翻訳|Baden
ドイツの南西,バーデン・ビュルテンベルク州の西辺を占める地方。ライン川東岸を南北に長く伸び,西はラインをはさんでフランスと,南はスイスと境を接している。地形はライン川がつくり出した上部ライン平原(幅30~50km,長さ280km。バーゼルからマインツまでライン上流両岸に細長く連なる)と,それと並行してライン東岸に南北に連なる山地シュワルツワルトとオーデンワルトOdenwaldがあざやかな対照をなしている。最高地点は南シュワルツワルトのフェルトベルクFeldberg山で標高1493m,上部ライン平原の平均標高は100mである。
12世紀以降ツェーリングZähring家の下でバーデン辺境伯領が形成されるが,この国は相続による分割と統合を繰り返し,16世紀以降カトリックのバーデン・バーデンBaden-Badenとプロテスタントのバーデン・ドゥルラハBaden-Durlachの2邦に整理されるが,ともにライン右岸に飛び飛びに領地をもつにすぎなかった。
ドイツの有力な領邦としてのバーデンの発展はドゥルラハ辺境伯カール・フリードリヒKarl Friedrich(1728-1811)の時代以降のことである。彼は1771年バーデン・バーデンをも相続して両邦を統合,啓蒙絶対主義の改革(農法の改善,農奴制の廃止,拷問の廃止等)を行って国の威信を高めた。そしてナポレオン時代にはフランスと結び,国土を3600km2から1万5000km2に,人口を17万5000から約100万にも増やし,なお1806年大公位を獲得,ドイツの中堅国としての地位を固めた。以後政府は新旧領土の統合の必要からも国内行政の近代化に努め,1818年憲法を発布して国家の基礎を固めた。バーデン憲法は身分制によらない選挙法など他邦より進んだ点があり,またロテックに指導された下院の活発な活動もあって,バーデンは19世紀前半にはドイツにおける立憲主義の模範国と目されていた。1848-49年の革命においてはヘッカーFriedrich Hecker(1811-81),シュトルーベ等の急進派の活動拠点になり,49年には一時共和政権が樹立されている。反プロイセン的な自由主義の気風の国であったが,70-71年の普仏戦争とプロイセンによるドイツ統一には協力している。
ドイツ帝国の時代,バーデンは国としてはとくに見るべき役割は果たしていないが,第1次大戦中ドイツ帝国最後の宰相として国制の民主化に努めたマックスMax Prinz von Baden(1867-1929)は,時のバーデン大公の従兄弟で大公位継承者であった。バーデンは1918年のドイツ革命で君主制を廃し,ワイマール共和国の一州となった。第2次大戦後バーデン北部はアメリカ占領地区に入ってビュルテンベルク・バーデン州に編入され,南部はフランス占領地区のバーデン州を形成,49年ドイツ連邦共和国成立時も2州に分かれたままであったが,51年の旧バーデンと旧ビュルテンベルクの統合に関する住民投票の結果,旧バーデン地域では統合反対票が多かったにもかかわらず,52年バーデン・ビュルテンベルク州に統合された。
農業に関しては,古来の慣習である分割相続によって農地が細分化され,経営規模も零細な農家が多いこと,また山地が多いこともあって穀作以外に各種特産物があることが特徴であろう。バーデンのブドウ酒,タバコ,ホップはよく知られ,また果物・野菜の栽培が盛んである。工業も伝統的に小規模な家内工業が広く行われ,特産品としては南シュワルツワルトの時計やフォルツハイムの装身具などが有名だが,ライン川沿いのマンハイムやカールスルーエには鉄鋼,化学,電機の近代工業も発達している。なおマンハイムとカールスルーエは,それぞれファルツ選帝侯およびバーデン・ドゥルラハ辺境伯の宮廷都市として18世紀に建設された町で,バロックの都市計画をよく示す都市として知られている。文化的にはハイデルベルクとフライブルクが古い伝統のある大学町として,またバーデン・バーデンが高級保養地として有名である。
執筆者:坂井 栄八郎
ウィーン郊外の保養地。ウィーンの森の周縁,シュウェヒャト川渓谷に位置する。人口2万3140(1981)。ローマ時代から硫黄泉で有名で,リウマチ,代謝障害に効果がある。またリウマチ研究所,鉱泉試飲館,温泉公園,市立劇場(1775,1908改築)などがある。9世紀末カロリング朝の王領地,15世紀オーストリア大公の直轄領となり,1480年市とされる。1803-34年には皇帝フランツ1世が毎夏滞在し,作家,音楽家の避暑地になった。
執筆者:木村 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの南西端に位置し、1952年以降ドイツ連邦共和国のバーデン・ウュルテンベルク州の一部となった独立国家。1112年バーデン辺境伯領として出発し、以来19世紀に成立したバーデン大公国に至るまで、ツェーリンク家が連綿として支配した。最初は領土も小さく、さらに宗教改革時代にはその発祥地となった農民戦争に悩み、国土も新教のバーデン・ドゥルラッハ、旧教のバーデン・バーデンに分裂しルイ14世時代にはその侵略に悩まされた。カール・フリードリヒ公Karl Friedrich(1728―1811)のもとで、1771年辺境伯領再統合がなり、かつナポレオンと結んで近隣諸国を併合して一躍ドイツの一強国となった。1806年バーデン大公国となりライン同盟に参加したが、ウィーン会議後も大公国の位置を確保した。自営農民と農村工業の発展に支えられて自由主義運動が発展し、18年憲法の制定、著名な学者・政治家の輩出、48年の革命での指導的役割、ドイツ国憲法闘争での拠点としての役割、革命後の憲法体制維持など、一貫してドイツでもっとも自由主義的な国であった。
プロイセン・オーストリア戦争ではプロイセンに対立したが、プロイセン・フランス戦争ではプロイセンにくみしてドイツ帝国の一員となった。1918年の革命直前、大公マックスが帝国宰相となって自由主義的改革を行ったが敗れ、バーデンも共和国となり、以後、小市民的政治風土に支えられ、自由主義者、社会民主党、カトリック教徒が提携して政府を維持した。
[岡崎勝世]
オーストリア北東部、ニーダーエスターライヒ州の都市。人口2万4502(2001)。ウィーンの森の東斜面がウィーン盆地へと移り変わる所にある温泉療養都市。15の泉源(硫黄(いおう)泉36℃)はすでにローマ時代より知られ、20世紀の二つの大戦間は観光保養の最盛期であった。第二次世界大戦後ソ連の占領期間に損傷を受けたが、現在も豊かな自然に囲まれた温泉と観光の町として栄えている。擬古典主義の建築物の保存がよく、オーストリア・ハンガリー帝国時代のおもかげが残されている。モーツァルト、ベートーベン、シュトラウス兄弟など多くの音楽家、文化人が訪れており、1803~34年にはオーストリアの皇室が夏の避暑地としていた。周囲にはブドウの産地が広がり、ワインの名産地でもある。
[前島郁雄]
スイス北部、アールガウ州の都市。人口1万6193(2001)。リマト川の谷にあり、隣接するウェッティンゲン、オーバージッゲンタール、エネトバーデン、ノイエンホーフとともに人口約5万の人口集中地区を形成する。ローマ時代からの温泉保養地であるが、19世紀に工業化が始まり、現在は大企業ブラウン・ボベリー社の電気機器工業が町の中核をなし、その従業員は隣接町村から通勤している。広域的には大チューリヒ地域(チューリヒ大都市圏)に含まれる。
[前島郁雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ドイツの西南部ライン川東岸に位置し,ナポレオン時代に領土を拡大して大公国となる。ドイツ初期自由主義の中心地で,1848年の革命には重要な役割を果たした。東隣のヴュルテンベルクとともに,現在バーデン‐ヴュルテンベルク州を形成。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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