セザンヌ(読み)せざんぬ(英語表記)Paul Cézanne

日本大百科全書(ニッポニカ) 「セザンヌ」の意味・わかりやすい解説

セザンヌ
せざんぬ
Paul Cézanne
(1839―1906)

フランスの画家で、近代美術史上の巨匠の一人と目される。南フランス、エクサン・プロバンスの富裕な家庭に1月19日に生まれる。少年時代以後、ずっとエミール・ゾラと交友があった。父の希望でエクス法科大学に進むが、改めて画家となる決意をし、1861年初めてパリに出る。以後のほぼ10年間が初期にあたる。この間に美術学校の入試に失敗、民間の画塾アカデミー・スイスに通ってピサロやギヨーマンを知り、やがてモネやルノワールとも交わる。この交友のなかでドラクロワクールベ、マネなど反官展的な立場の革新的な傾向に開眼し、厚くて重苦しいマチエール静物画、肖像画などを描く。『黒大理石の置時計のある静物』や『アシル・アンプレールの肖像』が代表的である。

 プロイセン・フランス戦争とパリ・コミューンの動乱期をマルセイユに近い漁村エスタックで過ごしたセザンヌは、1871年秋以降ピサロとの交友を復活、オベールやポントワーズで制作しながら印象主義の原則を教わる。オベールの医師ガッシェPaul Ferdinand Gachet(1828―1909)との友情も重要である。1874年第1回印象派展に当時の力作『首つりの家』など3点、1877年の第3回展に『ショケ像』など16点を出品して、印象派の中核的なメンバーの一人となる。初期作品と比較して画面はより小さく、しかしより明るくなり、筆触も小さくていねいに与えられ、ときには入念な色調分割も行われる。文学的な主題にかわって水浴図が登場したこと、視覚が冷静かつ客観的なものになったことも注目すべき変化である。以後セザンヌは印象派展に参加しなくなる。二度の出品に対する世評が芳しくなかったのと、サロン応募に関して印象派内部からの批判があったためである。むしろ彼は豊かな印象主義体験を基礎として「美術館の諸芸術のようにより堅固でより永続的な」芸術を樹立しようと考える。その努力が正面きって展開されるのが1880年代のことである。

 1880年ごろ以降、自画像と夫人像が多くなる。水浴図も男女別々の構図で継続的に描かれ、『青い花瓶』に代表される静物画も色彩の美しさ、マチエールの変化、構図上のくふうなどの点で注目に値する。『エスタックの海』『松の木のあるサント・ビクトワール山』などの連作も、南フランスの明るくおおらかな大空間を平面性と奥行とのいずれをも犠牲にすることなく、みごとに把握した作品群である。この前後セザンヌは初期と同じくパリとエクスを往復しながら制作を続ける。1886年は、ゾラの小説『制作』の発表による二人の友情の終わり、妻オルタンスHortence Fiquet(1850―1922)との正式な結婚、父の死などによって重要な年である。ときに印象派の仲間たちと会いはするが、まったく作品を公表しないので、世間からはしだいに忘れられ、若干の人々だけが作品をタンギー爺(じい)さんJulien Tanguy(1825―1894)の店で見ることができた。だが、この店を通じて、セザンヌの影響はまずゴーギャン、E・ベルナール、そしてナビ派へと及んでゆく。

 1890年から数年の間に『赤いチョッキの少年』や『トランプをする人びと』などの連作、『温室のセザンヌ夫人』といった名作が次々と描かれる。1895年末に画商のボラールAmbroise Vollard(1866―1939)がパリで開いたセザンヌ展は当時の若い画家たちを驚倒させた。印象派に発しながらもっとはるかに知的で、しかも新鮮な野性味あふれるセザンヌ芸術が初めて世に知られ始め、ピサロやドガなども感動を抑えきれないほどであった。この前後からセザンヌは水彩画を多作するようになる。制作が簡便なためと色彩の透明感のせいで、さらに水彩の技法の作用が油絵にも現れるようになる。絵の具は薄くのばして塗られ、薄い絵の具の層が複雑に重なり合ってきらきらと輝くダイヤモンド・カットのような効果をみせる。油絵でも水彩でも塗り残しの余白が多くなるが、その余白さえ一種の表現力をもって有効に働く。晩年の作品の多くにみられるこの技法は、物の形を複数の視点からみる構図上のくふうと相まって、キュビスムや抽象美術などに甚大な影響を及ぼした。20世紀美術はゴッホやゴーギャン、スーラらから受ける以上に、セザンヌに多くの不可欠のものを負っているといっても過言ではない。1901年、エクス郊外のローブアトリエを建て、名声もあがり訪問者も増えたが、1906年10月15日、戸外で制作中に雷雨にあって昏倒(こんとう)、22日に死去した。

 今日セザンヌの作品はニューヨークのメトロポリタン美術館やパリのオルセー美術館をはじめとして世界中の美術館に分蔵、陳列されており、日本でも東京、倉敷、広島などで十数点が公開されている。

[池上忠治]

『ジョン・リウォルド編、池上忠治訳『セザンヌの手紙』(1982・美術公論社)』『渡辺康子解説『25人の画家 セザンヌ』(1980/新装版・1995・講談社)』『アンリ・ペリュショ著、矢内原伊作訳『セザンヌ』(1963/新装版・1995・みすず書房)』



セザンヌ(年譜)
せざんぬねんぷ

1839 1月19日、南フランス、エクサン・プロバンスに裕福な帽子商の長男として生まれる
1852 生地エクスの中学校に入学。ここでゾラと知り合う
1858 11月、大学入学資格を得て、エクスの法科大学に入学。のち中退
1861 4~9月、画家となるために、初めてパリに出る。アカデミー・スイスに通う。ここでピサロ、ギヨーマンと知り合う。その後パリとエクスに交互に暮らす
1869 ほとんどパリで過ごし、のちに妻となるオルタンス・フィスケを知る。『黒大理石の置時計のある静物』(~1870年)
1872 1月4日、息子ポール誕生
1873 オベール・シュル・オワーズでピサロらと制作。印象主義を教えられる。『首つりの家』制作
1874 第1回印象派展に出品
1875 『ショケ像』制作
1876 『エスタックの海』制作。しだいに印象主義的傾向を深める
1877 第3回印象派展に出品したが、悪評を受け、以後同展には不参加
1882 2月、サロンに初入選
1883 以後主としてエスタックで制作。『青い花瓶』(~1887年)
1885 8月、エクスとガルタンスに住む。『松の木のあるサント・ビクトワール山』の連作はじまる
1886 4月、ゾラの小説『制作』が発表され、ゾラとの友情が終わる。オルタンスと正式に結婚。10月、父が死去、莫大な遺産を残す
1890 『赤いチョッキの少年』(~1895年)
1891 『トランプをする人びと』連作に着手
1895 11~12月、ボラールにより初の個展開催。好評を得る
1898 『大水浴図』(~1905年)
1899 アンデパンダン展に初めて出品し、名声が急速に高まる
1905 サロン・ドートンヌに『大水浴図』ほか10点を出品。論議をよぶ
1906 10月15日、戸外で制作中、雷雨にあい、肺炎にかかる。10月22日死去

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セザンヌ」の意味・わかりやすい解説

セザンヌ
Cézanne, Paul

[生]1839.1.19. エクサンプロバンス
[没]1906.10.22. エクサンプロバンス
フランスの画家。後期印象派の代表者として 20世紀の絵画に多大な影響を与えた。初め銀行家の父の希望で法律を学んだが,中学時代以来の友人の小説家エミール・ゾラのすすめで 1861年にパリに出,美術研究所アカデミー・スイスで裸婦デッサンを学んだ。ここでのちに印象派を形成したアルマン・ギヨーマン,カミーユ・ピサロと知り合う。美術学校の入試に失敗,失望して一時エクサンプロバンス(エクス)に帰るが,翌 1862年末,画家となる決意のもとに再びパリに出た。クロード・モネ,アルフレッド・シスレー,ピエール・オーギュスト・ルノアールらと交遊。ウジェーヌ・ドラクロア,ギュスターブ・クールベに感銘を受けた。1870年までパリ,エクス間を往復しつつ制作を続けた。この頃の作品はパレットナイフで暗重な色調を厚く盛り上げ,明暗,色彩の強いコントラストで量感を強調したものが多く,ロマンティク時代と呼ばれる。1872年ポントアーズで制作中のピサロに招かれ,ピサロの影響で明るい色彩による風景画を多く制作。1874年の第1回印象派展に『首吊りの家』(1872,オルセー美術館)など数点を出品。1870年代はセザンヌが印象派に最も近づいた時代である。1878年に印象派から離れてエスタック,エクスにおもに滞在し,孤独のうちに制作を続けた。この頃から印象派の作風が,対象を光のなかに溶かし込み,画面の奥行を浅くしていることに反対し,「印象派を堅固なものにする」ことを心がける。後期構成的時代と呼ばれる時期で,比較的大きな筆触によって自然の基本的形態をとらえ,空間を面によって構成する独自の画風を確立した。1895年画商アンブロアーズ・ボラールによってパリで個展が開かれ,当時の若い画家たちに大きな衝撃を与えた。主要作品『トランプをする男たち』(連作,1890~92,オルセー美術館),『大水浴図』(1898~1905,フィラデルフィア美術館)。

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