日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨシオ・マキノ」の意味・わかりやすい解説
ヨシオ・マキノ
よしおまきの
(1869―1956)
画家。本名は牧野義雄。愛知県挙母(ころも)町(現豊田市)生まれ。父は挙母藩士。1887年(明治20)名古屋英和学校(現名古屋学院大学)に入学。英米文学に熱中し留学を熱望、92年に同校を卒業後志賀重昂(しげたか)を知り、志賀の紹介を得て翌93年に渡米。サンフランシスコの日本領事珍田捨己(ちんだすてみ)(1857―1929)の勧めに従ってホプキンズ美術学校(現サンフランシスコ・アート・インスティテュート)に入学。このころやはりサンフランシスコに滞在していた詩人野口米次郎(よねじろう)を知る。その後フランス留学を希望するが諸事情あって果たせず、結局97年にロンドンに移り、造船監督事務所に勤めながらサウス・ケンジントン技術学校に通う。98年にはゴールドスミス美術学校(現ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ)、1900年にはロンドン美術工芸学校へと移り、絵画の基礎を習得した。
その後、事務所を解雇されるなど経済的には困窮するが、03年作品が雑誌に紹介され、さらにはそれがきっかけとなって、07年にはロンドンの名所風景を描いた60点の水彩画連作をまとめた作品集『霧のロンドン』The Colours of Londonを刊行。同年クリフォード・ギャラリーで原画展を開催した。これを機に多くの挿絵作品を描くようになり、ロンドンの花形画家となる。繊細な霧の描写が人気を呼んだのだが、一方では美術史家エルンスト・ゴンブリッチが指摘するように、マキノはいち早く西洋的な遠近法の構図になじみ、それを自作の絵画のなかに導入した日本人画家でもあった。
その後も『幼少年時代思出の記』When I was a Child(1910)、『霧のロンドン――日本画家滞英記』A Japanese Artist in London(1919)などを出版。また野口らとの交遊によって日本でも注目され、展覧会が開催されるが、マキノは一貫して拠点をロンドンに置いて活動、帰国を果たしたのは、第二次世界大戦によって排日機運の高まった1942年(昭和17)のことであった。戦後は、敗戦時の外相で旧知の重光葵(しげみつまもる)邸に身を寄せ、東京、神奈川県鎌倉で静かな晩年を過ごした。
[暮沢剛巳]
『豊田市教育委員会編、宮澤眞一訳『幼少年時代思出の記』(1990・豊田市教育委員会)』▽『恒松郁生訳『霧のロンドン――日本人画家滞英記』(1991・サイマル出版会)』▽『恒松郁生編『牧野義雄画集――霧のロンドン』(1992・地方・小出版流通センター)』▽『Ernst GombrichArt and Illusion; A Study In the Psychology of Pictorial Representation (1960, Princeton University Press, Princeton)』