ベネチア(読み)べねちあ(英語表記)Venezia

翻訳|Venezia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア
べねちあ
Venezia

イタリア北東部、ベネト州の州都、ベネチア県の県都で、アドリア海北岸に臨む港湾都市。英語名ベニスVenice。人口26万6181(2001国勢調査速報値)。ベネチア湾奥のベネト・ラグーン(潟湖(せきこ))に発達した砂州からなる122の小島が中心市街地の地盤であり、これらの島々は約400の橋で結ばれている。それらの橋の一つリアルト橋は、16世紀に木造橋を石組みに改造したもので、アーケードがついた形が美しく、観光名所となっている。市内には176の運河が縦横に走り、有名な大運河(カナル・グランデ)が市内を北西から南東にS字形に貫き、「水の都」「潟湖の都市」とよばれる世界屈指の観光都市となっている。1987年にベネチアとその潟は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[藤澤房俊]

交通

島々には至る所に曲がりくねった道が通ずるが、狭小で水路に遮られるため自動車は通行できない。主要な交通路は運河で、交通機関はモーター・ランチと、長さ約10メートル、幅1.5メートルほどのゴンドラである。本土の重化学工業地区メストレMestreと島々とを結ぶ長さ4キロメートルの鉄道が1846年に開通し、その鉄道沿いに1932年開通の自動車道路が通じる。メストレ北東に、1960年に開港した2750メートルの滑走路をもつマルコ・ポーロ空港があり、イタリア各地と結んでいる。また沖合いの砂州上の市街リドには観光客専用の小さな空港もある。中世以来、東西貿易の中継港として発展し、現在もイタリア六大港の一つで、多くの商船が寄港する。

[藤澤房俊]

産業の発展と地盤沈下問題

主産業はガラス製品、宝石、大理石細工、陶器、皮革製品、レース織物などの手工業品の製造である。とくに、11世紀以来、市の北1.6キロメートルに位置するムラーノ島でつくられるベネチア・ガラスは、伝統的な形を維持しつつ最新のデザインや技術をも取り入れ、世界のガラス工芸をつねにリードしている。また大運河の出口に位置するビザンティン・ロマネスク様式のサン・マルコ大聖堂や、かつてベネチア共和国政庁であったドゥカーレ宮殿などの歴史的建築物、アカデミア美術館所蔵のベネチア派の絵画など観光資源は豊富であり、美しい運河の景観と相まって、観光産業は盛んである。市の財源は、観光事業からの収入も大きいが、メストレを中心とする対岸部の化学、冶金(やきん)、製鉄、石油精製、機械製造、造船などの産業に依存している。しかし、工業の著しい発達によって大気や海水の汚染や地下水くみ上げによる地盤沈下が進んだ。とくに地盤沈下の被害は深刻で、サン・マルコ大聖堂の広場は冬季にしばしば浸水し、1966年11月の大風雨の際は全市が水浸しとなった。地盤沈下防止のために市内の井戸水のくみ上げが禁止され、飲料水は市の北西32キロメートルのカステルフランコ・ベネト近くのサンブロージオ・ディ・グリオから送水されている。

[藤澤房俊]

文化・教育

市の東部に位置する現代美術展会場でのベネチア・ビエンナーレ展やベネチア国際映画祭などの文化活動は活発で、それを目的に訪れる外国人も多い。毎年7月末には、飾りをつけた舟が運河を行進するフェスタ・デル・レデントーレ、9月に大運河で行われるレガータ・ストーリカ(ゴンドラの競漕(きょうそう))など、有名な行事もある。1868年創設のベネチア大学は、この町の歴史的伝統を受け継いで東洋研究が盛んで、日本学科もある。

[藤澤房俊]

歴史

5~7世紀、イタリア北部に侵入した西ゴート人、フン人、ランゴバルド人からの避難所として、アドリア海北辺のあちこちの潟地にアクィレイアなど北部諸都市の住民が移住し、先住の漁民とともにいくつかの都市的集落を形成した。混乱のなかで独立性を高めたこの諸集落は一種の連合体を形成し、697年には1人のドージェ(首長)をもった。塩・魚の販売や貿易で富を得たこの連合体の支配をめぐり、ビザンティン帝国フランク王国とが対立した。8世紀末、後者の攻撃を受けたこの連合体は防衛のため首府をマラモッコからリアルトに移した。この潟中の小島とその周辺の無数の小島の上に形成・発展した都市がやがてベネチアとよばれた。

 810年のビザンティン、フランク、東西両国の条約で、ベネチアはビザンティン帝国に帰属するが、フランク王国との貿易権をもつこととなり、東西貿易の中心となる準備が整った。9、10世紀、ベネチアはアドリア海北辺の競争相手たる海港都市コマッキオを打倒し、また航路として重要なダルマチア沿岸に覇権を樹立した。11世紀、弱体化したビザンティン帝国の要請でアドリア海南辺の海上防衛を引き受けたベネチアは、代償として帝国内での広範な貿易特権を得た。同時に東地中海にも進出して各地のイスラム教徒と貿易していたが、十字軍がシリアに進出すると、十字軍への援助の代償としてそこでの貿易特権を得た。ベネチアは、こうした貿易で得た富と力を背景に、13~16世紀の間、国際政治の場で重要な役割を果たした。だが17世紀には、イギリスなど北西ヨーロッパ諸国の地中海貿易への進出により、ベネチアは没落した。ついで、世界貿易の大動脈から外れて後進地域となってしまった地中海周辺の、自由かつ洗練された歓楽的な雰囲気で名高い一小国として18世紀を迎えた。

 イタリアに侵入したナポレオン1世は、1797年ベネチアを占領して長く続いた共和制を廃止させ、オーストリアに移譲した。1805年ナポレオン支配下のイタリア王国に帰属したが、1815年オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国に帰属した。1861年統一イタリア王国が成立したが、オーストリアによる支配のため、ベネチアはそれには参加しえなかった。プロイセン・オーストリア戦争でオーストリアが敗北すると、1866年人民投票により統一イタリア王国に編入された。その際、従来ベネチアの付属領土だったイストリアやダルマチアがオーストリア領にとどまり、「イタリア・イレデンタ」(未回収のイタリア)として問題化した。

 第一次世界大戦後、港湾施設や産業の近代化が進められ、第二次世界大戦後、世界的観光地になる一方、中世そのままの都市と近代生活との調和を目ざす努力が続けられ注目されている。

[斉藤寛海]

『マクニール著、清水廣一郎訳『ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ 1081―1797』(1979・岩波書店)』『ブローデル著、岩崎力訳『都市ヴェネツィア――歴史紀行』(1986・岩波書店)』『F. C. Lane ed.Venice, A Maritime Republic(1973, The Johns Hopkins University Press, Baltimore and London)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア
Venezia

イタリア北東部,アドリア海北西岸にあるベネト州の州都,港湾都市。ベネチア県の県都でもある。英語ではベニス Venice。ベネチア湾奥の潟湖の多数の島からなり,約 400の橋によってつながれる。市街地を二つに分ける大運河があり,そのほか 200あまりの運河が発達,「水の都」と呼ばれる。 567年頃ロンバルディアからの避難民が湾のほとりに集落をつくったことに始まる。7世紀末に共和政総督 (→ドージェ ) 下に統一。初めはビザンチン帝国の支配下にあったが,十字軍の活動の結果貿易の中心となり,1381年ジェノバを破り,14~15世紀にはベネチア共和国として繁栄の頂点に達した。しかし,オスマン帝国の攻勢の激化と周辺諸国との戦争,さらに大航海時代以後東西貿易の主要港としての地位を喪失したことなどにより衰退が始まり,18世紀末にはナポレオン1世が占領,1866年イタリア王国に併合された。最盛期には多くの芸術家が集まり,絵画ではベネチア派が興り,17世紀にはオペラなどバロック音楽の中心地となった。宝石,工芸品の製造,繊維工業が盛んで,ガラス工芸 (→ベネチア・ガラス ) は特に有名。対岸のマルゲラ港付近のメストレ地区には化学,冶金,製鉄,機械製造,造船,石油化学などの近代工業が興り,公害が問題となっている。湿気と地盤沈下もまた問題化している。ローマ,フィレンツェと並ぶ観光地でビザンチン建築の代表サン・マルコ大聖堂などの名所が多い。 1987年世界遺産の文化遺産に登録された。人口 27万884(2011推計)。

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