日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラクシュミー・バーイー」の意味・わかりやすい解説 ラクシュミー・バーイーらくしゅみーばーいーLakshmī Bāī(1835―1858) インド、ジャーンシ王国の王妃。インドの大反乱(セポイの反乱)の指導者。インド独立運動史上、もっとも著名な英雄の一人。マラータ同盟の部将の家に生まれ、ジャーンシ王に嫁ぐが、嫡子がなかったため、王の死後、無法な併合政策により王国は1853年英領に併合された。57年大反乱が勃発(ぼっぱつ)すると、反乱側に加担、とくに反乱後期に有能かつ非妥協的指導者として活躍。グワリオル城外の戦闘で戦死した。[長崎暢子]『長崎暢子著『インド大反乱』(中公新書)』[参照項目] | インドの大反乱 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
改訂新版 世界大百科事典 「ラクシュミー・バーイー」の意味・わかりやすい解説 ラクシュミー・バーイーLakshmī Bāī生没年:?-1858 インド民族運動の女性指導者。インド大反乱(セポイの反乱)の英雄。マラーター同盟の末裔に生まれ,ジャーンシー王国のガンガーダル・ラーオと結婚。嫡子なき王国は併合というイギリスの政策により,王の死後併合される。1857年大反乱勃発により,反乱側の指導者となり,マラーター同盟系の人々と協力,反乱軍の中でも有能かつ勇敢な指揮者だった。グワーリオール落城の際,戦死。執筆者:長崎 暢子 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア 「ラクシュミー・バーイー」の意味・わかりやすい解説 ラクシュミー・バーイー インド大反乱(セポイの乱)の指導者の一人。ジャーンシー王国(ジャーンシー)の妃となったが,嫡子がなかったため王国は併合された。インド大反乱が起きると,マラーター同盟に協力して反乱を指揮。グワーリオール陥落のとき戦死した。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
旺文社世界史事典 三訂版 「ラクシュミー・バーイー」の解説 ラクシュミー=バーイーLakshmībāī 1835〜58インド大反乱時の民族運動の女性指導者マラータ同盟に属する北インドのジャーンシー王国の王妃だったが,嫡子がいなかったため,王国はイギリスの政策で,王の死後併合された。1857年にインド大反乱が起こると,反乱側の指導者のひとりとなり,反乱軍の先頭に立って勇敢に戦ったが,グワーリオル落城の際,戦死。のちに“大反乱のジャンヌ=ダルク”と呼ばれた。 出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報