ホーファー(読み)ほーふぁー(その他表記)Andreas Hofer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホーファー」の意味・わかりやすい解説

ホーファー
ほーふぁー
Andreas Hofer
(1767―1810)

チロールオーストリア)の愛国者。旅館主であったが、1809年、オーストリアとフランスとの戦い(ナポレオン戦争)に際して、ナポレオン1世に協力したバイエルン軍のチロール支配に反抗人民蜂起(ほうき)を指導し、同年4月から5月にかけて数次にわたる戦闘に勝利を収め、6月の休戦後も、チロールを放棄しないというオーストリア皇帝フランツ1世(在位1804~35)の親書に励まされて抵抗運動を続行。8月にはフランス・バイエルン連合軍をイーゼル山に破った。10月ナポレオンの勝利の結果締結されたウィーンの和約ののちも、ホーファーは戦闘を敢行したが敗れ、アルプス山中に潜行中、密告により捕らえられ、翌年1月銃殺された。のち国民的英雄としてたたえられた。

[中井晶夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホーファー」の意味・わかりやすい解説

ホーファー
Hofer, Andreas

[生]1767.11.22. 南チロル,サンレオナルド
[没]1810.2.20. マントバ
オーストリア,チロルの愛国者。 1805年にナポレオン戦争の結果,チロル地方のバイエルン帰属が決定したが,ホーファーはオーストリア復帰を望んで反抗。 09年1月ウィーンに行きオーストリア軍の援兵を請い,チロルの民兵を指揮してバイエルンやイタリア,フランス軍を破った。しかしオーストリア軍は敗退し,ホーファーはインスブルック近くのインゼル山を根拠地とし再度バイエルン軍を破り,同年 10月のウィーンにおける和議後も反抗を続けたが,10年1月ナポレオン軍に捕われ,マントバで処刑された。

ホーファー
Hofer, Karl

[生]1878.10.11. カルルスルーエ
[没]1955.4.3. ベルリン
ドイツの画家。カルルスルーエで H.トーマに絵を学び,ローマ,パリを旅行。パリでセザンヌ関心をもつ。 1909年新美術家協会の一員となり,ミュンヘンでの第1回展に出品。 09,11年の2度にわたるインド旅行ののち,18年ベルリン・アカデミー教授,45年ベルリン高等造形美術学校校長。単純な形態と色面の対比による表現主義的画風が特徴。第2次世界大戦中のベルリン空襲で作品の大半が失われた。

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