志賀重昂(読み)シガシゲタカ

デジタル大辞泉 「志賀重昂」の意味・読み・例文・類語

しが‐しげたか【志賀重昂】

[1863~1927]地理学者愛知の生まれ。号、矧川しんせん三宅雪嶺らとともに国粋主義主張、雑誌「日本人」を発行。諸外国を巡遊。著「南洋時事」「日本風景論」「世界山水図説」など。

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精選版 日本国語大辞典 「志賀重昂」の意味・読み・例文・類語

しが‐しげたか【志賀重昂】

  1. 地理学者、評論家。号は矧川(しんせん)。三河(愛知県)出身。札幌農学校卒業後、南洋諸島を巡航。明治二一年(一八八八)、三宅雪嶺らとともに政教社を創立、雑誌「日本人」を発刊。国粋保存を唱え、代議士に当選。後、世界周遊。著書「日本風景論」「世界山水図説」など。文久三~昭和二年(一八六三‐一九二七

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改訂新版 世界大百科事典 「志賀重昂」の意味・わかりやすい解説

志賀重昂 (しがしげたか)
生没年:1863-1927(文久3-昭和2)

地理学者,矧川(しんせん)と号する。三河国(現,愛知県岡崎市)に生まれる。1878年東京大学予備門に入学,80年北海道に渡り,84年札幌農学校卒業。86年ダーウィンをまねて海軍練習船筑波に便乗,オーストラリア,サモア,ハワイを歴訪,帰国後《南洋時事》(1887)を著して注目された。88年三宅雪嶺らと政教社を結成,雑誌《日本人》を創刊,国粋保存主義を強調した。94年日清戦争勃発の年に《日本風景論》を刊行,同じ年に出た内村鑑三の《地理学考》とともに,明治の二大地理書と呼ばれることがある。1905年日露国境線画定作業のため樺太(サハリン)に渡ったのをはじめ,1910年と22年に世界を旅行,その足跡はほとんど全大陸に及び,当時としては比類のない大旅行家でもあった。農商務省山林局長,外務参事官をへて衆議院議員にも選ばれた。《世界山水図説》(1911)など多くの地理的著作を通じ,終始地理学者の道を歩んだ。郷里岡崎市に世界各地から集めた資材で小屋〈四松庵〉を建て,その近くに墓がある。著作は《志賀重昂全集》8巻(1927-29)に収められている。
執筆者: 《日本風景論》では,日本の地形の特質や美しさについて述べ,とくに〈登山の気風を興作すべし〉という章では,イギリスの登山技術を紹介し登山を盛んにするよう説いた。この書は,W.ウェストンの《日本アルプスの登山と探検》とともに日本の近代登山に大きな影響を与え,日本山岳会創立の一つの契機ともなった。1911年ウェストンに次いで日本山岳会名誉会員に推された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「志賀重昂」の意味・わかりやすい解説

志賀重昂
しがしげたか
(1863―1927)

明治・大正時代の地理学者。『日本風景論』(1894年初版)によって知られる地理評論家、雑誌『日本人』を通して日本精神を鼓舞した経世家である。三河(みかわ)国(愛知県)岡崎で藩士の子として出生。矧川(しんせん)と号した。東大予備門を経て1884年(明治17)札幌農学校を卒業。アイヌを案内に頼んで北海道の辺地を探検し、1886年オセアニア各地を視察して『南洋時事』(1887)を著した。世界各地の調査を行い、郷里岡崎には世界各地の木材で建てた記念館がある。『日本風景論』では、日本が水蒸気の多いこと、流水の侵食が激しいこと、火山が多いことなどをあげて風景の分析と鑑賞の方法を説いている。また、アジア大陸地質図の大成を主張し、東京地学協会草創にも加わって地理学の研究と普及に力を入れた。日本ラインの命名者でもある。

[木内信藏]

『志賀富士男編『志賀重昂全集』全8巻(1927~1929・同書刊行会/復刻版・1995・日本図書センター)』『『日本風景論』上下(講談社学術文庫)』

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20世紀日本人名事典 「志賀重昂」の解説

志賀 重昂
シガ シゲタカ

明治〜昭和期の地理学者,政治家 衆院議員。



生年
文久3年11月15日(1863年)

没年
昭和2(1927)年4月6日

出生地
三河国岡崎康生町(愛知県岡崎市)

別名
号=矧川(シンセン)

学歴〔年〕
札幌農学校〔明治17年〕卒

経歴
明治7年上京、攻玉社、東大予備門を経て、17年札幌農学校を卒業。同年長野県立長野中学校教諭となるが、翌年退職。上京し、丸善書店入社。19年軍艦“筑波”に便乗、約10ケ月間南洋巡航し、20年「南洋時事」を刊行。21年三宅雪嶺らと政教社を結成、雑誌「日本人」を創刊、主筆として開明的ナショナリズムを主張。その後、中央政社、同志会で活躍。また進歩党、憲政党、憲政本党、立憲政友会に所属。35年、36年衆院議員に当選した。37年以降政界を離れ、地理学者、旅行家として活動。実地調査に全力を傾注した日本地理学の開拓者。著書に「日本風景論」「知られざる国々」「世界山水図説」などの他、「志賀重昂全集」(全8巻)がある。

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百科事典マイペディア 「志賀重昂」の意味・わかりやすい解説

志賀重昂【しがしげたか】

地理学者。号は矧川(しんせん)。三河(みかわ)岡崎藩儒の家に生まれる。札幌農学校卒。1886年オーストラリア,ニュージーランド,南洋諸島を巡遊し《南洋時事》を著し地理学者として認められる。1888年政教社創立に加わり,三宅雪嶺らと雑誌《日本人》を創刊,欧化主義に対抗して国粋保存を主張。アジア各地への植民論を展開し,衆議院議員にもなった。また《日本風景論》(1894年)などで日本の山岳美・渓谷美を賛美し初期の日本の登山界の発達を刺激した。ほかに《世界山水図説》や全集8巻がある。
→関連項目国粋主義小島烏水日本ライン三宅雪嶺

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朝日日本歴史人物事典 「志賀重昂」の解説

志賀重昂

没年:昭和2.4.6(1927)
生年:文久3.11.15(1863.12.25)
明治大正期の思想家,政治家,地理学者。号は矧川。岡崎藩(愛知県岡崎市)藩士志賀重職,淑子の長男として生まれる。明治7(1874)年上京。攻玉社,東大予備門を経て,17年札幌農学校卒業。19年軍艦「筑波」に便乗,南洋諸島を巡航。列強による南洋分割の実態を見聞し,20年『南洋時事』を著す。21年三宅雪嶺らと政教社を設立,雑誌『日本人』を創刊。「国粋保存旨義」を主張,初期帝国議会において対外硬運動を展開。その後,中央政社,同志会の中心として活躍。さらに進歩党,憲政党,憲政本党,立憲政友会に所属。この間,30年農商務省山林局長。31年外務省勅任参事官。35,36年の2回衆院議員当選。37年落選。以後,政界を離れ,啓蒙的地理学者,世界旅行家として活動。日本人の景観美の意識変革に大きな役割を果たしたとされる著『日本風景論』(1894)は版を重ね大ベストセラーとなる。<著作>『知られざる国々』<参考文献>志賀重昂全集刊行会編『志賀重昂全集』全8巻,岩井忠熊『明治国家主義思想史研究』

(佐々博雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「志賀重昂」の解説

志賀重昂
しがしげたか

1863.11.15~1927.4.6

明治・大正期の思想家・評論家・地理学者。三河国岡崎藩士の家に生まれる。札幌農学校卒。軍艦に便乗してオセアニア各地を巡り,1887年(明治20)「南洋時事」を出版。翌年三宅雪嶺(せつれい)らと政教社を創立,雑誌「日本人」の主筆として「国粋保存旨義」(国粋主義)を唱え,政府の欧化政策と藩閥政治を批判。初期議会では対外硬派として活動。96年進歩党結成に参画し,第2次松方内閣のとき農商務省山林局長,98年第1次大隈内閣のとき外務省勅任参事官。憲政本党をへて1900年立憲政友会に加入,衆議院議員当選2回。この間,日本各地を旅行し「日本風景論」(1894刊)を刊行して名声を博した。明治末期に政界を退き,世界各地を周遊して数多くの紀行文・評論を発表した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「志賀重昂」の解説

志賀重昂 しが-しげたか

1863-1927 明治-大正時代の地理学者。
文久3年11月15日生まれ。三宅雪嶺(みやけ-せつれい)らと雑誌「日本人」を発行して国粋保存を主張。明治28年東京専門学校(現早大)教授。35年衆議院議員(当選2回,政友会)。世界をめぐり,おおくの啓蒙(けいもう)的な地理学書をあらわした。昭和2年4月6日死去。65歳。三河(愛知県)出身。札幌農学校(現北大)卒。号は矧川(しんせん),四松庵。著作に「日本風景論」「世界山水図説」など。
【格言など】山は自然界の最も興味ある者,最も豪健なる者,最も高潔なる者,最も神聖なる者(「日本風景論」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「志賀重昂」の意味・わかりやすい解説

志賀重昂
しがしげたか

[生]文久3(1863).11.15. 愛知,岡崎
[没]1927.4.6. 東京
地理学者,評論家。 1884年札幌農学校を卒業,地理学の実地研究を志し,南洋各地を旅行して『南洋事情』を執筆,その南進論と国家主義的立場から西欧帝国主義による植民地収奪を論難した。その後三宅雪嶺らと雑誌『日本人』を刊行,国家主義的立場の警世家として指導的役割を果した。 94年に『日本風景論』を著わし,地理学思想の普及に活躍。さらに農商務省,外務省などの要職に勤務,晩年は衆議院議員となった。『志賀重昂全集』 (8巻) がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「志賀重昂」の解説

志賀重昂
しがしげたか

1863〜1927
明治・大正時代の地理学者・評論家
三河(愛知県)の生まれ。札幌農学校卒業後,南洋諸島を巡歴。1888年政教社結成に参加し,雑誌『日本人』に国粋保存主義の論陣を張る。著書に『南洋時事』『日本風景論』『世界山水図説』など。

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世界大百科事典(旧版)内の志賀重昂の言及

【ジャーナリズム】より

…また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。これに対抗した三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社は,雑誌《日本人》によって陸羯南の新聞《日本》とともに〈国民主義〉を唱えた。《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆるルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど,日本の近代文学に貢献した。…

【日本人】より

政教社発行の雑誌。東京大学出身の三宅雪嶺井上円了らと札幌農学校出身の志賀重昂,今外三郎らの若手知識人によって1888年4月創刊された。その主張は,藩閥政府の推進する欧化政策に反対し,〈国粋〉を〈保存〉しようとするナショナリズムにあった。…

【日本風景論】より

志賀重昂の代表作の一つで,1894年(明治27)10月発行。以後増訂を重ねて1903年には第15版が出たほど愛読された。…

※「志賀重昂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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