遠近法(読み)エンキンホウ(その他表記)perspective

翻訳|perspective

デジタル大辞泉 「遠近法」の意味・読み・例文・類語

えんきん‐ほう〔ヱンキンハフ〕【遠近法】

絵画で距離感を表現する方法。遠上近下の位置や遠小近大の透視図法、また色調の変化などで表す。パースペクティブ

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精選版 日本国語大辞典 「遠近法」の意味・読み・例文・類語

えんきん‐ほうヱンキンハフ【遠近法】

  1. 〘 名詞 〙 奥行きや遠近など、立体を平面上に表現するための絵画的方法。透視画法に従って線を用いて書き表わす線遠近法と、色調の変化によって表わす空気遠近法とがある。狭義には「線遠近法」だけをさす場合もある。遠近画法。パースペクティブ。
    1. [初出の実例]「例の大胆なる遠近法もて写し出されたり」(出典:即興詩人(1901)〈森鴎外訳〉精進日)

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改訂新版 世界大百科事典 「遠近法」の意味・わかりやすい解説

遠近法 (えんきんほう)
perspective

語源はラテン語のperspicere(明らかに見る)。中世ヨーロッパでは光学と同義に用いられた。狭義には線的遠近法あるいは透視図法と訳されるが(透視図),広義には絵画・浮彫などの二次元的造形表現における空間知覚の表現方法のすべてに適用される。自然主義的な絵画や浮彫は,三次元的な空間と個体およびそれら相互の関係から成り立つ現実を二次元に表現しようとするものであるから,多少なりとも現実的世界に似た表現を企てる芸術作品は,すべてその固有の遠近法をもっていると考えることができる。人間の視点から見た世界を画面に正しく投影しようとする透視図的空間表現は,古代ギリシア・ローマで発見され,イタリア・ルネサンスで再興され,17,18世紀に数学,幾何学の進歩とともに完成,単純化されて近世西欧芸術のもっとも正統的な客観的空間表現の方法とされてきた。しかし,E.パノフスキーは,これを普遍的原理ではなく,世界を数学的に秩序あるものと見ようとするルネサンスの人間中心的世界像の象徴と考えた。すべての文化・時代あるいは個人は,固有の,それ自身にとって正当な空間表現の方法をもつ。その意味で広義の遠近法は,主体とその周囲(広くは世界)との関係を象徴する視覚形式であると言えよう。

旧石器時代の洞窟画には,動物を短縮法的に表したものがある。しかし,この時代の絵には,統一的構成への関心はいっさい見られない。先史時代の人間は,関心ある個体についての個別的な空間知覚をもっていたが,空間についての統合的な認識はもたなかったと考えられる。空間についての,このような認識を最初に示したのは古代エジプト人である。彼らは画面を階層的な観念図式の中に表し,遠近,大小の区分けを行っている。また,個体については,それを典型的な視点から見た図をいくつか結び合わせてある理念的なタイプを作った。ここでは,視覚的真実よりも,観念的図式が先行したということができる。一定の視点から見られた視界を画面に幾何学的に描出する方法,すなわち透視図法(線的遠近法)を案出したのは古代ギリシア人である。ユークリッドは,人が個体を見る視線が直線であり,この視線が円錐形をなすという理論をたて,視錐visual cornを決定した。ローマのウィトルウィウスは《建築十書》(前25ころ)で消失点vanishing pointを明らかにし,プトレマイオスは視心visual centerと視光線visual rayを認識した(140ころ)。人間の視覚を一定点として,ここから見られる視覚を幾何学的に決定するという理念は,視覚の科学についての関心から出たと同時に,人間中心の,秩序ある世界観が根底にあったと考えられる(2世紀のガレノスは,人間の眼は球面であることから,曲面遠近法の理念を示した。レオナルド・ダ・ビンチもまた視錐は曲面で切るべきだという考えをもっていた。実際の作品に曲面遠近法を用いたと推測されるJ. フーケのような画家もいるが,まだこの点については定説がない)。

 中世の空間表現は複雑な相を帯びている。モノクロームの背景によって空間を否定した画面にも,人体や椅子の表現には空間と立体の認識が示されている。遠い物を大きく描く逆遠近法,意味上重要な個体を大きく描く不比例が特徴的にみられるが,これらもまた固有の空間知覚と比例感覚を示すもので,その本質は空間を見る視点が一つではなくいくつもあること,独自の階層的意味秩序に基づいて世界が構成されていることにある。ルネサンス期(15世紀)に再生した透視図法が,世界を〈外から〉見る視覚であったのとは対照的に,中世は世界を〈内部で〉見ていたと考えられる。パノフスキーは,中世的空間表現の基礎にはアリストテレスの不連続的な空間観念があったと述べる。技術的には中世人は透視図法を知っていた(10世紀アラビアの科学者イブン・アルハイサムの著作を通して12世紀に古代の透視図法の理論はヨーロッパに伝えられていた)が,神を絶対者とする中世の抽象的世界観は,自然界を客観的に描出することを必要としなかったと考えられる。ロジャー・ベーコンは《大著作(オプス・マユス)》(執筆1266-68)で,古代とイスラム世界の技法を,神の調和的世界とその恩寵の遍在についての証明に利用している。したがって,ジョットはフランシスコ会の調和的・汎神論的世界観の影響下にアッシジで描いたフレスコにおいて,ポンペイ風の遠近法を復活させたが,そこには,外界への新たな関心と同時に,ベーコンに代表される,神の秩序への倫理的な証明として整合性ある空間を価値あるものとする,このような伝統があったためと考えることができる。

 厳密な線的遠近法の成立は15世紀のブルネレスキによって行われた。彼は1425年ころ,フィレンツェ洗礼堂の正面に立ち鏡を使って古代の透視図法の有効性を実験した。マサッチョ,ドナテロとそれに続くフィレンツェ画家の作品にその発展が見られる。アルベルティはこれを継ぎ,《絵画論》(1436ころ)で一点透視図法を〈正統なる手法〉と定め,ピエロ・デラ・フランチェスカパチョーリ,バルバロ,セルリオ,ダンティなど16世紀にいたるまでその理論と実践が続いた。16世紀初めにデューラーはアルプス以北に透視図法を伝えた。フランスではビアトールJ.P.Viatorがすぐれた透視図の理論書を出版した(1505)が,彼はここで初めて距離点distance pointの理念を明確にし,透視図法の描法を容易にした。透視図法は,視点と物体と画面の相対性に基づいて決定されるもので,この技法の発展は,自我(視点)が物体(自然界)を見ている世界を窓(画面)としてとらえることを意味する。このような視界の典型例がレオナルド・ダ・ビンチの《最後の晩餐》である。しかし,レオナルドの空間論は同時に線的遠近法の危機を示すものであった。彼は直線が自然界に存在せず,空間は空気に満たされて不明瞭であることを認めた。線を基本とする一点透視図法が唯一の正統的な視覚であるとする思想は,レオナルドの空気遠近法の理論によって完成されると同時に崩壊へと向かい始める。

 マニエリスムは,透視図法の技術を用いているが,窓の中央に立って見ることをやめ,視点を下(ティバルディ,ベロネーゼ),上(ブリューゲル,バザーリ),斜め(ティントレット)に動かすことによって,個人の視点が普遍なる視点と一致しないことを示した。またパルミジャニーノのように曲面に映る映像や,数々の歪像を描くことによって視覚の本質的な主観性を強調した。これは,宇宙観の変動の時代にあたり,人々が唯一の静止した地盤に立っているとは考えなくなったこの時代の,一般的心情の表現とみることもできる。バロックの方向は二つに分かれる。一つは,空間の描写の断念である。それは極端なクローズ・アップあるいは,周囲を闇に包むことによって行われた(カラバッジョ,レンブラント)。他は,遠近法理論の極限までの利用によって,平たんな面に円筒形の空間のだまし絵を描くこと(イリュージョニズム)で,この代表例がアンドレア・ポッツォとその後継者である。パラディオからベルニーニ,ボロミーニにいたるマニエリスム・バロック期の建築家たちの虚構の空間の創造も,同じ考えから出発している。これは,客観再現の手法を用いて,非現実の錯覚を生み出すことを目的としている。彼らの方法は,理性の世紀にあって不合理を納得させようとしたバロックの,キリスト教の公式芸術としての本質をよく示している。透視図法が今日のような形に最終的に完成されたのも17世紀であって,これにはイタリアの力学・数学・天文学者グイドバルド・デル・モンテGuidobaldo del Monte(1545-1607)の業績があずかっている。西洋近世の正統な空間表現法とされた透視図法の権威の崩壊は,自然主義的絵画理念の危機とともに19世紀末に起こり,20世紀初頭のキュビスムによって決定的なものとなった。キュビスムの画面は,多視点から見られた個体の断片から構成されている。これは意識的な透視図法への挑戦であった。これを契機として,個我の目の普遍性と,唯一の正当な視点が存在するという思想を象徴する線的遠近法の時代は再び終わったということができよう。世界がミクロからマクロにいたるまで激変を迎えた20世紀は,かつてない新しい空間知覚とその表現への探求の時代となったのである。
執筆者:

世界の多くの古代絵画がそうであるように,東洋でも近くのものを下に置き,遠いものを上に配するのが最も古く素朴な遠近表現である。また,遠いものを近いものでさえぎる浮彫的な扱いも,遠近の意識を示している。中国絵画において遠近大小の関係について関心が深まるのは,南北朝時代の4世紀後半からであって,顧愷之の《画雲台山記》には〈蓋(けだ)し山は高くして人は遠きのみ〉とあり,遠くのものは小さく,近くのものは大きいという意識を示している。また5世紀の宗炳(そうへい)の《画山水序》は,枠に絹を張って風景を透かして見て,その上に絵を描く法を説いており,透視画法の先駆とされている。さらに,唐代の王維の著と伝える《山水論》に,〈遠人に目なく,遠樹に枝なく,遠山に石なくして,隠隠として眉のごとし。遠水に波なくして,高きこと雲にひとし〉というのは,遠近表現の手法を示すものであり,近いものは濃く,遠いものは薄く表すという空気遠近法につながる一面もある。次に,中国絵画における遠近表現は主として山水画に関係しているが,山水画の構図上の基本的な3方式を説いたのが,北宋(11世紀)の画家郭煕であった。すなわち,彼の著《林泉高致》には,高遠(山の麓から山頂を見上げる見方),平遠(前の山から後の山を眺める見方),深遠(山の手前から山の背後をうかがう見方)の三遠が説かれている。このうち,高遠は俯瞰図法に,平遠と深遠は透視図法による構図につながる点があるが,西洋画のように合理的な線的遠近法の原理に基づくものではなく,遠近法というよりも構図法というべきであろう。要するに,中国では自然物の位置関係を合理的に解釈する意識に欠けており,また一定の視点に立って自然全体を観察する態度も育たなかったため,西洋のような透視図法による遠近法は発達しなかった。この事情は日本や朝鮮においても同様である。なお,日本の絵巻などにおいて,近くのものより遠くのものを大きく末広がりに表す場合があり,それを逆遠近法と呼ぶことがある。しかし,これは狭い画面の中で空間を広く見せ,遠方のものをも明瞭に表現したいという意図のもとに生みだされた方法であって,遠近法とは別物と考えるべきであろう。

 近世になると,西欧文化の東漸により西洋画が東洋諸国にもたらされ,科学的な透視遠近法に対する関心も芽生えてくる。しかし,中国においては明末清初の一部の山水画や清代中期の版画にその影響が認められるにすぎない。一方,日本では江戸時代中期(18世紀)以後に西洋の透視遠近法についての関心が深まった。はじめ,その影響は眼鏡絵浮絵などの民衆絵画の範囲にとどまったが,やがて洋風画家による遠近法の研究も始まって,一部の南画(文人画)家や円山四条派の画家もその感化をこうむるようになった。また,幕末に栄えた浮世絵の風景版画も,西洋の遠近法の影響を受けている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「遠近法」の意味・わかりやすい解説

遠近法
えんきんほう
perspective

三次元の空間を、二次元の平面上に絵画的に表現する方法。狭義には、ルネサンス期に確立された数学的、幾何学的な透視図法、いわゆる線遠近法をさす。しかし、非写実主義絵画においても、なんらかの手法によって奥行、遠近の関係を暗示的、象徴的に表現する手法がとられたし、また写実主義絵画においても、線遠近法とは別個に、空間の深さを表すために、色彩による遠近表現、いわゆる空気遠近法、色彩遠近法が探究されている。また、なかば絵画的効果をもつ浮彫りにも、必然的に遠近法の適用がみられる。これらを総称して遠近法と名づけている。

 遠近法の中核となるルネサンス期に確立された線遠近法は、写実主義的な自然再現というこの時代の課題のもとに、そして古代世界のユークリッドやウィトルウィウスの理論の継承という形で生まれた。すでに中世後期、自然再現がしだいに画家たちの目標となりだした時期、彼らは体験的、直観的に、線遠近法、消失点の存在を知り、またジャン・フーケのように曲面鏡の視野などを利用している。こうした経験的な遠近法を科学的、体系的に基礎づけ方法化したのが、イタリア・ルネサンスの芸術家たちである。1417年ごろ、建築家ブルネレスキが最初の実験的な試みによって線遠近法と消失点への科学的なアプローチを成し遂げたあと、絵画での最初の実現は、マサッチョによるフィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラ聖堂の壁画『三位(さんみ)一体』で果たされる。さらに、この壁画の影響下に、建築家アルベルティが最初の遠近法の理論を述べた『絵画論』(1436)を出版する。この書物はブルネレスキ、マサッチョ、ドナテッロ、ギベルティらの友人に献呈されたが、いずれも遠近法の探究を試みた芸術家たちである。アルベルティはこの書物で、「視覚の円錐(えんすい)の截断(せつだん)面」として遠近法を定義づけた。

 アルベルティはのちにピエロ・デッラ・フランチェスカと交友するが、この画家も遠近法を画面の構図法なり明晰(めいせき)な視覚表現の核とした画家であり、『キリストの笞打(むちう)ち』などの大作を残す一方、『絵画の遠近法』(1475)によって、当時の理論を集大成している。その後も線遠近法の探究はドイツのデューラーたちによってもさまざまに実験され、マニエリズム、バロックの時代まで、絵画の中心的な課題として、作品の構図や様式にさえ関連するほどの重要性を担った。たとえば、短縮や、トロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法、あるいは2点透視や3点透視法による構図の変化などもそれであり、また遠近法を逆用した隠し絵などもある。

 レオナルド・ダ・ビンチも遠近法に深い関心をもち、その探究についてのノートを多く残しているが、とりわけ彼の考察の対象となったのは、色彩遠近法および消失遠近法である。線遠近法は、室内空間や建築、都市風景を描くのに適しているが、自然空間、風景を対象とする場合、ほとんど効果をもたない。たとえば、同時代のドイツの画家アルトドルファーは、樹木を柱列のように配して、ちょうど室内空間のような方形の空間を想定したりしているが、部分的な効果しかもたない。レオナルドは、遠景、中景、近景が、大気の深さによって色彩の異なること、また物体の形がしだいにかすむことに注目し、色彩遠近法、消失遠近法を提示し彼の作品に応用している。

 この種の遠近法は、すでに東洋の山水画において試みられていることであり、中国宋(そう)代(11世紀)の画家郭煕(かくき)の『林泉高致』で定立された高遠、深遠、平遠の「三遠」の法、あるいは韓拙(かんせつ)による「三遠」、そして一般に水墨画における墨の濃淡による遠近の描出などが、レオナルドの方法に対応する先例である。郭煕たちの遠近描出は一種の俯瞰(ふかん)図法であって、遠いものほど上に重ねる手法であるが、レオナルドもまたこの手法を試みていることは興味深い。

 西洋の中世絵画や東洋の絵画では、食卓や畳の線が遠くなればなるほど広がる逆遠近法が用いられる場合もある。また、一般に非写実主義絵画では、しばしば、一つの画面なり、一つの物体に対してさえ、視点をいくつか設定している例がみられる。これは、のちにキュビスムの多視点的な対象分析に対応するし、またダリなどは、きわめて写実主義的手法で物体を描写しつつ、画面に複数の視点を設定して、心理的な錯乱を意図している。このようにみると、遠近法は単に画面に現実のイリュージョンを再現するためのものではなく、画家の精神的な表現を含めたすべての表現技法にかかわってくる一例でしかないといえよう。

[中山公男]

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百科事典マイペディア 「遠近法」の意味・わかりやすい解説

遠近法【えんきんほう】

遠近感,立体感を表現するために用いる絵画技法。perspective。すべての投射線(視線)が一定点に集中するという透視図法に基づく〈線遠近法〉と,遠近関係における空気,光の影響による色彩の調子や濃淡の変化を基にした〈空気遠近法〉がある。古代では遠方,後方のものを前方のものの上に積み重ねて描く方法や,俯瞰(ふかん)図的形式などが用いられていたが,線遠近法はギリシアに始まり,ルネサンスに至ってブルネレスキアルベルティマサッチョらによって合理的に秩序立てられた。中国では唐代から深遠,平遠など〈遠〉の表現が追求され,北宋の郭煕によって三遠の原則が確立された。また西洋の中世や日本,中国などでは,観念的意味や内容を重視することから,遠くのものを大きく描く逆遠近法も用いられた。→透視図
→関連項目浮絵昇亭北寿ピエロ・デラ・フランチェスカピントゥリッキョ舞台装置ベリーニ[一族]ホッベママンテーニャ眼鏡絵ロレンツェッティ[兄弟]渡辺崋山

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「遠近法」の意味・わかりやすい解説

遠近法
えんきんほう
perspective

一定の視点から見た物体および空間を目に映じたとおり平面上に表現する方法。物体の形と位置を線によって透視的に表現する線遠近法と,目と対象との間の空気層や光の作用が生む対象の色彩および輪郭の変化をとらえて距離感を表現する空気遠近法とに大別される。遠近法の構造が解明され,数学的に理論化されたのはルネサンス期で,特にブルネレスキをはじめウッチェロ,マサッチオ,ドナテロ,アルベルティ,ピエロ・デラ・フランチェスカ,レオナルド,デュラーなどによって研究され,また作品に応用された。 20世紀になって,まったく異なった表現となる (→キュビスム , シュルレアリスム ) 。なお,美術史上にはこのほかに,逆遠近法,大小遠近法,倒置遠近法,並列遠近法と呼ばれる数学的理論に基礎をおかない種々の遠近表現がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「遠近法」の解説

遠近法
えんきんほう

風景や物象の距離感を平面上に描き表す絵画技法。ある一点からみた対象を科学的に正確に表す透視図法による線遠近法と,色彩の濃淡や調子で表現する空気遠近法とがある。日本では絵巻物などのやまと絵において,線遠近法とは反対に,遠くへいくほど大きく描く逆遠近法が用いられた。18世紀になってオランダや中国の絵画を通してもたらされたヨーロッパの遠近法に,日本人ははじめて主体的興味をむけた。まず透視図法がとりいれられ,眼鏡絵・浮絵(うきえ)が流行し,やがて葛飾北斎・歌川広重らが浮世絵で用いるようになった。また平賀源内を指導者とした秋田蘭画の画家や司馬江漢(しばこうかん)らは,銅版画などを通して西洋画法を学び,遠近法を用いて洋風画を描いた。

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世界大百科事典(旧版)内の遠近法の言及

【配景】より

…数学用語。空間に異なる2平面α,α′とこれらの上にない1点Cがあるとき,Cを通る任意の直線がα,α′と交わる点をP,P′として,PとP′とを対応させれば,無限遠点も含めて考えるとき,α上の点とα′上の点とは1対1に対応する。この対応を,Cを中心とする配景対応という(図1)。平面上に異なる2直線a,a′とこれらの上にない1点Cがあるときも,a上の点とa′上の点の間に1対1対応が同様に定義される。これもCを中心とする配景対応という(図1)。…

【額縁舞台】より

…現存する最古の例は,イタリアのパルマにあるテアトロ・ファルネーゼTeatro Farnese(1618年,アレオッティGiovanni Battista Aleotti設計,1628開場)である。これはすでにそれ以前の劇場にも見られた遠近法に従う背景を採り入れただけでなく,この背景を転換可能なものにし,さらに舞台と客席の境に,舞台をかこむ額縁の役割を果たす,装飾を施した恒常的なプロセニアム・アーチproscenium archをすえた。客席が舞台をとりかこむという構造をもつ張出舞台の場合には,舞台と観客の関係は観客の位置に応じて変化する。…

【三遠】より

…高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式,深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式,平遠は近山から遠山を望み見る形式をいう。これらによって,それぞれ山の高さ,渓谷の深さ,平野の遠さが強調され,特に平遠は,遠い距離感を表現する必要上,大小遠近法が併せ採用され,西洋の遠近法(透視法)に近いものがある。ただし中国山水画では,視点が画面においてたえず移動し,また一図に一つの構図形式が用いられるとは限らない。…

【風景画】より

…これは西洋の美術が人体表現を主眼とするに対し,中国や日本では人物画も古くよりあるが,自然の崇敬愛好が早くから文学を介して美術の主題とされたことに基づく。風景画が成立するためには山川草木等個々の要素ではなく,それらを包括する自然の全的観照が必要で,これは世界観の問題でありまた遠近法とも密接に関連している。中国ではすでに北宋で三遠と呼ばれる空気遠近法が確立するに対し,西洋では15世紀初頭のネーデルラント絵画で空気(または色彩)遠近法が,また同じころのイタリア(とくにフィレンツェ)絵画で線遠近法が開発されて風景画出現の条件が整った。…

※「遠近法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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