包囲を受け、フランスは93年秋から94年の冬にかけ、全国境で悪戦苦闘を重ねつつ、しだいに退勢を挽回(ばんかい)し、フルーリュスの勝利を飾ったのに反し、大同盟側は、ポーランド分割をめぐる諸状況や利害関係のため足並みがそろわず、95年にはプロイセンがまず脱落。スペインもフランスと和約した。そしてオランダはフランスの属領と化し、97年オーストリアもカンポ・フォルミオ条約を締結し、事実上同盟は瓦解(がかい)した。

[金澤 誠]

第2回

1799年ナポレオンのエジプト遠征を看過しえぬイギリス首相ピットは、重ねて同盟を発案し、オーストリア、ロシアトルコ、両シチリア、ポルトガルを味方に引き入れた(プロイセンは中立)。だが、ナポレオンの奮戦で、オーストリアが1801年にリュネビルの和約を結ぶと、イギリス以外の諸国が脱退し、残るイギリスも1802年にアミアンの講和に調印した。

[金澤 誠]

第3回

1805年イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン間で結ばれた。同年末のアウステルリッツの三帝会戦で、ナポレオンが勝利をあげ、プレスブルクの和約が結ばれたため、同盟も解消された。

[金澤 誠]

第4回

1806年ロシア、プロイセン、イギリス、スウェーデン間で結ばれた。プロイセンはイエナの戦いでナポレオンに敗れ、07年ティルジットの和約で、同盟は解体された。

[金澤 誠]

第5回

1806年ナポレオンの大陸封鎖に抗して、イギリス外相カニングの提唱により、オーストリア、スウェーデンの参加をみた。だが、オーストリアがワグラムの戦いに敗れて、シェーンブルクの和約を結んだため、同盟も解消された。

[金澤 誠]

第6回

ナポレオンがロシア遠征に失敗したとの報に、ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスを中心に、ほとんど全ヨーロッパの諸国が加わって1813年に結成された。そして同盟軍はパリに入城して、14年4月ナポレオンを退位せしめることに成功した。

[金澤 誠]

第7回

1815年3月、ナポレオンのエルバ島脱出を機に結成され、彼をワーテルローの戦いに破って、再起不能に陥れた。

[金澤 誠]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「対仏大同盟」の解説

対仏大同盟(たいふつだいどうめい)
Coalition

フランス革命期より第一帝政にかけてフランスに対抗するためヨーロッパ諸国間に結ばれた7回の同盟。

①〔第1次〕1792年のオーストリア,プロイセンの同盟に,翌年イギリス,スペイン,サルデーニャなどが加わって結成されたが,ポーランド分割における列強間の内部対立とフランス軍の善戦のため,プロイセン,スペインとのバーゼル和議(95年4月5日,7月22日),オーストリアとのカンポ・フォルミオ条約(97年10月17日)で解消。

②〔第2次〕1799年にイギリス,ロシア,トルコ,オーストリア,両シチリアの間に結成され,マレンゴの戦いののち,オーストリアとのリュネヴィル条約(1801年2月9日),イギリスとのアミアンの和約(02年3月27日)で解消。

③〔第3次〕1805年4月,イギリス,オーストリア,ロシア,プロイセン間で結ばれ,プレスブルクの和約(05年12月26日)で解消。

④〔第4次〕1806年ロシア,プロイセン,イギリス,スウェーデン間に結成され,ティルジット条約(07年7月9日)で解消。

⑤〔第5次〕1809年イギリス‐オーストリア間に結ばれたが,ワグラムの戦いののちのシェーンブルン和議(09年10月14日)で解消。

⑥〔第6次〕1813年ロシア,イギリス,プロイセンなど全ヨーロッパ諸国が参加して結成され,14年4月のナポレオンの退位を獲得した。

⑦〔第7次〕ナポレオンのパリ帰還に対抗して同盟が再編され,再びナポレオンを破った。

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改訂新版 世界大百科事典 「対仏大同盟」の意味・わかりやすい解説

対仏大同盟 (たいふつだいどうめい)
Coalitions

フランス革命期からナポレオン時代にかけて,フランスに対抗するためにヨーロッパ諸国が結んだ同盟。前後7回にわたり,ほとんどすべてのヨーロッパ諸国がそのいずれかに参加してフランスと戦ったが,全体を通じてこれらの同盟の中心となったのはイギリスであり,第1次から第5次まではフランスの勝利に,第6,7次はフランスの敗北に終わった。第1次は,1792-93年にオーストリア,プロイセン,イギリス,オランダ,スペインなどの間で結ばれたが,フランスとプロイセン,スペインとのバーゼル条約(1795)およびオーストリアとのカンポ・フォルミオ条約(1797)によって解消した。第2次は,98年にイギリス,ロシア,トルコ,オーストリア,両シチリアなどの間で結ばれたが,オーストリアとのリュネビル条約(1801)およびイギリスとのアミアン条約(1802)によって解消した。第3次は,1805年にイギリス,オーストリア,ロシア,スウェーデンなどの間で結ばれたが,オーストリアとのプレスブルク条約(1805)によって解消した。第4次は,06年にイギリス,プロイセン,ロシアなどの間で結ばれたが,プロイセン,ロシアとのティルジット条約(1807)によって解消した。第5次は,09年にイギリス,オーストリアの間で結ばれたが,オーストリアとのシェーンブルン条約(1809)によって解消した。第6次は,ナポレオンのロシア遠征の失敗ののち,13年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリア,スウェーデンなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第1次パリ条約(1814)によって解消した。第7次は,ナポレオンのパリ帰還(百日天下)に対して15年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリアなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第2次パリ条約(1815)によって解消した。
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百科事典マイペディア 「対仏大同盟」の意味・わかりやすい解説

対仏大同盟【たいふつだいどうめい】

ヨーロッパ大同盟とも。フランス革命期からナポレオン1世没落までの間,英国のピット(小)の指導下にフランスに対抗して結成されたヨーロッパ諸国の同盟。各国の対仏関係や戦争の帰趨(きすう)によって足並みが乱れてたびたび中断され,1793年―1815年にかけて7回結成。
→関連項目アウステルリッツ会戦アミアンの和約ウィリアム[3世]解放戦争カルノーナポレオン戦争ピット[小]フランツ[2世]プレスブルクの和約ロスチャイルド[家]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対仏大同盟」の意味・わかりやすい解説

対仏大同盟
たいふつだいどうめい
Coalitions against France

フランス革命への干渉,ナポレオン1世への対抗のため,1793~1815年にかけて5次にわたりヨーロッパ諸国が結んだ軍事同盟。 (1) 第1次 (1793~97)   1792年フランスのオーストリアへの宣戦でフランス革命戦争が勃発。 93年1月のルイ 16世処刑,ベルギー占領などをみて各国政府の態度が硬化,夏までにイギリス,ロシア,オランダ,スペイン,ポルトガル,スウェーデン,イタリア諸国がオーストリア,プロシアとともに同盟を結成した。しかし 95~97年の間にプロシア,オーストリアなどが敗れて瓦解。 (2) 第2次 (99~1802)  ナポレオン1世のエジプト遠征失敗を機にイギリスのピット (小)首相が大同盟の再建をはかり,ロシア,オーストリア,トルコ,ポルトガル,イタリア諸国が参加,プロシアは中立を保った。 1801年オーストリアは敗れてリュネビル条約を締結。また 02年イギリスはフランスとアミアンの和約を結び,解体。 (3) 第3次 (04~05)   03年戦争が再開され,ピットが同盟結成に尽力,オーストリア,ロシア,イギリス3国で成立。アウステルリッツの戦いでオーストリア,ロシアは完敗し,イギリスは孤立して瓦解。 (4) 第4次 (08~09)  ロシアが敗れ,大陸封鎖令が施行されたが,不満が諸国につのるのをみて,イギリスの首相ポートランド (公)がスウェーデン,ナポリ,オーストリアを加えて結成。オーストリアがワグラムの戦いで敗れたため崩壊。 (5) 第5次 (13~15)  ナポレオンのモスクワ遠征失敗に意気があがった諸国は,デンマーク,ザクセンなどを除き大同盟に結集,ライプチヒ,ワーテルローの戦いでナポレオン打倒に成功した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「対仏大同盟」の解説

対仏大同盟
たいふつだいどうめい
Coalition

フランス革命からナポレオン戦争にかけて,ヨーロッパ諸国が結んだ前後5回の対仏軍事同盟
【第1回】1793〜95 革命軍によるベルギー占領・国王ルイ16世の処刑を理由に,イギリスのピット(小)が首唱して結成。その間,第2次ポーランド分割でロシア・オーストリア・プロイセンが対立し,1795年プロイセン・フランスがバーゼルで和約を結んだため,同年中に瓦壊した。
【第2回】1799〜1802 ナポレオン1世のエジプト遠征失敗を機にピット(小)が結成。プロイセンは不参加,イギリス・ロシアはマルタ島で,オーストリア・ロシアは北イタリアで対立。1801年リュネビルの和で崩壊。1802年,イギリスもフランスとアミアンの和約を結んだ。
【第3回】1805 ピット(小)の提唱で成立。アウステルリッツの戦いの結果,プレスブルクの和約で解消。翌年,ピットは死亡した。
【第4回】1809 ナポレオン1世による大陸封鎖令に反抗して,イギリス外相カニングの提唱で結成。オーストリアの敗北で終結。
【第5回】1813〜15 ナポレオン1世のモスクワ遠征の失敗に乗じて結成。ロシア・オーストリア・プロイセン・イギリスを中心に,ほとんど全ヨーロッパ諸国が参加し,ナポレオンを打倒した。

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世界大百科事典(旧版)内の対仏大同盟の言及

【ナポレオン戦争】より

…この戦術は第1イタリア遠征で発見されたために,最近ではナポレオンの戦術はヨーロッパのうち起伏に富む丘陵地帯にのみ適するという限界が指摘されており,スペイン,ロシアでの失敗を考えると,この点は無視できない。 ナポレオン戦争の敵対国は先進資本主義国イギリスと大陸の絶対主義国家であるが,対仏大同盟をよく観察すると,大陸市場を守ろうとするイギリスは必ず大陸諸国の側に参戦して戦費補助を行っている。ナポレオンは対イギリス戦略としてエジプト遠征,イギリス本土上陸,大陸封鎖を計画したが,いずれも成功しなかったのは,イギリスの経済力,現実外交,海軍の優越性によるものであった。…

【ピット[小]】より

… ピットはかつて七年戦争時代に父親が実践して大きな成果をあげた戦略を踏襲し,大陸での戦闘には同盟諸国への軍事援助金の提供以外はできるかぎり介入せず,もっぱら優勢な海軍力による本土防衛と敵国の海外通商拠点あるいは植民地の攻略に重点をおいた。しかし彼の肝いりで93年に結成された第1次対仏大同盟は,予想外に強力なフランス共和国軍の反撃にあって敗北と瓦解を余儀なくされ,98年に再編成された第2次大同盟もナポレオンの軍事力に圧倒され,戦局は泥沼化した。その間国内では,フランス革命に共鳴する急進主義的な結社の言論活動が,議会外の民衆運動として広範に展開するが,議会内では革命の過激化への反発が強まり,94年以降ピット政権に対抗する野党はフォックスの率いる数十名のホイッグ残党のみとなる。…

※「対仏大同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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