目次 地理 歴史 バイエルン大公国の成立 ドイツ・神聖ローマ帝国 とバイエルン 領邦国家バイエルン 王国から〈自由国〉へ 文化 ドイツ南部の州(ラント)。英語ではババリアBavaria という。面積7万0549km2 は最大。人口は1244万(2004)。
地理 現在のバイエルンは州都ミュンヘンを中心とする古来のバイエルン地方(東南~東部)と,19世紀初頭バイエルンに帰属したフランケン (北部),シュワーベン (西南部)の両地方とから成る。オーストリア,チェコと境を接する。州の中央を西から東に流れるドナウ川の南は,アルプスに続く高原地帯,北は丘陵性の山地で,その北部を流れるマイン川は西方でライン川に合流する。標高は,ドナウ川沿岸で350m前後,ミュンヘン周辺で約500m。森林が全土の約1/3を占める。伝統的に農林業が盛んで,ドナウ平野部の麦類やサトウダイコン ,アルプス地方のチーズ,バター,またマイン地方のブドウ酒が有名。商工業の中心は,中世以来の手工業の伝統を誇るニュルンベルク (機械,電機),宗教改革前後の豪商フッガー家で名高いアウクスブルク (繊維,機械),そして州都ミュンヘン 。とりわけミュンヘンは,西ベルリンから移転したジーメンス会社 (電機)を中心に州最大の工業都市へと発展した。同市のビールは〈オクトーバーフェストOktoberfest〉とともに名高い。風光明媚のアルプス山地,中世都市の面影を濃く残すロマンティッシェ・シュトラーセ ,ルートウィヒ2世 のノイシュワンシュタインNeuschwanstein城など,観光資源にも富む。
歴史 バイエルン大公国の成立 アルプス以北の高原地帯には,紀元前1千年紀の半ば以降ケルト人が住み,ドナウ川流域の大都市マンヒングをはじめ,ここにもラ・テーヌ文化 が栄えていた。紀元前15年のローマによる征服以後は,レーゲンスブルク が,ドナウ川以北に進出したゲルマン人に対する要塞都市として,またアウクスブルクが,ローマに通じる街道の要地として発達した。バイエルン部族 の名が初めて歴史に登場するのは,ゲルマン民族大移動の末期,6世紀中葉のことであるが,その由来については,ボヘミア方面からこの地に移住したゲルマン人の一派とする説,ゲルマン人と並んで基層としてのケルト人(およびローマ人)を重視する説など,諸説がある。部族大公国バイエルンは,6世紀半ば,西から迫るフランク王国 と,西ローマ帝国の継承者を自負するイタリアの東ゴート王国との国際的角逐の中で,征服者フランク国王の手で設置された。大公アギロルフィング家 Agilolfingerは,フランク王国の最前線に位置し,しばしば国王に似た独立的な地位を占めた。国内でも,教会網の拡充とそのフランク支配からの独立に努めた。8世紀には,大公や貴族が競って修道院の建設を行ったが,これを通して広大な森林地帯の開墾も大いに進んだ。
ドイツ・神聖ローマ帝国とバイエルン フランク王国のカール大帝によるタッシロ3世 の罷免(788)とともに,アギロルフィング家の支配は終わる。カロリング朝 の支配下では大公はおかれず,バイエルンは国王直轄州の地位に落とされた。しかし,バイエルンの4司教管区(パッサウ,レーゲンスブルク,ザルツブルク ,フライジング )が798年,王国東南方のスラブ人地域への布教活動の拠点としてザルツブルク大司教管区へと統括されたことは,バイエルンの一体性の保持に大きく寄与することとなる。9世紀レーゲンスブルクは,東フランク王国の首都として,また東方との交易の中心地として栄えた。
同王国の弱体化した10世紀初頭,バイエルンの貴族たちは,マジャール人 の侵攻に対し共同して立ち向かい,907年には,その先頭に立ったケルンテン辺境伯ルーイトポルトの子であるアルヌルフArnulf von Bayern(?-937)を大公に選出した(新部族大公国バイエルンの起り)。アルヌルフは,ザクセン大公ハインリヒ(1世)とドイツ国王の位を争って敗れたが,バイエルンにおける司教叙任権の保持は認められた。このことは,ドイツが貴族の勢力の強い諸部族大公国から成る王国として成立したことを象徴的に示している。そしてバイエルンは,ザクセン朝(第2代オットー1世 以来神聖ローマ帝国皇帝)およびフランケン朝のもとで再び国王(皇帝)直轄州としての性格を強めつつも,大公国としてのその一体性は保持された。
領邦国家バイエルン 1156年,ドイツ各地における領邦国家形成の動きの中で,シュタウフェン朝 のフリードリヒ1世(バルバロッサ )は,オーストリア辺境伯領をオーストリア大公国としてバイエルンから分離独立させた。これによってバイエルンは東への発展の道を閉ざされ,内国と化した。次いでフリードリヒ1世は,1180年,名門ウェルフェン家 のハインリヒ獅子公 を追放し,ウィッテルスバハ家Wittelsbacherのオットーをバイエルン大公に任命した。同家は,前世紀の半ば以降バイエルンの各地で一円的な領域権力(ランデスヘルシャフト )の建設に乗り出していた新興貴族に属し,各地に勢力を張る大小の貴族と激しい競合関係にあった。しかし同家は,各地に都市を建設して支配の拠点および財政源とするとともに,有力な家系の断絶が相次ぐと,大公権限を行使して強大な家領の形成と裁判権の集積を推し進め,13世紀の半ば過ぎには領邦国家バイエルンの確立に成功する(ちなみに,バイエルンの紋章の菱形はボーゲン伯家,獅子はウェルフェン家に由来する)。しかしそのとき,大公兄弟の間でバイエルンの分割が行われ,以後上・下バイエルンなど2~4の分国から成るバイエルン分国の時代が2世紀半も続いた。13世紀の末には,選帝侯 の地位も喪失する。国内でも,中小の地方貴族が,聖職者や都市も加わった領邦議会Landtagの租税協賛権の確立を通して国(ラント)の政治に対する発言権を獲得するとともに,自分たちの所領〈ホーフマルク〉に対する下級裁判権を確保することに成功する。
15世紀になると,アルブレヒト4世を先頭とした大公側は,貴族の同盟の動きを抑える一方,領邦内の修道院・教会への支配権の確立を進めた。そして16世紀初頭には,分国体制を解消してバイエルンの一体性を回復する。大公が国内のアルプス地方の岩塩の生産を独占し,財政基盤を強化したのもこのころのことである。バイエルンが宗教改革の激動に際しカトリック国にとどまったのは,ひとえに,この成立途上の領邦絶対主義が,都市の市民や地方の貴族また農民の間の宗教改革への動きを,イエズス会 と提携しつつ抑え込んだからであった。こうして反宗教改革の砦となったバイエルンは,三十年戦争におけるマクシミリアン1世 の功績によって選帝侯の位を回復(1623),かつ上ファルツ地方(現,バイエルン州東北部)を獲得する。しかしバイエルンは,この戦争で繰返し戦場となり,その後もスペイン継承戦争,オーストリア継承戦争 に力を傾けた結果,国力は疲弊した。
王国から〈自由国〉へ 1777年バイエルンは,家系断絶の結果,同じウィッテルスバハ家たるライン地方のファルツ選帝侯家の継ぐところとなった。ナポレオン戦争 が起こると,フランスと結び,1806年王国となった。この間,フランケン,シュワーベン地方で領土を大幅に拡大し,13年の解放戦争では反ナポレオンの側に転じて領土を保持した。初代国王マクシミリアン1世(選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフ)Maximilian Ⅰ(選帝侯1799-1805,バイエルン国王1806-25)のもとで近代国家バイエルン建設を進めたのは,モンジェラ伯をはじめとする多く〈新バイエルン〉出身の官僚たちであり,18年の欽定憲法は,議会の開設によって新旧バイエルンの統合に大きく貢献した。しかし中世以来帝国司教,帝国都市,帝国騎士が割拠して来たフランケンをはじめ,もともと〈帝国(ライヒ)〉意識が強く,またプロテスタント の数も多かった新バイエルン諸地方では,この時期,反バイエルン王国の地方意識の醸成も進んだ。
ルートウィヒ1世を退位に追い込んだ1848年の革命(三月革命または48年革命)の結果,マクシミリアン2世Maximilian Ⅱ(在位1848-64)のもとで,選挙法の改革,領主裁判権とホーフマルクの廃止,農民の封建的諸負担の有償廃止が行われた。48年革命の中で大きく浮かび上がったドイツ統一問題では,バイエルンは,ドイツ連邦内の中小諸邦を結集して強国プロイセン ,オーストリアと伍そうとし,普墺戦争ではルートウィヒ2世のもとでオーストリアにくみして敗れた。次いでプロイセン主導の普仏戦争に参加,軍隊・鉄道等について独自の留保権をもつ王国としてドイツ帝国(第二帝政)の一角を構成した。しかし,カトリックの〈旧バイエルン〉地方を中心に反プロイセン,親オーストリアの空気は根強く存在し,連邦主義的な中央党 の重要な地盤となった。他方,〈新バイエルン〉地方を主要な地盤とする自由派は,帝国宰相ビスマルクと結ぶバイエルン官僚政府の議会での支柱を形成した。
90年代にはいると,修正主義的なフォルマル を指導者とするバイエルン社会民主党の発展,中央党から自立してバイエルン農民同盟を結成した農民たちの下からの運動の展開,そしてこれと対抗しつつハイムGeorg Heim(1865-1938)の指導下に躍進を遂げたキリスト教 農民協会を中心とする中央党左派の台頭があり,第1次大戦の前夜には,中央党や自由派のなかの保守勢力の総結集を背景に初の中央党首班(ヘルトリング )内閣が成立する。ハイムをも抑えて形成されたこの体制に対して,またプロイセンの軍部・重化学工業界主導下の大戦遂行と戦時経済に対して,バイエルンの労働者や農民の不満はしだいに高まった。兄カールは中央党左派から農民同盟左派へ,また弟ルートウィヒは社会民主党から独立社会民主党へと動いたガンドルファーGandorfer兄弟の反戦平和派としての台頭は,その最も急進的な形での表現であった。
1918年11月,独立社会民主党のアイスナー の指導のもとに,ミュンヘンでベルリンに先がけて革命が勃発,バイエルンは〈自由国〉となった。しかし,中央集権化がいっそう進んだワイマール共和国 では,バイエルンもドイツの一州としての性格を強めた。19年4月のレーテ共和国 ,次いで23年11月のミュンヘン一揆 と,左右に大きく揺れたバイエルンの政治は,その後,保守的・復古的で分邦主義的なカトリック政党バイエルン人民党の担当するところとなった。しかし,世界恐慌期におけるナチスの躍進は,バイエルンのカトリック農村地域でも著しかった。第三帝国では,〈強制的画一化〉によって,独自の政治的存在としてのバイエルンは消滅する。
第2次大戦後,バイエルン(ファルツを除く)はアメリカ軍の占領下におかれ,46年州憲法を制定,49年ドイツ連邦共和国 の成立とともにその一州となった。第三帝国の崩壊後東ヨーロッパから流入した多数のドイツ人難民は,南欧,南東欧からの出稼ぎ労働者とともに,戦後におけるバイエルンの著しい工業発展の重要な起動力となった。〈自由国バイエルン〉では,キリスト教社会同盟(キリスト教民主・社会同盟 )がバイエルンにおける分邦主義的な宗教政党の長い伝統を受け継ぎつつ,ほぼ一貫して政権の座を占めている。
文化 バイエルンは,ヨーロッパの建築の歴史のあとを豊かにとどめている。ドナウ川にかかるレーゲンスブルクの12世紀の石橋,ニュルンベルクの〈皇帝城〉,レーゲンスブルクのゴシック大聖堂,またニュンフェンブルク離宮をはじめとする各地のバロック式宮殿などがその代表である。宗教改革の前後には,都市文化の発達したフランケン地方にすぐれた彫刻家,画家が輩出した(ニュルンベルク出身のデューラー,ビュルツブルク出身のリーメンシュナイダーなど)。他方,宗教改革後もカトリックにとどまったバイエルン地方では,バロック風のはなやかな祭儀が重んじられ,宗教的色彩の濃い生活慣習は,農村を中心に今日まで生き続けている。主都ミュンヘンは,絶対主義時代以来の宮廷文化の伝統を基盤として,ドイツにおけるオペラや絵画の中心地の一つとなり,20世紀初頭には表現主義絵画運動の舞台ともなった。ワーグナーのオペラは,ルートウィヒ2世の存在と分かちがたく結びついており,シュタルンベルガー湖畔でのその死にちなんだ小説に,森鷗外の《うたかたの記》がある。 執筆者:三宅 立