外界の印象impressionに基礎をおく印象主義に対して,内面の表出expressionをめざす芸術をいい,非写実的なゆがみの表現を伴うのが特徴である。歴史的にはマティスのフォービスムについて初めて用いられたがフランスでは定着せず,1911年ころからベルリンで前衛的な美術を中心に音楽,文学,演劇,映画,建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まった。したがって,現象としてはムンク,アンソールからルオー,エコール・ド・パリのシャガール,スーティンらに至る個々の画家やマティスらのフォービスト,ピカソらの前期キュビストなどをヨーロッパの表現主義として取り上げることもできるが,狭義には主として1905年ごろからドイツ革命期に至る時期に展開されたドイツの芸術をいう。ドイツではフォービスムやキュビスムの絵画構成上のゆがみが情念的な表現上のゆがみととらえられ,原始的土着的な要素やバロックにつながる精神性が強調された。それはさらにラテン的感覚主義に対するゲルマン的表現意欲の現れとも解釈され,たとえばH.リードはそれを〈北方民族にとって典型的なもの〉と解釈している。
ドイツ表現主義に共通するものは,未来派のように宣言文でもキュビスムのように造形方法でもなく,世界の知覚ないし体験のしかたであり,ウォリンガーも〈人間が叫ぶ,それが表現主義的作品全体の書かれざる標題だ〉と述べている。それは時代に対する自我あるいは主観の表出,幻視の意識,反抗的態度などとして現れ,時期的には,ドイツとオーストリアが第1次大戦に突入する時期を境に,新生の兆しと崩壊の予感に満ちた前期と,体制の崩壊と革命を背景にしたユートピア的高揚期とに明確に分けられる。それに応じて芸術運動の中心も前期の美術と詩から後期の演劇,映画,建築へと移っている。ここでは美術,建築,演劇,文学,音楽について述べる。映画については〈ドイツ映画〉の項を参照されたい。
ドイツ表現主義美術に影響を与えたのは,ゴッホの線描と色彩のダイナミックス,ゴーギャンの原始志向と平面様式,それにアンソールの幻想とムンクの北方的な魂の象徴主義である。ムンクの《叫び》(1893)は表現主義芸術の先駆的かつ象徴的な作品であり,それを含む〈生命のフリーズ〉連作は1902年のベルリン展で多大の反響を呼び,世紀末芸術の装飾性を打ち破る表現主義美術運動に大きな刺激を与えた。運動の担い手となったのは,05年にドレスデンで結成されたキルヒナーらの〈ブリュッケ(橋)〉派と11年にミュンヘン新芸術家協会から分離したカンディンスキー,マルクらの〈ブラウエ・ライター(青騎士)〉派である。〈ブリュッケ〉派は無垢な自然を対象に赤裸な生命の表現を志し,その源泉を中世の古版画と民俗博物館の未開人彫刻や仮面に求め,フランスのフォービスムと類似の野性的な様式を発展させた。同派と関連のあるノルデやバルラハらの北方ドイツ表現派には,土着的神秘的要素がいっそう強く現れている。原初的表現への志向は,バイエルンの農民ガラス絵に触発された〈ブラウエ・ライター〉派にもみられるが,彼らはそこにひそむ精神的なものを表現手段(点,線,面,色彩)の自律的な構成にふりむけ,抽象への道をたどった。それはウィーンにおける無調音楽への営みと結びつき,彼らはシェーンベルクらの協力を得て《ブラウエ・ライター》誌を刊行している。また新生を求めるシェーンベルクの悲劇的パトスは,クリムトの影響を脱したウィーンの若い表現主義の画家,つまりココシュカの幻視的人物像やシーレの死を秘めた自画像などにも暗示的な姿で現れている。しかしこのような美術の諸傾向を文学と結節する広範な表現主義運動へ導いたのは,ベルリンで1910年にワルデンH.Waldenにより創刊された《シュトゥルム》誌(その後同名の画廊が創設され,出版社,舞台を併設)と11年にフェムファートF.Pfemfertにより創刊された《アクツィオーンDie Aktion》誌である。芸術革命志向の前者と政治志向の後者とが対立し交流する中で,表現主義芸術運動には帝都ベルリンの状況を反映して世界の終末と戦う黙示録的な主題が顕著になり,それは11年にベルリンへ移住した〈ブリュッケ〉派のうちでもとくにキルヒナーの街娼群像連作や,12年のシュトゥルム画廊開きに招かれた〈ブラウエ・ライター〉派のうちではとくにマルクの《動物の運命》などに端的に示されている。マイトナーLudwig Meidner(1884-1966)の〈革命〉に見られる大都市の混沌(こんとん)と革命幻想の描写は,グロッスの戦中の作《O.パニッツァの埋葬》やベックマンMax Beckmann(1884-1950)の反戦的な作品《夜》につながっている。
このようにしてドイツ革命前後の表現主義美術は,ダダの過激な否定にもかかわらず,都市の崩壊や戦禍を描く黙示録的表現から,革命を射程におく時代批判的ないし風刺的な傾向へと変貌し,ディックスのようにグロテスクでリアルな作風を成立させた。また運動の主体も少人数から芸術労働評議会や〈11月集団Novembergruppe〉(1918結成)のような大集団に移り,前者からB.タウトを中心に〈ガラスの鎖Die gläserne Kette〉集団(1919-20)のユートピア的表現主義建築のプランとグロピウスのバウハウス構想が生まれた。なお,表現主義的傾向の彫刻家としてはバルラハのほかレーンブルックWilhelm Lehmbruck(1881-1919)などがあげられる。
執筆者:土肥 美夫
建築での表現主義は1910年代のドイツに始まる。そこには他分野の芸術家をとらえたのと同じ心的状況が,建築家をつき動かしたと見てよい。加えてドイツでの工業生産の著しい増加,建築技術の進歩,産業建築など新種の建築課題の出現が,建築家の意欲をかきたてていた。初期作品のペルツィヒの化学工場(1912,ルーバン)は煉瓦で,B.タウトの〈ガラスの家〉(1914,ケルン)はガラスで新しい造形表現の可能性を求めているところに,建築技術と表現の不整合が見られる。ついで第1次大戦の敗戦と革命そして挫折の中に,各地に生まれた前衛芸術運動に多くの建築家が参加する。建築が社会との結びつきが強いがゆえに建築家の発言は重視されるが,混乱と不況の中にあってはほとんどが実現せぬ計画案にとどまるがゆえに,この時期にはかえってユートピア的性格を強めた作品が多い。B.タウトの《アルプス建築》(1917-18,1920刊),ペルツィヒのザルツブルク祝祭劇場案(1918-22),ルックハルトWassili Luckhardt(1889-1972)の記念塔案(1919),そして実現を見たわずかの例としてはメンデルゾーンのアインシュタイン塔(1921),ヘーガーFritz Höger(1877-1949)のチリ館(1923,ハンブルク)が良く知られる。
表現主義建築の思想上の特色としては,建築を中心とした諸芸術の総合を目ざし,近代芸術全般に見られる個別純粋化に抗したことが指摘でき,大戦後にはユートピア志向がさらに加わる。造形上はダイナミックな形態表現が目につくが,部分と全体が分かちがたくまとめられていること,垂直水平のリズムが空間に表情を与えていることも見落としてはならない。しかし建築技術の面から見ると,ガラスを多用し夢を託している点のほかは特色はほとんどない。以上を表現主義建築の基準と見ると,スイスにあるシュタイナーのゲーテアヌムⅡ(1924年着工,ドルナハDornach),オランダのクラメルPieter Lodewijk Kramer(1881-1961)らによるメールウェイク園の住宅群(1918,ベルヘン),山田守(1894-1966)の東京中央電信局(1922)など,1920年代には広く深い影響を与えたことがわかる。しかし20年代後半にドイツの社会も安定しはじめ,建築家はより現実的に社会との対応を迫られ,かつ技術の進歩を着実に建築に反映させねばならず,表現主義から新即物主義へと姿勢を移していった。
執筆者:山口 廣
1910年前後のドイツでは,表現主義が美術の分野と呼応する形で演劇にも及び,一時的な属性である外見の表面的な模写に徹する自然主義的手法では本質に迫りえないという発想から,抽象化の手法によって普遍性,永遠性を求める試みが行われた。自然科学の因果律に縛られ,ウィルヘルム時代の社会的・政治的・軍事的な機構に従属させられた人間は,人間性を回復し,その桎梏(しつこく)から解放されねばならないとし,そのためには,混沌のなかからの〈新しい人間〉の誕生が希求された。その変容の内面過程を主観的に追うドラマは,対立者を欠き,主人公の変容を段階的に示す〈留(りゆう)(ステーション)〉構造をもつ。この構造は中世受難劇や,近代のA.ストリンドベリの救済の劇構造に似ている。台詞(せりふ)は主観的・抒情的な自己表現に傾き,独白や絶叫となり,圧縮された形をとることも多い。表現は熱狂的・陶酔的になり,連帯への呼びかけの形をとることもあり,また幻想・幻覚的な場面も多く用いられた。
表現主義戯曲の先駆的な役割を果たしたのは,《夢の劇》(1902)を書いたストリンドベリ,誇張した様式で性道徳を痛撃したF.ウェーデキント,硬直した人間を戯画化したC.シュテルンハイムなどであり,表現主義の画家O.ココシュカは,1907年に原型的な人間の関係を示す抽象劇を試みている。またG.カイザーは《カレーの市民》(1914)で新しい人間の誕生を予告した。1890年前後の生れの典型的な表現主義世代の作品では,R.ゾルゲの《乞う人Bettler》(1912)が変容を段階的に示し,父にあらわされる旧世代の否定という特徴的なテーマを持っている。これはW.ハーゼンクレーバーの《息子》(1914)やのちのブロンネンArnolt Bronnen(1895-1959)の《父親殺し》(1920)にも共通する。台詞が音に還元される〈絶叫劇Schreidrama〉を書いたのは第1次大戦で戦死したA.シュトラムである。戦争が末期に近づくと,平和的・反戦的傾向を示すウンルーFritz von Unruh(1885-1970)の《一族Ein Geschlecht》や砲塔に閉じこめられた水兵を描くゲーリングReinhard Göring(1887-1936)の《海戦Seeschlacht》(1917)などが現れる(なお,ゲーリングの《海戦》は創立当初の築地小劇場でとりあげられ,当時の日本の新劇界に大きな影響を与えたといわれる)。すでに第1次大戦中からマンハイム,フランクフルト,ハンブルクなどで表現主義劇が多く舞台に登場するようになり,ベルリンでもM.ラインハルトが〈若いドイツ〉というスタジオ上演を開始した。写実的な舞台装置は駆逐され,ほとんど空(から)の舞台空間にスポット照明を多用し,たたみかけるようなテンポで上演する様式が,演劇からイリュージョニズム(舞台を現実と思わせる錯覚)を追放した。大戦後はベルリンで演出家のL.イェスナーが,古典劇にこの演出様式を適応させ,表現主義様式はドイツ全土を席巻した。E.トラーの自伝的革命劇《変容Wandlung》(1919,カール・ハインツ・マルティン演出)も典型的な上演で,俳優としてはW.クラウス,E.ドイッチュ,F.コルトナーなどが新しい表現を示した。また,コルンフェルトPaul Kornfeld(1889-1942)の《魂の人間と心理的人間》は心理表現を否定する表現主義演技を裏づける理論である。大戦後に登場した世代では,理想主義的な傾向は弱まり,非情性,極端な性衝動,皮肉などを交えた〈黒い表現主義〉の作家B.ブレヒト,ブロンネン,H.ヤーンなどが登場したが,1925年ごろ新即物主義が始まると表現主義はしだいに衰退していった。
なお,ドイツの表現主義の時代とほぼ並行したイタリアの未来派,フランスのシュルレアリスム,ロシアのフォルマリズム(形式主義),国際的なダダイズムの演劇運動にも多くの〈表現主義的〉な要素がみられるし,またアメリカの劇作家E.オニールやE.ライスなどにもその影響がみられる。
執筆者:岩淵 達治
文学における表現主義の時期はおおよそ1910年代全般にわたると見られるが,なかでも詩人G.ハイムがベルリンの表現主義グループ〈新クラブDer Neue Club〉のカバレット(キャバレー)に登場する1910年から第1次大戦が勃発する14年までの期間に,表現主義の色彩がとくに鮮明に出ており,主要作品も大半がこの間に発表されている。
当時表現主義を担った若手詩人はほとんど1880年代の生れであり,世紀転換期における都市文化の急激な発展とそれに伴う社会のひずみを体験しながら育った世代であり,矛盾の増大によってやがて世界は破裂するという予感を抱いていた。そして,彼らは新しい絵画の表現方法に触発されて,自分たちの危機感を文学作品に定着する道を見いだした。その際彼らは散文よりも詩のジャンルに重きを置いた。大都会の不安をイメージ化したハイムの一連の詩とヤコプ・ファン・ホディスJakob van Hoddis(1887-1942)の詩《世界の終りWeltende》とが表現主義抒情詩の口火となったものだが,後の時代への影響力の強さからいえば,ゴットフリート・ベンの詩集《死体公示所Morgue》(1912)に描かれる人間の肉体の破局のさまと,G.トラークルの詩に表現される魂の奈落の深さと浄福の夢がきわだっている。さらにまたアルフレート・リヒテンシュタインAlfred Lichtenstein(1889-1914)の詩《夕暮れDämmerung》に代表的に見られるのだが,前後の脈絡を無視するかのように短文の詩句を羅列してゆく〈並列体〉と称する詩作も表現主義が開発したスタイルである。それをさらに進めたのがA.シュトラムの詩で,ここでは単語がシンタクスの関係から解き放たれて立ち並び,新たな関係を求め合っている。なお,表現主義文学は終末意識だけにいろどられていたわけではなく,新しい時代に期待しようとする気風もあった。アルザス出身の学者詩人エルンスト・シュタードラーErnst Stadler(1883-1914)の詩集《出発Der Aufbruch》(1914)はその方向での最も思慮深い作品であり,F.ウェルフェルの初期の詩集は博愛主義を高唱する饒舌の詩の代表である。
第1次大戦は,これら若い詩人たちの楽天主義も終末観も焼き尽くした。多くの有能な詩人が戦争の早期に戦死した。その後の表現主義文学は求心性を失って,徐々に解体してゆく。シュトラムの詩風は反戦色を帯びたウィルヘルム・クレムWilhelm Klemm(1881-1968)の詩に受け継がれ,ダダ運動に流れ込む。楽天的未来展望に代わってJ.R.ベッヒャーやH.レルシュの活躍により社会主義に根ざした労働者文学(プロレタリア文学)が形成され始める。終末観と幻想的要素はE.ラスカー・シューラーのユダヤ的宇宙ビジョンによる詩作へ吸収されてゆく。
表現主義の散文は,ハイムの短編やベンの〈レンネ小説群〉に代表される。人物の行動や心理を操って一つの物語に仕立ててゆく通常の小説家の視点は完全に欠落し,疎外された自我が幻想の力を駆使して外界とのつながりを求めようとする精神の旅の軌跡が散文によって刻まれてゆく。カール・アインシュタインCarl Einstein(1885-1940)の《ベビュカンBebuquin》(1912)も,孤独を希求しつつ孤独に耐えられない分裂した自我の様相をそのまま写し出す錯綜した構成と文体をもつ異色作である。
表現主義の評価をめぐっては,1937-38年にドイツ亡命作家の雑誌《ウォルト》誌上で討論が続いた。いわゆる〈表現主義論争〉である。社会主義リアリズムの立場から表現主義の前衛性を否定するルカーチとそれを積極的に評価しようとするE.ブロッホの対立を鮮明にしたまま論争は終結したが,議論は現代文学の根幹にかかわるものとしてその後も尾を引いた。
社会主義リアリズム陣営からもナチス・ドイツからもそれぞれ退廃として排斥された表現主義文学は,第2次大戦後になって全面的に再評価され,文学史上に市民権を得た。しかし誤解されていた詩人を評価し直し,埋もれていた作家を発掘するという作業は容易なものではなく,波状的に到来する表現主義ブームに乗って少しずつ進められているが,まだ全貌を把握できる段階に達していない。
執筆者:神品 芳夫
音楽上の表現主義は第2次ウィーン楽派と呼ばれるシェーンベルク,ベルク,ウェーベルンを中心としている。その中心はシェーンベルクで,とくに彼はカンディンスキーらの〈ブラウエ・ライター〉に参加していた。彼らは20世紀初頭に急速に発達した機械文明と世紀末的苦悩の交錯する中で,自我への危機意識から,人間の生や意識の根源にあるものを描き出そうとし,その題材として狂気,孤独,怪奇な幻想,殺人などを深層心理的側面からとらえることを好んだ。その結果音楽様式は強度な緊張の表出となり,古典的な音楽作法を突き破って無調の世界へ分け入った。
時代的にはシェーンベルクの《室内交響曲第1番》の1906年ごろから十二音技法の完成,およびベルク,ウェーベルンらが十二音技法を採用した1925-26年ごろまでとするのが妥当であろう。これはほぼ彼らの無調様式の時代と一致する。十二音技法に入ってからシェーンベルクの音楽は構成的な明晰さを増し,ウェーベルンは抽象的な作風となって表現主義の時代を終わる。ベルクのみが未完のオペラ《ルル》(1935)に至るまで生涯表現主義的であり続けた。この時期の代表作としてシェーンベルクの《期待》(1909),《ピエロ・リュネール》(1912),ウェーベルンの《弦楽四重奏のための六つのバガテル》(1913),ベルクのオペラ《ウォツェック》(1912-24)などがある。なお,ストラビンスキーの《春の祭典》(1913)や,スクリャービンの《プロメテ》(1910)なども同様な内容を持っている。
→十二音音楽 →無調音楽
執筆者:佐野 光司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
芸術流派・潮流。第一次世界大戦の直前に始まり、その戦後しばらくして終わったところの、芸術各領域での運動または傾向(1910年ごろから20年代前半まで)。その全体にわたる統一的な理論や方向といったものはなかったが、歴史大転換の時代の必然性に駆り立てられるようにして、さまざまな領域でさまざまな形のものが次々と現れた。19世紀までの安定した近代社会がぐらつき始めたという一種の崩壊感覚、状況への疑惑と自我・存在の不安、それを直視せねばならぬとする熱意、という、大転換期においての鋭敏な知識人たちの焦燥感や苦悩が、そこに示されている。それはまず芸術の領域で始まった。19世紀後半を支配した印象主義Impressionismus(ドイツ語)が、外界の印象を鮮明なイメージとして直接に描写的に表現するのに対して、外界とのそういう安定した関係を信じられなくなった魂は、印象そのままの表現でなく、印象に対する主観の強烈な動きのほうこそが表現に値する、と考えるようになった。印象は作者の内面性のなかで自覚されたところのはっきりした意味合い、そのゆえの精神的な強烈な体験において表現されることになり、それに伴って自我や個性の大胆な表現またはフォルムの単純化や変形を示した。すでに19世紀末から、自然主義と印象主義とに対する対立は、後期印象派やムンク、ホドラーらの美術活動として始まっていたが、1905年にドレスデンでグループ「ブリュッケ(橋)」が結成されたことによって、表現主義は新しい運動として登場することになった。
[小田切秀雄]
ドイツでは、この運動は1910年ごろに始まり、20年代の前半に幕を閉じた。共通の旗印や統一的な路線をみいだそうとするのは困難で、無方向なまでにさまざまな傾向を含んだ発酵現象であった。まず造形芸術とくに絵画に始まり文学、演劇、音楽、さらには思想や政治の分野にまで飛び火した。この文学運動が成立する背景には近代の終末、存在の崩壊、世界喪失という状況があった。この零(ゼロ)地点的状況が表現主義において初めて文学的認識の根本問題になったとき、ここに近代文学とは根底から異なった新しい文学、つまり「存在の文学」としての現代文学が生まれる。この意味で表現主義は、現代文学の出発点であり、20世紀文学は、いまなおこの文学革命が敷いたレールの上を走っている。初期表現主義者たち、すなわち1910年ごろから活躍を始めたハイム、シュタードラー、シュトラム、ゾルゲ、トラークル、ウェルフェル、ベン、ベッヒャーらの若い叙情詩人たちは、存在の崩壊と混乱を身をもって示す震度計であり、その作品は、「存在することの痛み」の文学であった。シュテルンハイム、ウンルー、カイザーらの劇作も同じ性格をもっていた。
第一次大戦は、表現主義に一種の小休止を与えるが、終戦とともに青年運動の過激さと戦後文学の異常な熱度と前衛芸術の斬新(ざんしん)さをもって一世を風靡(ふうび)する。トラー、ウェルフェル、カイザー、ハーゼンクレーバー、デーブリーン、ブレヒト、バールラハ、カール・クラウスらの作家が登場し、とくに華々しい脚光を浴びたのは劇作で、表現主義演劇の実験的な演出法や舞台装置は、今日までその名残(なごり)を色濃くとどめ、わが国の新劇にも大きな影響を及ぼした。表現主義は、時代の流行になるとともにしだいに衰滅していった。1924年ごろから暫定通貨レンテン・マルクの奇跡がもたらしたつかのまの太平楽は、ドイツの芸術革命の息の根を止めた。デーブリーンの大都会小説『ベルリン・アレクサンダー広場』(1929)とブレヒトの傑作『三文オペラ』(1928)は、表現主義の総決算であると同時にその決別ともなった。けっして表現主義者ではなかったが、表現主義が投げかけた存在の零地点という問題性をもっとも正統的に把握した2人の同時代の作家がいる。カフカとムシルがそれである。
[前田敬作]
日本では、1915年(大正4)森鴎外(おうがい)がクラブントの表現主義的な詩10編を訳出したのが最初だが、21年浅草キネマでの『カリガリ博士』の上映と、24年築地(つきじ)小劇場杮落(こけらおと)しの際のゲーリング『海戦』の上演とによって、表現主義は広く注目されるようになる。1924~25年には「先駆芸術叢書(そうしょ)」として、トラー『群衆=人間』、チャペック『ロボット』、ユージン・オニール『皇帝ジョーンズ』などが相次いで訳出され、そのほとんどが築地小劇場で上演された。また北村喜八(きはち)、一氏義良(いちうじよしなが)、村山知義(ともよし)らによる紹介・翻訳・評価も出た。表現主義においての、自我や純粋や心霊やの直視が、演劇の面で自己告白劇(イッヒ・ドラマIch Drama)と叫喚劇(シュライ・ドラマSchrei Drama)の方向に発展する、という論をはじめとして多くの論が行われた。しかし『海戦』などが、一時甚だ新鮮かつ強力で演劇面に強い刺激を与えたほかは、この派として日本文学のなかに直接の影響というべきものは残していない。しかし、この派の特色としての内的生命の強烈な表出ないし魂の痛みの鋭い表現ということは、大正末年以降の日本文学の複雑な動きのなかにさまざまな仕方で影響しているとみられる。また、大正末年からの新感覚派は、自分らの立場に関係のある流れの一つとして表現主義をあげている。ただし、シュルレアリスムその他多くの流れの一つとしてであって、とくに表現主義との関係をつきつめるということはなかった。機会は失われたのであった。
[小田切秀雄]
『ルカーチ他著、池田浩士編訳『表現主義論争』(1968・盛田書店)』▽『千葉宣一著『現代文学の比較文学的研究』(1978・八木書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
20世紀初め自然主義や印象主義に対する反動として起こり,主に第一次世界大戦後のドイツにみられた芸術運動。現実の再現よりも本質の探究を強調し主観的意志を「表現」しようとする。このため極度の単純化,抽象化,変形がみられる。ナチスの時代,「退廃芸術」として排斥された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…さらに,20世紀になってから明確に理論化されるようになったが,色や形によって眼に見えない人間の内面の神秘や情念の世界を表現するという働きも,古くから絵画には認められる。中世の黙示録絵画のような宗教画も含めて一般に幻想絵画と呼ばれるものや,色や形を思い切って強調し,ときに誇張する表現主義絵画などがその例である。このように,写実と,装飾と,表現の三つが絵画を生み出す基本的な動因であり,またその本質的性格であると言うことができる。…
…ゼツェッシオンの運動は,19世紀末のドイツ美術界における新傾向,すなわち印象主義,象徴主義,ユーゲントシュティールなどが突破口を求めて一つの組織の形をとったものであり,その展覧会には,それらドイツ圏内の新傾向とともに,ゴッホ,ゴーギャン,ホドラー,ムンクといった近隣諸国の革新的芸術も次々と紹介された。しかしゼツェッシオンも評価の確立とともに保守化し,1910年ころには,新たに登場してきた表現主義の芸術家に対して守勢に回ることとなった。W.カンディンスキーを中心とした〈ミュンヘン新芸術家協会〉の設立(1909),ペヒシュタインMax Pechstein(1881‐1955)を中心としたベルリンでの〈新ゼツェッシオン〉の設立(1910)など反ゼツェッシオン運動が起こり始めたことは,この運動の役割の転回を物語っている。…
…第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラート・ファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。…
…
[20世紀]
世紀末から顕著になっていた反自然主義的傾向は,劇場の魔術師とよばれた演出家M.ラインハルトによって代表される。1910年前後から生まれた表現主義は,劇場からいっさいの写実をしりぞけ,抽象的な手法で個の内面表白を行った。すでにF.ウェーデキント,C.シュテルンハイム,G.カイザーの作品にもその傾向は先取りされているが,典型的な表現主義世代の作家たちは,従来のドラマの枠を破壊する作品のなかで,世界を更新する新しい人間の誕生を求めた。…
…一つの様式が完成期を過ぎると,それに内在する典型的規範は末期段階で非合理化されるほかはない。ここで,ドイツ民族の第2の性格である非合理な表現主義的形態への好みが発現する。 一つの様式の末期は,これを他の様式へ質的に転換しないかぎり,これを極度に推し進めてゆくしかない。…
…そして史上まれなほどの多様な文化的可能性の万華鏡が提示されたが,高揚と空虚の混交した創造性は,いわば〈いかがわしさ〉を特徴としていた。
[文学]
文学においては,まず表現主義,続いて新即物主義が流行するが,それは熱病のような〈高揚〉とその後に来るしらけきった〈空虚〉とみることができる。自己を否定する小市民的ラディカリズムのもつ両義性は,解体を通じての解放とファシズムへの転落を内包し,のちにソ連に亡命した知識人の間で,それを肯定的に評価するか否定的に評価するかをめぐって,激しい〈表現主義論争〉を巻き起こすもととなった。…
※「表現主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新