リットン調査団(読み)りっとんちょうさだん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リットン調査団」の意味・わかりやすい解説

リットン調査団
りっとんちょうさだん

1932年(昭和7)2月、満州事変の処理に関して国際連盟が派遣した調査委員会。満州事変は中国によって国際連盟に提訴された。中国が連盟規約第15条による総会開催を請求したのに対し、これを不利とみた日本は、現地への調査団派遣を提案し、31年12月10日の理事会で派遣が決定された。調査団は、インド・ベンガル州総督などを務めたイギリス人のリットン卿(きょう)V. A. G. R. Lyttonを団長に、フランスの軍人クローデル将軍H. E. Claudel、アメリカの軍人マッコイ将軍F. R. MacCoy、イタリアの外交官アルドロバンジ伯L. M. Aldrovandi、ドイツの植民政策研究家シュネーH. Schneeの5人であった。調査団は2月29日東京着、日本政府、軍部、実業界などの代表者と接触ののち、中国へ向かい、3月13日上海(シャンハイ)着、のち1か月にわたり上海、南京(ナンキン)、漢口(かんこう/ハンコウ)、北京(ペキン)などを視察し、4月19日満州へ向かった。6月初旬まで満州で調査し、7月20日から北京で報告書の作成を開始した。報告書は10月1日日中両国へ通達され、2日公表された。日本は、調査団が東京に着いた翌日の3月1日に、「満州国建国を宣言させ、報告書執筆中に「満州国」を承認し、既成事実で調査団に対抗した。しかし、報告書は、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を正当な軍事行動とは認めず、「満州国」建国も中国人の自発的な運動ではないとし、満州を中国の主権の範囲としたうえで、地方的自治政府を設け、非武装地帯となすよう提案した。他方、満州における日本の権益も承認しているが、日本政府は報告書に不満の意を表した。33年2月、日本軍による熱河(ねっか)作戦などが連盟加盟国を刺激し、リットン報告書採択と「満州国」の不承認を内容とする十九人委員会の報告書が総会で採択されたため、3月27日、日本は国際連盟を脱退した。

[君島和彦]

『外務省編『日本外交年表竝主要文書 下』復刻版(1965・原書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リットン調査団」の意味・わかりやすい解説

リットン調査団
リットンちょうさだん
Lytton Commission

1931年9月満州事変の勃発直後,中国の提訴を受けた国際連盟理事会が実地調査のために派遣した委員会。正式には国際連盟日華紛争調査委員会というが,団長のリットン卿の名にちなんでリットン調査団と呼ばれた。 32年1月 14日の理事会で,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツ,イタリアの各国委員が任命された。この調査団は2月から日本,中国,満州で実情調査を行い,9月4日,報告書の作成を完了した。『リットン報告書』は,日中両国と連盟諸国に通達され,10月2日に公表されたが,31年9月 18日の日本の軍事行動は正当な自衛措置と認めることはできないとし,また中国の宗主権のもとに満州に自治制度を設けるべきだとしていた。 (→国際連盟脱退 )  

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