日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウュルテンベルク」の意味・わかりやすい解説
ウュルテンベルク
うゅるてんべるく
Württemberg
ドイツ南西部の旧ラント(州)。現在はドイツ南部、バーデン・ウュルテンベルク州の東の部分。ビュルテンベルクとも書く。面積約2万平方キロメートル。西はシュワルツワルト(黒い森)山地に接し、中央部をシュウェービッシェ・アルプ山地が走り、山地が多い。起伏のある台地は牧場、果樹園、小麦畑に利用され、良質のぶどう酒を産する。小規模な農業と絡み合って繊維、金属、機械工業が発達し、ダイムラー・クライスラー(自動車)、WMF(食器類)などの一流企業がある。おもな都市は、旧州都でいまもバーデン・ウュルテンベルク州の州都であるシュトゥットガルトのほか、ハイルブロン、ウルム、ロイトリンゲン、大学町チュービンゲンなど。メランヒトン、ケプラー、ヘーゲル、シラー、ヘルダーリン、リスト、ヘッセなどの人材を輩出した。
[諸田 實]
歴史
3世紀にアラマン人が侵入、5世紀末にフランクの支配下に入り、9世紀から13世紀までシュワーベン公領に含まれた。ウュルテンベルク家は11世紀末に確認され、13世紀なかば以来伯領として続く。髭(ひげ)のエーベルハルト伯Eberhard im Bart(1457/59―96)はチュービンゲン大学を創設(1477)、領内の貴族層と領土不分割を協定(1482)、最初の領邦令を発布し(1495)、公領に昇格した。1519年ウルリヒ公が追放されてハプスブルク家領となったが、1534年オーストリアの封主権を認めて復帰し、宗教改革を実施した。三十年戦争とルイ14世戦争で戦禍を受ける。ウュルテンベルク公フリードリヒ2世Friedrich Ⅱ(在位1797~1816)はフランス革命とナポレオン戦争の間に巧みに領土を拡大した。1805年王国となり、王女カタリーナはジェローム・ボナパルトと結婚した。次のウィルヘルム1世Wilhelm Ⅰ(在位1816~64)は憲法を制定し、中央・地方の行政を改革し、関税同盟を結んだ。バイエルンとともにプロイセン、オーストリアに対して第三のドイツを目ざしたが、1871年ドイツ帝国の一国となった。1919年新憲法を制定して議会制共和国となる。
第二次世界大戦の連合軍による占領後、1945年ウュルテンベルク・ホーエンツォレルンとウュルテンベルク・バーデンに分割されたが、52年からバーデン・ウュルテンベルク州となった。
[諸田 實]