フランス革命を敵視するヨーロッパ諸君侯の反革命国際リーグを根幹に、ナポレオンに敵対する軍事同盟をあわせて、この名でよぶ。欧州大同盟ともいう。
[金澤 誠]
ルイ16世の処刑を機に、1793年春にイギリス、スペインが革命フランスに干渉し、前年来すでにフランスと戦っていたオーストリア、プロイセンをあわせ、さらにオランダ、ナポリ、サルデーニャなどを加え、イギリス首相ピット(小)の提唱により結成された。大同盟の包囲を受け、フランスは93年秋から94年の冬にかけ、全国境で悪戦苦闘を重ねつつ、しだいに退勢を挽回(ばんかい)し、フルーリュスの勝利を飾ったのに反し、大同盟側は、ポーランド分割をめぐる諸状況や利害関係のため足並みがそろわず、95年にはプロイセンがまず脱落。スペインもフランスと和約した。そしてオランダはフランスの属領と化し、97年オーストリアもカンポ・フォルミオ条約を締結し、事実上同盟は瓦解(がかい)した。
[金澤 誠]
1799年ナポレオンのエジプト遠征を看過しえぬイギリス首相ピットは、重ねて同盟を発案し、オーストリア、ロシア、トルコ、両シチリア、ポルトガルを味方に引き入れた(プロイセンは中立)。だが、ナポレオンの奮戦で、オーストリアが1801年にリュネビルの和約を結ぶと、イギリス以外の諸国が脱退し、残るイギリスも1802年にアミアンの講和に調印した。
[金澤 誠]
1806年ナポレオンの大陸封鎖に抗して、イギリス外相カニングの提唱により、オーストリア、スウェーデンの参加をみた。だが、オーストリアがワグラムの戦いに敗れて、シェーンブルクの和約を結んだため、同盟も解消された。
[金澤 誠]
ナポレオンがロシア遠征に失敗したとの報に、ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスを中心に、ほとんど全ヨーロッパの諸国が加わって1813年に結成された。そして同盟軍はパリに入城して、14年4月ナポレオンを退位せしめることに成功した。
[金澤 誠]
フランス革命期より第一帝政にかけてフランスに対抗するためヨーロッパ諸国間に結ばれた7回の同盟。
①〔第1次〕1792年のオーストリア,プロイセンの同盟に,翌年イギリス,スペイン,サルデーニャなどが加わって結成されたが,ポーランド分割における列強間の内部対立とフランス軍の善戦のため,プロイセン,スペインとのバーゼル和議(95年4月5日,7月22日),オーストリアとのカンポ・フォルミオ条約(97年10月17日)で解消。
②〔第2次〕1799年にイギリス,ロシア,トルコ,オーストリア,両シチリアの間に結成され,マレンゴの戦いののち,オーストリアとのリュネヴィル条約(1801年2月9日),イギリスとのアミアンの和約(02年3月27日)で解消。
③〔第3次〕1805年4月,イギリス,オーストリア,ロシア,プロイセン間で結ばれ,プレスブルクの和約(05年12月26日)で解消。
④〔第4次〕1806年ロシア,プロイセン,イギリス,スウェーデン間に結成され,ティルジット条約(07年7月9日)で解消。
⑤〔第5次〕1809年イギリス‐オーストリア間に結ばれたが,ワグラムの戦いののちのシェーンブルン和議(09年10月14日)で解消。
⑥〔第6次〕1813年ロシア,イギリス,プロイセンなど全ヨーロッパ諸国が参加して結成され,14年4月のナポレオンの退位を獲得した。
⑦〔第7次〕ナポレオンのパリ帰還に対抗して同盟が再編され,再びナポレオンを破った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
フランス革命期からナポレオン時代にかけて,フランスに対抗するためにヨーロッパ諸国が結んだ同盟。前後7回にわたり,ほとんどすべてのヨーロッパ諸国がそのいずれかに参加してフランスと戦ったが,全体を通じてこれらの同盟の中心となったのはイギリスであり,第1次から第5次まではフランスの勝利に,第6,7次はフランスの敗北に終わった。第1次は,1792-93年にオーストリア,プロイセン,イギリス,オランダ,スペインなどの間で結ばれたが,フランスとプロイセン,スペインとのバーゼル条約(1795)およびオーストリアとのカンポ・フォルミオ条約(1797)によって解消した。第2次は,98年にイギリス,ロシア,トルコ,オーストリア,両シチリアなどの間で結ばれたが,オーストリアとのリュネビル条約(1801)およびイギリスとのアミアン条約(1802)によって解消した。第3次は,1805年にイギリス,オーストリア,ロシア,スウェーデンなどの間で結ばれたが,オーストリアとのプレスブルク条約(1805)によって解消した。第4次は,06年にイギリス,プロイセン,ロシアなどの間で結ばれたが,プロイセン,ロシアとのティルジット条約(1807)によって解消した。第5次は,09年にイギリス,オーストリアの間で結ばれたが,オーストリアとのシェーンブルン条約(1809)によって解消した。第6次は,ナポレオンのロシア遠征の失敗ののち,13年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリア,スウェーデンなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第1次パリ条約(1814)によって解消した。第7次は,ナポレオンのパリ帰還(百日天下)に対して15年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリアなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第2次パリ条約(1815)によって解消した。
執筆者:遅塚 忠躬
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…この戦術は第1イタリア遠征で発見されたために,最近ではナポレオンの戦術はヨーロッパのうち起伏に富む丘陵地帯にのみ適するという限界が指摘されており,スペイン,ロシアでの失敗を考えると,この点は無視できない。 ナポレオン戦争の敵対国は先進資本主義国イギリスと大陸の絶対主義国家であるが,対仏大同盟をよく観察すると,大陸市場を守ろうとするイギリスは必ず大陸諸国の側に参戦して戦費補助を行っている。ナポレオンは対イギリス戦略としてエジプト遠征,イギリス本土上陸,大陸封鎖を計画したが,いずれも成功しなかったのは,イギリスの経済力,現実外交,海軍の優越性によるものであった。…
… ピットはかつて七年戦争時代に父親が実践して大きな成果をあげた戦略を踏襲し,大陸での戦闘には同盟諸国への軍事援助金の提供以外はできるかぎり介入せず,もっぱら優勢な海軍力による本土防衛と敵国の海外通商拠点あるいは植民地の攻略に重点をおいた。しかし彼の肝いりで93年に結成された第1次対仏大同盟は,予想外に強力なフランス共和国軍の反撃にあって敗北と瓦解を余儀なくされ,98年に再編成された第2次大同盟もナポレオンの軍事力に圧倒され,戦局は泥沼化した。その間国内では,フランス革命に共鳴する急進主義的な結社の言論活動が,議会外の民衆運動として広範に展開するが,議会内では革命の過激化への反発が強まり,94年以降ピット政権に対抗する野党はフォックスの率いる数十名のホイッグ残党のみとなる。…
※「対仏大同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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