重光葵(読み)シゲミツマモル

デジタル大辞泉 「重光葵」の意味・読み・例文・類語

しげみつ‐まもる【重光葵】

[1887~1957]外交官政治家。大分の生まれ。外務省に入り、ソ連・英国・中国各大使を歴任。東条内閣の外相。極東国際軍事裁判禁錮7年の判決を受けたが、追放解除後、改進党総裁・鳩山内閣外相となった。

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精選版 日本国語大辞典 「重光葵」の意味・読み・例文・類語

しげみつ‐まもる【重光葵】

  1. 外交官、政治家。大分県出身。東京帝国大学卒。中国・ソ連・英国の大・公使を歴任。東条内閣の外相、小磯内閣の外相兼大東亜相。終戦時に東久邇内閣の外相として降伏文書に調印。のち、改進党総裁。保守合同自由民主党に加わり鳩山内閣の外相。日ソ国交回復に努力した。明治二〇~昭和三二年(一八八七‐一九五七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「重光葵」の意味・わかりやすい解説

重光葵
しげみつまもる
(1887―1957)

外交官、政治家。大分県生まれ。1911年(明治44)東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入る。パリ講和会議全権委員随員、上海(シャンハイ)総領事などを歴任。1932年(昭和7)中国公使として上海停戦協定交渉中、天長節祝賀式場における反日運動家の投弾により右脚を失った。1933年外務次官となり、ソ連、イギリス、中国の各大使を務める。1943年東条英機(とうじょうひでき)内閣外相、1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣外相兼大東亜相として大東亜会議の開催やソ連を通じての和平工作を図るなど、戦時外交に重要な役割を果たした。敗戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣外相として降伏文書に調印したが、ソ連の要請により極東国際軍事裁判のA級戦犯として逮捕される。1948年(昭和23)禁錮7年の判決を受け、1950年仮釈放となり、1952年追放解除後、政界に復帰し改進党総裁となる。その後、日本民主党、自由民主党副総裁を務める。1954年以降は鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣外相として、国連加盟、日ソ国交回復に尽力した。著書に『昭和の動乱』『巣鴨(すがも)日記』『外交回想録』などがある。

[小田部雄次]

『重光葵記念館編・武田知己監修『重光葵外交意見書集』全3巻(2007~2010・現代史料出版)』


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百科事典マイペディア 「重光葵」の意味・わかりやすい解説

重光葵【しげみつまもる】

外交官,政治家。大分県生れ。東大卒。1931年駐華公使となり,1932年4月上海で爆弾を投げられ負傷した。1936年駐ソ大使,1943年東条英機内閣外務大臣となる。敗戦直後,日本降伏文書に調印。A級戦犯(戦争犯罪)となったが,1950年釈放され,1952年改進党総裁となり,1954年鳩山一郎内閣の外務大臣となって日ソ国交回復(日ソ共同宣言),国際連合加盟に尽力した。
→関連項目尹奉吉太平洋戦争(日本)張鼓峰事件東京裁判

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「重光葵」の意味・わかりやすい解説

重光葵
しげみつまもる

[生]1887.7.29. 大分
[没]1957.1.26. 湯河原
外交官,政治家。 1911年東京大学を卒業し,外務省に入る。 32年,中国公使として上海事変の外交処理にあたったが,上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉に爆弾を投げられ重傷を負い,片脚を切断した。外務次官を経て,駐ソ大使に就任し,38年には張鼓峰事件の外交折衝にあたり,日ソ停戦協定を成立させた。イギリス駐在大使,中国駐在大使を歴任後,43年東条内閣の外相となり,大東亜新政策を掲げ,大東亜会議を開催した。 44年小磯内閣にも留任し,大東亜相を兼ねた。 45年4月に辞職したが,同8月,勅選貴族院議員。終戦とともに東久邇内閣の外相となり,同年9月2日アメリカ軍艦『ミズーリ』号上で日本側首席全権として降伏文書に調印した。 46年A級戦犯容疑で拘束され,禁錮7年の判決を受けた。 50年仮釈放になり,52年公職追放解除ののち改進党総裁に就任したが,翌年の総選挙で改進党がふるわず,吉田茂首班を争い敗れた。 54年,日本民主党副総裁。第1~3次の鳩山内閣外相をつとめた。主著『昭和の動乱』 (1952) ,『外交回想録』 (53) ,『巣鴨日記』 (53) 。伝記に豊田国男他『重光向陽小伝』 (57) がある。

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20世紀日本人名事典 「重光葵」の解説

重光 葵
シゲミツ マモル

大正・昭和期の外交官,政治家 外相;日本民主党副総裁;衆院議員。



生年
明治20(1887)年7月29日

没年
昭和32(1957)年1月26日

出生地
大分県速見郡杵築(現・杵築市)

学歴〔年〕
東京帝大法科大学独法科〔明治44年〕卒

経歴
明治44年外務省に入省。ポーランド領事、上海総領事を経て、昭和6年駐華公使となったが、翌年1月上海事変がおこり、4月の天長節祝賀式場で反日運動家の爆弾で右脚を失った。その後、8年外務次官、11年駐ソ大使、13年駐英大使を歴任、日中戦争を拡大した近衛内閣には批判的であり、日独伊三国同盟にも反対であった。18年には東条内閣の外相となり、戦後の東久邇内閣まで留任した。20年9月ミズーリ号上で降伏文書に調印。21年A級戦犯として逮捕され、23年の東京裁判で禁固7年の判決を受け服役。25年仮釈放、26年刑期満了。27年追放解除後、改進党総裁に就任、同年衆院議員に当選し、以後3回当選、29年日本民主党副総裁となり、鳩山内閣の副総理・外相に就任し、31年の日ソ国交回復と国連加盟に尽力した。また国連総会で日本人として初めて演説をした。「昭和の動乱」「外交回想録」「巣鴨日記」などの著書がある。

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「重光葵」の解説

重光 葵
シゲミツ マモル


肩書
外相,日本民主党副総裁,衆院議員

生年月日
明治20年7月29日

出生地
大分県速見郡杵築(現・杵築市)

学歴
東京帝大法科大学独法科〔明治44年〕卒

経歴
明治44年外務省に入省。ポーランド領事、上海総領事を経て、昭和6年駐華公使となったが、翌年1月上海事変がおこり、4月の天長節祝賀式場で反日運動家の爆弾で右脚を失った。その後、8年外務次官、11年駐ソ大使、13年駐英大使を歴任、日中戦争を拡大した近衛内閣には批判的であり、日独伊三国同盟にも反対であった。18年には東条内閣の外相となり、戦後の東久邇内閣まで留任した。20年9月ミズーリ号上で降伏文書に調印。21年A級戦犯として逮捕され、23年の東京裁判で禁固7年の判決を受け服役。25年仮釈放、26年刑期満了。27年追放解除後、改進党総裁に就任、同年衆院議員に当選し、以後3回当選、29年日本民主党副総裁となり、鳩山内閣の副総理・外相に就任し、31年の日ソ国交回復と国連加盟に尽力した。また国連総会で日本人として初めて演説をした。「昭和の動乱」「外交回想録」「巣鴨日記」などの著書がある。

没年月日
昭和32年1月26日

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改訂新版 世界大百科事典 「重光葵」の意味・わかりやすい解説

重光葵 (しげみつまもる)
生没年:1887-1957(明治20-昭和32)

外交官,政治家。大分県に生まれ,東京大学卒業後外務省に入り,ベルサイユ講和会議全権随員などを経て,1931年駐華特命全権公使となり,32年上海爆弾事件で片脚を失った。33-36年広田弘毅外相のもとで事務次官,駐ソ,駐英,駐華各特命全権大使を歴任して,43年東条英機内閣の改造により外相に就任した。44年小磯国昭内閣の外相兼大東亜相,45年貴族院議員,敗戦直後の東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり,政府代表として日本降伏文書に調印した。その後A級戦犯として東京裁判で禁錮7年の刑に処せられたが,50年仮出所,52年改進党総裁となり,53年総選挙後,自由党の吉田茂との首班指名争いに敗れる。54年日本民主党の結成とともに副総裁となり,同年鳩山一郎内閣の外相に就任し,56年日ソ国交回復と日本の国際連合加盟を実現した。著書に《昭和の動乱》2巻(1952),《外交回想録》(1953)がある。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「重光葵」の解説

重光葵
しげみつまもる

1887.7.29~1957.1.26

大正・昭和期の外交官・政治家。大分県出身。東大卒。外務省に入り,パリ講和会議随員などをへて,1930年(昭和5)中国在勤中に日中関税協定を締結して対中国宥和に努めたが,満州事変となり挫折。32年上海事変の収拾にあたるなかで爆弾を投げられ片脚を失う。33年から36年まで外務次官として日中提携政策を推進。以後,駐ソ・駐英・駐華大使をへて43年4月に東条内閣の外相となり,小磯内閣では外相兼大東亜相に就任した。東久邇宮内閣でも外相を務め降伏文書に調印。極東国際軍事裁判で禁錮7年の刑をうける。52年改進党総裁・衆議院議員となり,54年日本民主党副総裁として鳩山一郎内閣に入閣,副総理・外相として日ソ国交回復に努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「重光葵」の解説

重光葵 しげみつ-まもる

1887-1957 大正-昭和時代の外交官,政治家。
明治20年7月29日生まれ。中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。駐英大使などをへて,東条・小磯・東久邇(ひがしくに)内閣の外相。20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。27年改進党総裁,29年日本民主党結成に参加。鳩山内閣の副総理・外相として,日ソ国交回復,国連加盟を実現した。昭和32年1月26日死去。69歳。大分県出身。東京帝大卒。
【格言など】アメリカはいずれ日本を必要とする(戦犯として拘留されていたときに)

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旺文社日本史事典 三訂版 「重光葵」の解説

重光葵
しげみつまもる

1887〜1957
大正・昭和期の外交官・政治家
大分県の生まれ。東大卒。駐華公使在任中,1931年上海で爆弾を投ぜられて負傷し片足を失う。中国・ソ連・イギリス各大使を経て東条英機内閣の外相,小磯国昭・東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 両内閣の外相・大東亜相を歴任。終戦の際,政府代表として降伏文書に調印した。第二次世界大戦後,A級戦犯として禁錮7年の判決をうけ,'50年仮釈放。'52年日本改進党総裁に迎えられ,その後自由民主党に参加。第1〜3次鳩山一郎内閣の外相として日ソ国交回復,日本の国連加盟を実現した。

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367日誕生日大事典 「重光葵」の解説

重光 葵 (しげみつ まもる)

生年月日:1887年7月29日
大正時代;昭和時代の外交官;政治家。駐英大使;衆議院議員
1957年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の重光葵の言及

【尹奉吉】より

…上海で愛国志士金九の薫陶を受け傾倒する。1932年4月29日上海虹口公園で日本の天長節祝賀会が開催されたとき,参席した日本の要人群に投弾,陸軍大将白川義則,同中将植田謙吉,海軍中将野村吉三郎,駐中国公使重光葵らを死傷させた。同年12月19日処刑される。…

【改進党】より

…改進党の結成はこうした情勢のもとでなされた。新党総裁には,6月旧民政党の大麻唯男の尽力により,追放解除後まもない元外相重光葵が就任している。新党は一方で協同主義の理念に基づく修正資本主義の実現を掲げ,他方で日米対等の原則による相互防衛協定の締結と,民力に応ずる自主的自衛軍の創設を掲げた。…

【降伏文書】より

…1945年9月2日,日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏することを正式に承認することを示すために調印された文書。調印は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号上でなされ,日本側からは天皇および日本国政府を代表して重光葵(まもる)外相が,大本営を代表して梅津美治郎(よしじろう)参謀総長が調印し,連合国側からは最高司令官マッカーサーを筆頭にアメリカ,中華民国,イギリス,ソ連,オーストラリア,カナダ,フランス,オランダ,ニュージーランドの各代表が調印した。文書はポツダム宣言の受諾とその誠実な履行,日本軍の無条件降伏,日本軍・国民の敵対行為の停止,財産破壊の防止,連合国の俘虜および被抑留者の解放・保護・輸送などを規定し,かつ占領統治の基本方針として天皇および日本国政府職員がとくに命令のない限りその任務にとどまり,連合国最高司令官の布告・命令・指示に従って国家統治の任に当たるという間接統治方式を規定した。…

※「重光葵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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