改訂新版 世界大百科事典 「イギリス」の意味・わかりやすい解説
イギリス
基本情報
正式名称=グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
面積=24万2900km2
人口(2010)=6222万人
首都=ロンドンLondon(日本との時差=-9時間)
主要言語=英語
通貨=ポンドPound
ヨーロッパ大陸の西方に位置する立憲王国。正式の国名は〈グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国〉で,〈英国〉とも呼ばれる。ノルウェー海,北海,イギリス海峡によってヨーロッパ大陸から隔てられ,イギリス諸島の大半を占める。主島であるグレート・ブリテン島は面積約23万km2で日本の本州とほぼ等しく,行政上はイングランド,ウェールズ,スコットランドの3地域に区分されている。このほかアイルランド島北東部の北アイルランドやアイリッシュ海のマン島,イギリス海峡のチャンネル諸島を含む。また旧イギリス領の諸国とともにイギリス連邦を形成する。イギリスは,江戸時代に始まる日本との交渉の初期から〈ぶりたにあ〉〈あんぐりあ〉と呼ばれ,〈貌利太尼亜〉〈諳厄利亜〉など種々の漢字があてられた。その後しだいにポルトガル語のイングレスInglêsおよびオランダ語のエンゲルスEngelsからなまって〈エゲレス〉〈イギリス〉という呼称が広く用いられるようになり,〈英吉利〉の漢字があてられ,そこから〈英国〉という通称が生まれた。
日本人のイギリス像
イギリス人の根幹をなす民族は,英語を使用するアングロ・サクソン人であるが,ほかにゲーリック語,ウェールズ語,アイルランド語などケルト語派の言語を使用するケルト系民族がスコットランド,ウェールズ,北アイルランドに居住する。これらの地域がイングランドとともに連合王国を構成しているが,〈イギリス〉という日本における非公式の呼称は,元来はグレート・ブリテン島の一地域にすぎないイングランドに由来するものである。しかし,この国の歴史におけるイングランド勢力の膨張にともなって,イギリスという呼称は地域のうえで,〈イングランドとウェールズ〉,スコットランドを含めた〈グレート・ブリテン〉,さらにはこれにアイルランドを含め,また次にこの国の海外植民地獲得に応じて,〈大英帝国〉(あるいはイギリス連邦)までを含む広範な地域をさして,無差別な,漠然かつあいまいな使われ方をしている。そして幕末開国以来の日本人のイギリス観を支配したのは,日本と同じこの小さな島国の強大化の理由を探ろうとする視角であり,植民地帝国,〈世界の工場〉,立憲君主制の下での議会政治,ジェントルマンの国といったイギリスのイメージが日本人に定着していった。
しかしながら,かかるイギリス観の基底には,二つの誤解が存する。すなわちイギリスをアングロ・サクソン人のみから構成されているとみることと,この国の歴史を閉鎖的な島国のそれととらえることである。5世紀にアングロ・サクソン人がグレート・ブリテン島に移住を開始したときには,すでにここにはローマ化されたケルト系民族が住んでおり,後者は前者によって島の西部,北部へと追いつめられた。現在もスコットランド,ウェールズ,コーンウォール,そしてアイルランドなどイギリス諸島の外縁部にはケルト系民族の伝統が残り,この地域あるいは住人を〈ケルト系民族の外縁Celtic fringe〉と呼ぶ。9~11世紀にはデーン人,ノルマン人が襲来して征服王朝を建て,以後ノルマン・フランス系民族が支配階級の中核となり,イギリスの言語,制度,習俗などに大きな影響を残した。イギリス中世史は,これら諸民族の抗争と融和の過程であったが,近代に入ってからもアイルランドとヨーロッパ大陸からの移住者は絶えなかった。ことに第2次大戦後,イギリス連邦の解体にともない,西インド諸島,インド,パキスタンなどから異民族労働者が大量に流入し,イギリスは複合民族国家の性格を強めており,若干の人種問題も現れている。このような民族の交流からうかがえるように,この島国は11世紀以来ヨーロッパ大陸と一体になっており,それが海外に領土をもたない閉鎖的な島国に閉じこもったのは,16世紀後半の一時期にすぎなかった。17世紀後半以降にはイギリスのヨーロッパ離れが進み,アメリカ大陸さらにはアジア,アフリカへと植民地支配を広げるようになった。
イギリスが世界の最先進国としての地位を誇りえたのは,17世紀末から20世紀初頭までの限られた時期にすぎなかった。それ以前のイギリスは,ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎず,大陸諸国の圧力のもとで国民国家としての自立の道を模索していた。17世紀のイギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)を契機にして,イギリスはそれまでの大陸諸国に〈学ぶ〉立場から,模範として〈学ばれる〉立場に変わった。日本がイギリスとの本格的な交渉を開始した時点が,ビクトリア女王のもとでイギリスが最も隆盛を謳歌した時期であったことが,日本のイギリス像に影を落としつづけたといえよう。
執筆者:今井 宏
自然
地質,地形
イギリス諸島はヨーロッパ大陸からのびる大陸棚上に位置し,もとは大陸の一部であったが,第三紀の北海,アイリッシュ海の陥没によって大陸と分離した。イギリスの地形は全般に低平で,最高峰のベン・ネビス山でも標高1343mにすぎない。しかし山地と平野の区分は比較的明瞭であり,通常ティーズ河口とエクス河口を結ぶ線によって北西側の高地地域と南東側の低地地域に二分される。さらにそれらの地域を細分すれ次の10地形区となる。(1)スコットランド高地 先カンブリア時代や古生代の変成岩からなる不毛地で,カレドニア造山運動による褶曲のため,北東-南西方向の断層が走る。山地は地溝帯によって北西高地とグランピアン山脈に区分され,U字谷や氷食湖が発達する。(2)スコットランド中央低地 巨大な地溝帯にあたり,おもに古生代後期の堆積岩からなる。谷底には破砕作用によって火山性丘陵が形成され,また石炭層が露出して炭田が立地する。(3)スコットランド南部高地 古生代のケツ岩や砂岩からなる丘陵で,カレドニア造山運動による褶曲の結果,隆起準平原となった。荒涼たる不毛地(ムーアランド)が広く分布し,イングランドとの境界地帯を形成す。(4)北イングランド高地 脊梁をなすペナイン山脈を中心とする地域で,地層は下部から石灰岩,ケイ質砂岩,石炭層の順に重なり,褶曲を受けて背斜構造をなす。全体が波浪状高原で,山麓には多くの炭田が立地する。このほかこの地域には,チェビオット丘陵,カンブリア山脈(レーク・ディストリクト)などの高地,ランカシャー・チェシャー平野,ヨーク川・トレント川河谷平野などの低地が含まれる。(5)ミッドランド高地 セバーン川,トレント川水系によって浸食される丘陵地帯で,三畳紀の砂岩が中心。(6)ウェールズ山地 中部・北部を占めるカンブリア山地は古生代前期の堆積岩からなり,カレドニア造山運動による褶曲の影響を受けているが,南部はアルモリカ造山運動によって形成された東西の走行をもつ変成岩の山地である。(7)南西イングランド高地 デボン紀のケツ岩,砂岩から構成される波浪状高原が主であるが,南部にはアルモリカ造山運動による褶曲で生まれた花コウ岩山地もある。(8)北アイルランド高地 第三紀の玄武岩溶岩からなるアントリム台地を中心に,カレドニア山系に属する北西高地やモーン山脈の一部を含む。(9)イングランド・ケスタ地帯 イングランド南東部では中生代のジュラ紀,白亜紀の地層が卓越する。そのうちチルターン丘陵,ウィールド丘陵などの石灰岩や白亜層の部分は急斜面を,ロンドン盆地やテムズ川上流地域などの粘土質の部分は河谷を形成し,典型的なケスタ地形の発達をみる。(10)イングランド東部平野 ケスタ地帯の延長部ではあるが,氷食を受けて波状地となったイースト・アングリア地域と,ウォッシュ湾岸の沖積平野で泥炭(ピート)とシルトでおおわれるフェンランド地域からなる。
気候
イギリス諸島の気候は,その位置が中緯度の大陸西岸にあることから,偏西風とメキシコ湾流(北大西洋海流)の影響を受けて,典型的な西岸海洋性気候となる。気温は年中温暖で,たとえばロンドンの月平均気温は1月4.2℃,7月17.6℃となって,年較差はきわめて小さい。夏の等温線が緯度を主要因子として,ほぼ緯度と平行に分布するのに対し,冬には海洋と偏西風の影響をいっそう強く受けて西岸が相対的に温和となり,等温線は緯度と直交する。また降水量は偏西風と山地の関係から生じる地形性降雨に特色があり,このため一般に西部が多雨地域,東部が乾燥地域となる。特にスコットランド高地西部やレーク・ディストリクト(湖水地方),ウェールズ山地北部では年間2500mm以上の降雨・降雪をみる。逆にイースト・アングリアを中心とするイングランド東部は偏西風の風下側にあたり,年750mm以下となり,ロンドンの年間降水量も594mmにすぎない。こうした地形性降雨による湿潤・乾燥の関係は,ペナイン山脈をはさんだランカシャー,ヨークシャー両地方にもみられるが,その降水量の差は大きくない。
地誌
イギリスは歴史・民族・行政上,イングランド,ウェールズ,スコットランド,北アイルランドの4地方に大別されるが,地誌的には地形や気候,産業,文化などの観点を加えて,次の各地域に区分される。
(1)北部 ハイランドとも呼ばれる地域で,氷食を受けた高地が卓越するが,東部には低地もある。気候は東西で対照をなし,西海岸の年降水量は1250mm以上で東部の2倍以上に達する。こうした自然のため不毛地が広く,粗放的牧羊とエンバクの栽培がみられるにすぎない。またヘブリディーズ諸島など周辺島嶼も漁業と牧羊を中心とする過疎地域であったが,北海油田の開発に伴ってシェトランド諸島,オークニー諸島には原油基地が建設され,地域開発が推進されている。(2)中部 南北を断層線で画された低地帯で,スコットランドの政治・経済の中心地をなす。農業では少雨の東部が穀物栽培に,湿潤な西部が酪農,牧羊に重点をおいている。また鉱工業もエアシャー,ファイフ州などの炭田を背景に発展し,グラスゴーを核とするクライド川流域Clydesideには鉄鋼・造船などの重工業が集中している。これに対し古都エジンバラは,軽工業や金融業に特色を有する文化都市である。(3)南部 中央の丘陵地帯では粗放的牧羊が広く行われ,それを利用したトウィード河谷の羊毛工業は,ツイード織として知られる。ベリック周辺の東部低地では大麦,エンバク等の栽培が,西部のソルウェー湾岸低地では酪農もみられる。
(1)北西部 ペナイン山脈西麓を占める地域で,北部のレーク・ディストリクトは放射状河系の発達したカンブリア山脈と多雨な気候のため,牧牛や観光が主産業となっている。南部のランカシャー・チェシャー平野の土壌,気候は農業に適し,小麦,エンバクの栽培と肉牛,豚の飼育による混合農業または酪農が行われる。この平野にはマンチェスターを核とする大マンチェスターおよびリバプール中心のマージーサイドの両大都市圏が形成されており,前者はかつてランカシャー炭田を背景に綿工業で繁栄したが,その比重は低下しつつある。また後者は臨海部のため,石油化学・造船・製粉などの工業に特色を有している。(2)北東部 ペナイン山脈東側の年降水量650~750mmの地域で,穀作や混合農業,市場園芸が卓越する。鉱工業の発展も著しく,ニューカスル・アポン・タインをはじめノーサンバーランド・ダラム炭田を基礎に鉄鋼・造船業が立地するタイン川流域Tyneside,伝統的な羊毛工業都市リーズの周辺に成立した西ヨークシャー,シェフィールドを中心にヨークシャー炭田と関連した鉄鋼業を特色とする南ヨークシャーはそれぞれ連接都市域を形成している。なおハンバー河口のハル,グリムズビーは北海漁場の基地として重要である。(3)中部 いわゆるミッドランド地方であり,西部は丘陵,東部・南部はケスタ地形を呈する。中世の三圃制農業の伝統を受け継ぐ混合農業が主体であるが,酪農や市場園芸などへと多様化しつつある。また西ミッドランド大都市圏は産業革命によって発展した古い工業地域であり,バーミンガムやスタッフォード炭田を含む黒郷(ブラック・カントリー)の鉄鋼業が衰退し,代わってコベントリー,ウルバーハンプトンなどの機械工業が台頭している。(4)東部 丘陵のイースト・アングリアと低平なフェンランドから構成されるが,年降水量が平均625mmと少雨であるため,小麦,大麦,ジャガイモ,テンサイ等の畑作が大規模に行われ,イギリスの穀倉をなしている。またロンドン市場向けの果樹・野菜栽培も泥炭やシルトの地域で盛んである。この地域には重工業の立地がみられず,したがって大都市も形成されていないが,地方中心都市としてはノリッジ,ケンブリッジが重要である。(5)南東部 白亜層が露出するロンドン盆地,ハンプシャー盆地,ウィールド丘陵などを含むが,比較的乾燥するため大麦を中心とする穀作と牧羊・牧牛が卓越する。しかしロンドン周辺には酪農,ケントには果樹・ホップ栽培と市場向け生産も活発である。ロンドンはケスタ地向斜の底部に位置し,ローマ時代以後,イギリスの政治・経済・文化の中心地として発展してきた。特に商業・金融機能の集中が顕著で,消費財工業もみられる。大ロンドン都市圏では人口分散政策が推進され,郊外に8ヵ所のニュータウンが建設されている。また南部海岸にはサウサンプトン,ドーバーなど多数の港湾都市が立地する。(6)南西部 コーンウォール半島を中心とする地域で,南部海岸では温暖湿潤な気候を利用して輸送園芸もみられるが,丘陵部では乳牛や羊,肉牛の放牧地域となる。プリマス,エクセターなどの港湾都市がイギリス海峡側にあるが,むしろこの地域の中心は,航空機・食品工業の発達したブリストルである。
ほとんどが準平原状の高原でおおわれ,かつ年降水量1250mm以上の湿潤気候であるため,羊,肉牛の粗放的放牧に重点がある。工業は炭田の立地する南ウェールズに集中し,カーディフ,ニューポートに鉄鋼・造船などの工業が発達している。
バン川流域平野では酪農および大麦・ジャガイモ栽培と肉牛・豚飼育による混合農業が盛んであり,その周辺の台地・高原における牛の放牧・肥育とは対照をなしている。中心都市ベルファストは麻工業と造船業に特色を有し,ロンドンデリーにも衣料(シャツ)工業がみられる。カトリックとプロテスタントの対立による紛争地域でもある。
執筆者:長谷川 孝治
政治
政治体制と歴史風土
イギリスの政治体制は優れた模範として18世紀後半以降広く世界に注目され,その影響は江戸期日本にも及んだ。本多利明の《西域物語》(1798)は,適切な制度樹立を前提に,〈東洋に大日本島,西洋にヱケレス(イギリス)島と,天下の大世界に二箇の大富国,大剛国とならんことは慥(たしか)也〉と日本の将来を占った。幕末以降,福沢諭吉を先頭にイギリスの政治制度の紹介は飛躍的に質を高め,富国強兵の手本としてのみならず,政治的自由主義の源泉としても,近代日本に大きな影響を与え続けた。議院内閣制に代表される政治上の制度や技能が,近代世界におけるイギリスの最も卓越した貢献だとする主張には十分な根拠がある。他面で,それはヨーロッパの伝統的階層秩序が歴史変化に適応しながら生き延びようとした努力が,好運な条件に恵まれて,最も成功を収めた特異な例でもあり,移植困難な個性を色濃く帯びている。例えば同国は立憲政治の母国と称賛され,17世紀早くも,国王といえど触れることのできない基本法という,近代憲法観念の原型となる主張が議会人によって強調された。しかし共和政下の短命で微弱な試みを除き,今日なお憲法典は存在しない。憲法上の基本制度とされるものも,内閣のように単なる政治慣行にとどまるか,法令の裏づけをもつものも,理論上は交通法規と同一の手続で改廃されうる。議会立法権は至上とされ,これに対し違憲立法審査を行う機関もない。
成文憲法を欠き,政治慣行という一見あいまいな基礎の上に成立した政治体制の下で,高度に集権化し安定した統治と,個人の政治的自由の共存が維持された歴史背景として,(1)海洋商業国家として早くから地域統一に成功したため,大陸諸国に比べて陸上常備軍や官僚機構の重圧から自由だったこと,(2)17世紀の〈イギリス革命〉を経て,王国共通の慣習法たるコモン・ローを基調に法の支配が確立されるに伴い,判例法に顕著な個別事例解決優先と先例尊重の伝統が浸透し,財産権擁護を土台に社会秩序の安定が促進されたこと,(3)王権をはじめ大陸的・専制的な権力に抵抗する自由な公衆の前進をイギリス史の本流とみる〈ホイッグ的歴史解釈〉が統治層に共有され,政治ゲームの基調となって,自他の強権支配の歯止め役を果たしたこと,などの事情が挙げられる。大土地所有貴族や地方名望家地主が,自らの伝統支配を維持する際に,他の階層,集団の要求に柔軟に対応するに足る社会的・時間的余裕や政治的分別を備えていたことが,近代を通してこの体制を支えた直接の条件であり,ここに由来する土地貴族的政治風土は20世紀にまで生きのびた。明治憲法生みの親,伊藤博文が,イギリス型議院内閣制の即時導入を拒否する主要理由に,同国貴族にあたる社会勢力が日本には微弱な点を挙げたのもこれと関連する。他面,近年における国際的地位や競争力の低下,大衆化と官僚化の進行,EC加入などの事情は伝統的色彩を薄め,国際的同化を促している。EC脱退や地域分権の可否を問う国民投票の実施や成文憲法典・新人権憲章を求める動き,さらにはスキャンダリズムにさらされ,動揺を続ける王室の現状などは,このような変化を象徴するものである。
政治諸制度と歴史変遷
法形式上主権は〈議会の協調を得る国王King in Parliament〉にある。しかし過去3世紀間に国政の最終決定権は国王から議会へ,議会から内閣へと移り,内閣から首相への移行度合が現今の関心事である。首相の内閣指導力が強まるにつれ,実権は〈内閣の協調を得る首相〉へ移ったとする見解が,とりわけサッチャー政権下で強まった。
同国の政治が長期にわたる成長の産物であることは,内閣,政党,首相など,現代政治の鍵となる語が,起源的には非難・侮辱の意で用いられていた点に端的に表れている。内閣cabinetという言葉は,国王の信任する少数の大臣・寵臣からなる非公開の国政諮問会議のあだ名として,フランス語から借用された。国王の奥の間cabinetで秘密会議が開かれたのが名称の起源であるが,公式の国政諮問機関であり内閣会議の母体でもある枢密院Privy Councilの権能を奪し,国王専制を担う君側の奸(かん)のたまり場になると非難,警戒された。ためにチャールズ2世は外交委員会という名の事実上の内閣廃止を,一度は宣言せざるを得なかった。近代政党partyの起源も同じチャールズ治下の,親王権派トーリーと,これに対抗するホイッグの抗争に求められることが多い。両派の名称が,互いに相手をアイルランドの追剝(Tory)や狂信的反徒(Whig)になぞらえ非難する蔑称として用いられた事実が示すように,パーティは私益や熱狂を国王,王国に対する忠誠に優越させる悪徳の現れとみられがちで,反対党と反逆との境界は時としてあいまいになった。近代の首相prime ministerの起源はこれらに多少遅れ,18世紀前半の有力政治家R.ウォルポールに求められることが多い。もっともこの語にもフランスからの影響が強く,国王の正当な権能を僭取し臣下が分を越えて国政を牛耳ることへの非難や嘲笑の意がこめられていたし,ウォルポール自身も公式にはこの呼称を否認した。
このように否定的な起源をもつ一連の言葉が,政治運営に不可欠で望ましい制度を示す語として広く受容されていく背景に,議会制の確立がある。〈議会Parliamentum〉が公用語となるのは13世紀中葉で起源は古い。しかし以後数世紀間は,国王の都合しだいで召集されたり存在を無視されたりする不安定な準司法的諮問体にとどまり,議会出席は臣下の権利というより,政治的に危険で財政的にやっかいな義務に近かった。しかし16世紀に入り,司法体としてよりも立法機関としての議会に国家統治上の効用が見いだされたことや,王室財政の膨張に対する臣民の関心が強まったことなどの事情から,財政負担承認に優越的権能をもつ下院(庶民院House of Commons)の重要性と人気が高まった。
〈名誉革命〉後,王権による議会権能侵犯の危険が法的に抑制されたのに加え,ウィリアム3世の始めた長期にわたる大陸戦争の戦費調達を承認するため,定期的な議会開催が慣例となった結果,下院は上院(貴族院House of Lords)を凌ぐ有力な統治機関として確立された。予算承認と引換えに,内閣の人員構成を通して国王の統制を図る制度的基礎が固まり,内閣は事実上政府そのものとして認知されていく。他面で,内閣の存続が下院多数派の継続的支持に依存する度合も高まり,そこに院内における政党を正面から肯定する条件も形成される。政府の行動を監視する公共的組織体の一種として反対党を評価する見解は,18世紀にほぼ定着する。もっとも当時,国王や上院貴族が保持していた官職,役得の配分権や選挙操縦能力は大きかった。そのため選挙で選ばれた議会多数派が国王の内閣をつくるというより,国王の信任する内閣が議会多数派を生み出す傾向が支配的で,院の内外を問わず政党の組織力や議員規律は弱かった。1714年に始まる大陸出身のハノーバー朝の時代には,国王が定期的に国内を留守にしたり,皇太子を通じて野党政治家に閣議機密の漏れるのを防ぐため臨席を避けたりしたため,国王の臨席なき内閣運営の慣行が定着する。特に七年戦争時の広範な国策統合の必要に応じて,人員膨張により非能率となった内閣会議の中に,少数有力閣僚のみからなるインナー・キャビネットの一種,実務内閣Efficient Cabinetが形成された。これによって宮廷高官の内閣からの排除が完成し,議院内閣制へ発展する準備がほぼ完了した。
その後生じたフランス革命の衝撃や産業発展に伴う権力分布の社会的・地理的な変動に伴い,貴族・地主の寡頭支配への批判が表面化し,政党の活性化や選挙制度,行政機構の改革気運が顕著となる。1832年の選挙法改正によって,従来は有力貴族・地主や政府が事実上私物化していた一部選挙区の改廃や,選挙権の部分的拡大が実現される。これに官職私有化への批判と改革が加わり,国王と上院の下院操縦能力は低下する。その半面で,下院の独立と権威は上昇し,国王の信任ではなく,下院議員の動向が内閣存続を決定する鍵となった。W.バジョットの言う〈立法府の執行委員会〉としての内閣,つまり議院内閣制の確立である。もっともこの時期の政党の議員規律はなお弱く,独立性の強い議員の離合集散が内閣の安定を損なうとの危惧も強かった。しかし政府の活動が質・量ともに低かったことに加え,有力政治家が開明された貴族主義を核に,党派を越えた社会的一体感を維持したことや,議員や選挙民の大半もその指導を受容したため,統治の安定は維持された。
19世紀後半に入り,都市化と産業化の成熟,あるいは1867,84両年の選挙権の大幅拡大などを背景に,トーリーとホイッグは,土地貴族支配を頂点では残しながらも,院外党組織の拡充,党規律の強化,社会政策の積極的導入を進めた。この過程で名望家政党から大衆組織政党への脱皮が進み,トーリーは保守党,ホイッグは自由党と名称も変え,現代的な二大政党制が成立する。同時に,選挙によって多数派となった政党が,党首を首班とする内閣を通して,選挙公約に掲げた一連の政策を実施する傾向,つまり政党内閣化が進んでいく。これは議会人個々の見解よりも党組織の意向と選挙民の選択が,政府と政策の命運を直接に決定することを意味する。内閣の安定性と政策の一貫性が強まる半面,決定権は議会から政党および政府の両方向に移っていく。20世紀に入り,漸進的社会主義を説くフェビアン系知識人と労働組合を中心に結成された労働党が,大衆化した選挙民と組織化の進んだ組合を背景に,自由党の地盤を侵食して進出し始めると,この傾向にも一段と拍車がかかった。自由党と労働党の連携や連立内閣など,主要政党交替に伴う,再編成期の政治変動を経て,第2次大戦後,保守・労働両党間に再び安定した二大政党が確立され,今日にいたっている。
国政の概略
(1)国王と枢密院 イギリスは公式にはなお王国であり,法律は国家Stateの語の代りに国王(SovereignまたはCrown)を用いる傾向がある。たとえば政府は女王陛下の政府Her Majesty's Government,法廷は女王の法廷Queen's Courtsと総称される。しかしかつては重要な役割を果たした国王,枢密院,さらには上院についてさえまったく言及することなく,今日の政治過程の大半は理解可能である。首相後継者の不明瞭な場合や少数派内閣による解散奏上の際に,国(女)王がなんらかの政治的指導力を発揮しようとした事例は20世紀にもいくつかあるが,実際上の効果には議論がある。国王のすべての政治行為が首相の助言と承認に基づくことは,今日では確立された慣行であり,国王の主要な機能は栄誉の源泉やイギリス連邦や国民の一体性の象徴といった,社会的・外交儀礼的側面にある。しかし近年になって,王室費Civi Listに代表される税負担の大きさに批判が高まり,皇太子夫妻であるチャールズ,ダイアナの不和と離婚をめぐるスキャンダル報道の過熱や,1997年9月に起きたダイアナの悲劇的な事故死をきっかけに盛り上がった批判的な国民世論は,王室の将来に暗い影を落とすことになった。過去にも何度か存続の危機を切り抜けてきた王室が,ただちに廃止に追い込まれるとは思われないが,〈国民に開かれ親しまれる王室〉を標榜したダイアナの神話に将来も苦しむ可能性は少なくないだろう。
枢密院は王族,政界・司法界・宗教界などの高位顕官から構成される。内閣制の発展につれて形骸化が進み,その一部が司法機能を果たすのを例外に,現在ではある種の政府の決定に,法形式上の権威を与えること,および枢密院議長Lord President of the Councilが有力無任所相ポストとして内閣で活用されることがおもな効用である。
(2)立法部と政党 上院は伝統的には比較的少数(18世紀初頭に178名)のイングランド世襲貴族を中心に構成され,国王と並び統治の中枢を占めた時代もある。しかし20世紀初頭以降,地位低下は最終段階を迎えた。1911年法以来法的権限も大幅に削減され,世襲制原理の根本的変革の試みや,一部には廃止の動きすらみられる。地位低下とは対照的に規模膨張が進み,1958年法によって創設された一代貴族を含め総数は1195名(1996)に達している。うち女性は81名で,全体としての議場出席率は25%程度である。立法権の中心をなす下院は,一区一人制に基づき,1969年以降18歳以上の国民を有権者とする選挙で選ばれる659名(1997)の国会議員からなる。任期は5年だが,首相が政治的時機を計って議会解散するのが通例である。第2次大戦後,第1回の1945年以来,97年まで15回の総選挙が,平均3年弱に1度実施された(1974年には年内2度の総選挙実施)。投票率は71~84%の間を動き,投票率低下の明確な傾向は見られないが,国民の間に政治家や議会に対する不信感は根強い。最近の1997年5月総選挙は,投票率71.4%,労働党は44.4%の得票率で,同党史上初めて400議席を超える418議席を獲得し,地滑り的勝利を得た。保守党は31.4%,165議席で,1906年総選挙以来の壊滅的な打撃を受けた。第三政党の自由民主党SDPは得票率では前回を1%ほど下回る17.2%だったが,議席は倍増以上の46に増えた。これ以外に地域の独立や自立性を訴える地域型政党として,スコットランド国民党SNP(6議席),ウェールズ民族党Plaid Cymru(4),北アイルランドのアルスター統一党(10)およびシン・フェーン党(2)などの小党が存在している。
地域政党や第三政党の台頭が目だつようになるのは1970年代以降のことである。1951年総選挙では,保守・労働両党のみで全投票の97%を占めていたが,60年代末からミドル・クラスと保守党,労働者と労働党という階級的な政党選択の傾向が弱まり,79年の調査では熟練労働者の両党支持率はともに4割と伯仲するまでになった。両党に不満足な有権者は,長年低迷していた自由党支持に向かうか,スコットランドやウェールズの地域独自性を主張する政党に流れた。81年には労働党穏健派の一部が分離して社会民主党SDPが結成されるなど,政界再編の動きも目だつようになり,その主要な流れが集まって自由民主党になった。97年選挙では保守・労働両党の得票合計は75%程度になり,小選挙区制を含めて,伝統的な二大政党政治が民意を十分には吸収できなくなっているという批判も根強いが,保守・労働両党ともに比例代表制には消極的である。
イギリスはヨーロッパ議会に87の議席を持ち,単記移譲制をとる北アイルランドは例外として,下院議員選挙と同様の小選挙区制によって議員を選出している。1994年選挙では,投票率は36.4%,労働党が44.2%の得票率で62議席,保守党が27.8%で18議席,自由民主党が16.7%で2議席などを獲得している。ヨーロッパ議会では,労働党代表はヨーロッパ社会主義政党に,保守党は民衆ヨーロッパ党に,自由民主党は自由・民主・改良グループにそれぞれ加わっている。
(3)行政部 国政の中心たる内閣や各種閣僚会議の構成は歴代首相の意向による面が強いが,戦時の少数閣僚内閣を除き,通例内閣は首相以下外相,内相,蔵相などの主要省庁大臣と,枢密院議長など2~3名の無任所(相当)相を含む20名程度の閣内相cabinet ministersで構成される。これに閣議構成員ではない閣外相や政務次官などを加え総計100名程度の政府職が狭義の政府Government,Ministryを形成する。以上の全ポストは慣行上両院いずれかから首相が任免を行い,両院いずれにも属さない場合は一代貴族の授爵が行われる。閣僚は自省管轄分野のほか,内閣の平等な一員として国政全般にわたる討議と決定に加わり,首相もこれら同輩中の首座primus inter paresにとどまるとするのが伝統的見解だった。しかし著しく拡充された党および国家機構双方の頂点に立つ首相は,議会解散権や広範な任免権の享受,頂上会談外交の進展,閣僚委員会への決定権分与などの事情を背景に,各省担当事務に追われる閣僚に比べ卓越した地位を占め,合議体としての内閣の機能は低下しつつある。
内閣の下にある国家公務員機構の基調は,競争試験任用制を核とする1853年のノースコート=トレベリアン報告によって築かれた。20世紀の両大戦を節目に膨張が顕著になり,特に1960年代初頭から70年代中葉にかけ地方公務員数は1.5倍強に,国内総生産(GDP)に占める公共支出比率は42%から60%へと膨張した。産業国有化を含めた公共部門の肥大化には,経済面のみならず政治的自由からの批判が強く,特に79年のサッチャー政権成立後は公共支出削減に思い切った措置がとられた。
その一例が〈エージェンシー制executive agencies〉である。従来の国家行政機関は,政策目標や費用・資源,基準などの基本諸政策を決定し,その執行を監督する中枢部分と,その下で業務の執行をいわば請け負うエージェンシーとに分割された。96年1月までに,110のエージェンシーが設立され,公務員の68%がそこで働くようになった。
19世紀末の改革以来,70年以上も安定した構造が維持されてきた地方行政は,1960年代の労働党政権下で激動期に入った。97年9月にはスコットランドとウェールズで,分権の可否を問う住民投票が実施され,スコットランドでは,国防・外交を除いて,なかば独立国家に近い広範な権限をエジンバラ議会に委譲する方向が多数によって支持された。ウェールズの場合,権限委譲は小さく,賛否もほぼ伯仲するなど,温度差は見られたが,いずれについても分権化の基本方向は固まった。1999年には両地域ともそれぞれ自前の議会を選出することになる(2000年発足)。97年5月現在の地方自治体は,イングランドでは35の県(Non-metropolitan Counties)の下に274町村1島(DistrictsおよびScilly Isles),27の独立自治体(Unitary authorities),36の大都市自治体(Metropolitan districts)および32の大ロンドン区(Greater London boroughs)が,ウェールズでは22の独立自治体(Unitary authorities=9 Counties+13 County boroughs)が,スコットランドでは29の独立自治体(Unitary authorities)と三つの島自治体がそれぞれ存在し,イングランドでは環境省Ministry of Environmentを通して,ウェールズ,スコットランドでは,それぞれウェリシュ・オフィス,スコティッシュ・オフィスを介して中央政府と連携する構造になっている。ただし,日本と比べると国の出先機関によって提供・監督されるサービスや業務の比重が高く,サッチャー以降,財政自治権も縮減されている。
(4)司法部 近代司法制度は17世紀の大権諸裁判所の廃止および18世紀初頭の判事の地位保障強化に直接の起源をもち,19世紀後半の一連の改革によって現在の枠組みがほぼ形成された。イングランドとスコットランドでは法発展にかなり違いがあり,現代の司法制度にもその影響が広くみられる。上院は司法上依然重要な機能を保ち,法曹貴族からなる上院法廷が民・刑事共通に連合王国の最高法廷であるが,スコットランドの刑事訴訟のみは同地の司法高等裁判所が最終審となる。主たる法源はコモン・ロー,衡平法,議会制定法であるが,議会制定法の比重は着実に増し,先例の拘束力も近年緩和されつつある。イングランドの刑事訴訟を例にとれば,刑事事件の9割以上が,通例法的専門資格のない3名程度の治安判事からなる治安判事裁判所Magistrates' Courtで,残りの重大犯罪が1971年に発足した刑事裁判所Crown Courtで扱われ,両法廷からの控訴は控訴裁判所Court of Appealの刑事部でなされる。司法制度は法の支配の中心として高い威信と自律を享受し,素人判事や陪審員制などの伝統を残している半面,訴訟費用の国家扶助(1949導入)や死刑廃止(1965)などの改革も進められてきた。特にEC(現EU)の法令・判決の国内直接適用は,労使紛争調停機構(1919導入)をはじめとする準司法的審問機関の増加とともに,同国の伝統的法体系の変化を促す有力な要因となっている。
執筆者:水谷 三公
外交,軍事
外交の歴史的伝統
イギリスの外交軍事政策は,この国がヨーロッパ大陸の西岸に近接する人口の多い小島国であることによって,長年にわたり規定されてきた。エリザベス1世(在位1558-1603)以降のイギリスは海外に発展し,巨大な植民地帝国の建設と国際貿易の拡大に国策を求めた。イギリスの伝統的な関心は,ヨーロッパ大陸の諸国間に均衡を形成して平和が維持されること,世界最強の海軍力を保持し通商路を確保することの二つであった。
(1)貿易立国 イギリスは産業革命を世界で最初に成し遂げ,今日まで輸出貿易に依存する経済構成を保っている。したがってイギリス外交政策の主要な目的は,できる限り輸出貿易を拡大することにあり,広く海外に利害関心をもってきた。19世紀後半になると,ドイツ,アメリカなどの資本主義も発展し,〈世界の工場〉としてのイギリス産業の優越的地位はしだいに失われた。そこで19世紀末のイギリスは,世界に散在する植民地〈大英帝国〉の経済的価値を再認識するようになり,帝国保全の強化政策がとられた。しかし第1次世界大戦後,経済的・軍事的に帝国維持は困難となり,また植民地にも民族主義が勃興したので,大英帝国はゆるやかな〈イギリス連邦〉へと改編(1931)された。一方経済的には,特恵関税制度を実施(1932),連邦諸国との相互依存関係が強化された。
(2)勢力均衡政策 ウィーン会議(1815)から第1次世界大戦にいたる100年間,イギリスは七つの海を支配する海軍力と最先進の経済力を背景にして,〈イギリスの平和Pax Britannica〉を維持した。イギリスが極度に恐れたのは,どの国かがヨーロッパ大陸で絶対的な優勢を確立してオランダ,ベルギーなどの独立を脅かし,反英大陸同盟が結成されることであった。そこでイギリスは,自らは〈光栄ある孤立〉を保ちながら,巧みな外交と時機に応じた軍事介入によって,大陸諸国間の勢力均衡に成功した。しかし19世紀末以降,列強間の帝国主義的対立が激化し,イギリスの軍事的・経済的実力が相対的に低下するにつれて,バランサーとしてのイギリスの役割はしだいに失われた。日英同盟の締結(1902)は,〈光栄ある孤立〉政策修正への第一歩であった。第1次世界大戦後のイギリスは,バランサーの実力に欠けた条件下で,ヨーロッパ大陸に勢力の均衡をなおも試みたが,結局は対独〈宥和政策〉として失敗した。
(3)現実主義 政策決定におけるイギリス外交の特色は現実主義であり,しばしば諸外国から〈不実のアルビオン〉とか偽善者と非難された。この現実主義は,理想や理論よりも経験を重んじるイギリス人の民族性と,イギリス政治体制の民主的性格が生み出したものである。そこでイギリス外交の伝統として,なんらかの計画的または長期的な対外政策をもつことを避け,機会主義的に現実を処理する方式が定着した。ヨーロッパ大陸に対して孤立と干渉を交互に用いるという従来の〈勢力均衡〉政策や,〈超党派外交〉は,国際問題に対する現実主義的アプローチの典型である。
外交の現状
第2次世界大戦後,国際政治における権力の中心は米ソの超大国に移り,また植民地の発言権が増大するにつれて,国際社会に占めるイギリスの地位はいよいよ低下し,安全保障・経済の両面で対米依存の度合が深まった。一方アジア・アフリカの植民地は次々に独立し,〈イギリス連邦〉は単なる〈コモンウェルス〉へと改称(1949)された。ここにイギリスはようやく,ECに関心を向け加盟交渉を進めたが,ド・ゴール体制下のフランスの反対によって阻まれ,1973年になって加盟が実現した。かつて〈光栄ある孤立〉を誇り,大陸外から勢力均衡政策を推進したイギリスは,いまやヨーロッパの一国とならざるを得なかった。だが,長期保守党政権下のイギリスは,独・仏を主軸にするヨーロッパ統合には消極的で,国家主権の保持に執着し,単一通貨の導入に反対した。91年末のマーストリヒト条約では,通貨統合に関して免除条項を認められた。97年成立のブレアTony Blair(1953- )政権はEUに対し,国益は守りつつも,より柔軟な対応を採るものと期待されている。
日英関係
イギリスと日本との交渉は,1600年(慶長5)九州豊後海岸にウィリアム・アダムズ(三浦按針)が漂着したことに始まり,徳川家康の許可を得てイギリス東インド会社は13年より平戸に商館を開いて通商を行った。しかしオランダとの競争に敗れて貿易はふるわず,23年(元和9)平戸商館は閉鎖され,両国の関係は絶たれた。鎖国下にイギリスが通商再開を求めたこともあったが,幕府は拒否した。19世紀に入ってイギリス船は日本近海に出没するようになり,ことに1808年(文化5)のフェートン号事件は幕府に衝撃を与え,イギリスに対する関心は著しく高まった。ペリー来航の翌年(1854),イギリス東インド艦隊が長崎に入り,さらに55年(安政2)には日英和親条約が批准され,58年には日英修好通商条約が調印されて正式の外交関係が樹立された。徳川幕府を支持したフランスに対抗して,イギリスは薩長など倒幕諸藩を支援し,明治新政権の樹立を背後から助けた。
その後イギリスは,明治政府の近代化政策を積極的に援助し,親密な日英関係は第1次世界大戦まで続いた。1902年に締結された日英同盟は2次にわたって更新され,日本は対ロシア問題,大陸問題についてイギリスの極東の憲兵としての役割を果たした。21年のワシントン会議で日英同盟が廃棄されてから,東アジアにおける日英の利害関係はしだいに対立し,とくに満州事変を経て日中戦争の勃発,日独伊三国同盟の締結,日本の南進政策で全面的に対立して日英戦争となった。
第2次世界大戦後は,貿易と文化交流面が中心となり,イギリスは日本の東南アジア,アフリカへの経済進出を警戒したが,62年に日英通商航海条約を結び,日本に最恵国待遇を与えた。71年には日本の天皇・皇后がイギリスを訪問し,また75年にはエリザベス女王夫妻が訪日して歓迎を受けた。
軍事政策
イギリスの常備軍は,ピューリタン革命中の1645年議会側が創設した〈新型軍(ニューモデル軍)〉に始まり,王政復古後は国王の正規軍として発達した。しかしクロムウェルが〈新型軍〉によってクーデタを起こし,軍事独裁をしいた苦い経験から,議会側は常備軍の動向をたえず警戒し,議会による軍隊の統制に配慮してきた。89年オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に認めさせた〈権利章典〉では,議会の承認なく平時に国内で常備軍を徴集することが禁止された。また議会は,軍隊に対する1年ごとの支出予算制度を確立し,軍法制度も1年ごとに承認する慣例をつくった。こうしてイギリスでは,軍隊の議会による〈文民統制〉方式が定着した。さて,19世紀末までは内閣が陸海軍を統制し,さらに防衛政策にも責任をもったが,そのままでは軍事技術の飛躍的発展や戦略の変化に対応できなくなり,1902年に〈帝国防衛委員会(CID)〉が設立され,平時におけるイギリス防衛政策の最高諮問機関(議長は首相)として,第2次世界大戦の直前まで機能した。
今日,国王が全軍隊の名目上の最高指揮官であり,宣戦の権能をもっているが,実際には議会の監督のもとで国防に関する最終的な責任は首相および内閣が負う。内閣の中には首相を議長とする国防・対外政策委員会があって,これに関する最高政策が決定される。国防大臣は軍隊の直接の最高管理者であり,同委員会の決定事項の実施につき議会に対して責任をもつ。戦後イギリスの国防政策は,〈北大西洋条約機構(NATO)〉を中心に展開され,西ヨーロッパ全体の安全を通じて自国の安全を保持しつつ,イギリス独自の核戦力を開発してきた。イギリスの当面する国防政策上の問題は,国防費の増加抑制とNATO防衛負担の増加傾向をいかに調整するかにある。1912年以降,陸海空三軍とも志願兵役制に切り換えられた。
執筆者:池田 清
経済,産業
世界最初の工業国の建設
18世紀後期と19世紀の中ごろとの間に,イギリスは産業革命を成し遂げて,世界で最初の工業国を築き上げた。イギリスの産業革命は,それが18世紀後期というずばぬけて早い時期に始まって,産業革命のパイオニアとなり,世界の工業化の起点となったばかりでなく,外国の援助や政府のイニシアティブによらず,自生的であった点でユニークである。イギリスが工業化のリーダーになりえたのは,ただ鉄鉱や石炭の資源に恵まれていただけでなく,発明や工夫,アイデアが企業化され実用化される社会経済的条件が他のいずれの国よりも早く成熟していたからである。産業革命の中心をなす最もドラマティックな変化は,工業生産が道具と手の熟練に基礎をおいた家内工業から,機械と蒸気力に基礎をおいた工場制工業へ移行して,労働の生産性が著しく向上し,物資の供給が急速に豊富になったことである。この変化はまず綿工業から始まって,しだいに他の産業部門に広まっていった。そして機械化の波はついに交通手段に及び,安全で大量かつ安価に貨客を輸送する手段をもたらした。機械輸送の時代を先導したのは鉄道であった。諸外国ではしばしば鉄道建設が産業革命の出発点となったが,イギリスでは終着点となり,産業革命のいわば総仕上げとなった。鉄道実験時代に終止符を打ち,真の鉄道時代を開いたのは1830年に開通したリバプール・マンチェスター鉄道であった。同鉄道の企業的成功がもたらした熱狂的な鉄道投資は,世紀半ばまでに現代のイギリスの鉄道幹線網を完成させて,ロンドンを中部・北部の工業都市をはじめとする全国主要都市と連結し,他方では株式会社組織によるビッグ・ビジネスと証券市場の発達に大きな刺激を与えた。こうした鉄道の普及と相まって産業革命は人口の地域分布と職業分布を変えた。言い換えれば都市化の現象であり,労働人口の第1次産業部門から第2次,第3次部門への移動であった。その結果1801年にはイギリス人口の3分の1,51年には2分の1が都市に住むようになり,第1次部門の労働人口は1801年には全体の36%であったが,51年には22%に減少した。つまり産業革命の進展にともなってイギリスは伝統的農村社会から都市的工業社会へ変わっていった。
産業革命に続く19世紀の第3・四半世紀,言い換えればロンドンのハイド・パークで世界最初の万国博覧会が開催された1851年から,長い低成長時代が始まる73年の恐慌に至る四半世紀は,いわば産業革命の収穫期であって,イギリスが繁栄の絶頂に達した黄金時代であった。後世のイギリス人が〈ビクトリア朝の繁栄期〉と呼んでいるこの時期は,レッセフェールを謳歌し自由競争を基調とした時期であり,資本主義が最も典型的な姿を示した時期であった。他の国々に先駆けて新工業技術をマスターしたという技術的優位のおかげで,この時期のイギリスは繊維製品をはじめとする工業製品の世界的・独占的供給者--いわゆる〈世界の工場〉--となり,他の農業国はイギリスに食糧と原料を供給することになった。重商主義の支柱として長い間貿易を制限してきた穀物法と航海法を撤廃し,1860年にはフランスとの間にコブデン=シュバリエ条約を締結して,イギリスが貿易自由化のリーダーとなり,世界貿易の拡大を推進しえたのも,その背景にこうした国際分業関係,相互依存関係が形成されており,それがイギリス経済の成長を規定する基本的要因となっていたからである。つまりこの時代のイギリスは〈世界の製鉄所,世界の運送業者,世界の造船業者,世界の銀行家,世界の工場,世界の手形交換所,世界の貨物集散地〉であり,世界の貿易はイギリスを基軸として動いていたのである。
工業覇権の喪失
〈ビクトリア朝の繁栄期〉は1873年の恐慌によって終止符が打たれ,それから第1次大戦に至る40年の間に,イギリス経済は〈大不況期〉(1873-96)と呼ばれる苦難にみちた停滞期を経験し,世界最初の工業国としての卓越した地位を失った。過去の繁栄を支えてきた鉄鋼,石炭,繊維などの〈旧〉産業は,また最も重要な輸出産業であったが,西欧やアメリカにおける後進工業国の台頭によってしだいに輸出市場が縮小し,往年の活力を失った。鉄鋼についていえば,イギリスが開発した近代製鋼技術はむしろアメリカやドイツに大きな成果をもたらし,90年代には鋼鉄生産ではアメリカ,ドイツに,銑鉄生産ではアメリカに追い越され,かつての〈世界の製鉄所〉としての地位を失った。石炭産業はイギリスのあらゆる産業にエネルギーを供給する基幹産業であり,世紀末期には主要な輸出産業であったが,採炭部門の機械化のおくれによる生産性の低さもあって,炭価はアメリカに比べて相対的に高くなっていた。また製品の大部分が輸出向けであった綿工業は後進国の工業化によって大打撃をうけた。たとえばランカシャーの上得意であったイタリア,インド,日本でも綿糸布は自給自足ないしは輸出市場を求めている状態であった。他方,将来の成長産業として注目された自動車・電機・化学工業のごとき,いわゆる〈新〉産業においても,イギリスはアメリカやドイツに比べると技術開発の遅れが目だっていた。このようなイギリス産業の停滞を反映して,輸出は絶対量では増大したが伸び率では鈍化したし,世界の工業製品輸出に占めるシェアでもアメリカ,ドイツの躍進とは逆に,イギリスは1880年の41.4%から1913年の29.9%へ大幅に後退した。ところで,この時期に外国との競争によって最も甚大な被害をうけた産業は農業であろう。輸送コストの大幅な低下とイギリスの自由貿易政策に助けられて,1870年代からアメリカ小麦の輸入が激増し,穀産地帯は穀物価格の大暴落によって深刻な農業不況に見舞われた。その結果,農業人口は1861年の18.5%から1901年の8.7%に減り,農業所得の国民所得に占める比率は1860-64年の15%から95-99年の7%に低下し,世紀末葉には小麦の消費の4分の3は輸入に依存するようになった。こうした工業の停滞や農業不況を背景にして大不況期には保護貿易運動がおこり,経済ナショナリズムが高揚した。その一つは1880年代初期におこった公正貿易運動で,その狙いは外国の保護関税や輸出補助金からイギリスの産業を防衛するために,報復関税・相殺関税を課してフェア・トレード(公正な貿易)を維持することと,帝国特恵関税制度をてこにして大英帝国を結合し,イギリス工業製品の輸出市場を維持拡大することにあった。もう一つは1890年代の言論界をわかせた〈ドイツ製品〉騒ぎで,ドイツ製品の世界的進出の背景には企業家自身の自助努力とともに,保護関税,輸出奨励金,補助金,低金利融資,鉄道運賃割引,科学技術教育などドイツ政府の援助のあった点を指摘して,政府に産業保護政策を迫るキャンペーンであった。しかし,このような運動やキャンペーンは不況にあえぐ工業部門や農業界では盛り上がりをみせたが,国民をひきつけ自由貿易の伝統を切り崩す原動力とはならなかった。
上述のような経済停滞を反映して,1873-1914年の間,商品貿易は常に大幅な輸入超過となった。それにもかかわらず当時のイギリス人が豊かな生活を維持できたのは,商品貿易の赤字を埋め合わせてなお余りある巨大な貿易外収入があったからである。この時期の注目すべき貿易外収入は利子・配当などの投資収入である。投資収入がイギリスの国際収支に重要な役割を演ずるようになるのは1850年代後期からであるが,80年代以降は海運収入を上回った。1870-1914年の間,イギリスの海外投資は年平均では国民所得のほぼ4%に相当し,累積した投資額は第1次大戦前には約40億ポンドに達し,1911-13年の年平均の利子配当収入は1億8800万ポンド(国民所得の8.5~10%)に上っていた。このような巨大な富の流入,自由貿易と輸送革命がもたらした豊富かつ低廉な輸入食糧,労働者階級の実質賃金の上昇によって,大多数のイギリス人の消費生活はこの時代に質量ともに格段に向上した。パン,ビスケット,チョコレート,ビール,缶詰,冷凍食品,セッケン,タバコ,衣服,靴などの生産技術の進歩,トマス・リプトンに代表されるチェーンストアの登場,幼児死亡率の低下などがそれを物語っている。
戦間期における産業構造の転換
1913年,第1次大戦前のイギリスは,工業覇権を失っていたが,なお世界最大の工業製品輸出国であり,世界最大の対外投資国であり,世界最大の商船隊をもち,大英帝国という最大の帝国の支配者として君臨していた。しかし第1次大戦(1914-18)によって,イギリスは莫大な資源を浪費し,多くの海外市場を失った。戦時中に低下した工業生産は20年に戦前のレベルに回復し,戦時に失った約800万総トンの商船隊も急速に補充されたが,世界貿易に占めるイギリスの地位は低下した。たとえば世界の工業製品輸出に占めるイギリスのシェアは1913年の29.9%から37年には22.4%に低下した。これに反してアメリカは12.6%から19.6%に,日本は2.4%から7.2%に上昇した。
旧重要産業の停滞ないし衰退と新興産業の伸展,北部から中・南部への産業中心地の地理的移動は第1次大戦前から始まっていたが,この産業構造の変化は両大戦間にいっそう顕著になり,人口分布に大きな変化をもたらした。たとえば1921-37年の間に,ロンドンとその周辺地区や中部地方の人口増加率は全国(グレート・ブリテン)平均をはるかに上回り,反対にスコットランド中部やランカシャーではわずかの伸びにとどまった。外国における工業生産の発展,保護貿易主義や競争の激化は,概して輸出指向型のイギリスの旧産業を衰退させる重要な要因となった。なかでも第1に,石炭産業の問題は最も深刻であった。石炭生産がピークに達した1913年には,全生産高のうち船舶の消費分を含めた輸出が約3分の1にあたる9800万tに上ったが,その後しだいに減少して37-38年には約5000万tに半減した。石炭の効率的な利用と石油,ガス,電力の利用が広まったためである。1926年のゼネストが石炭産業の窮境を物語っている。第2に,戦前,世界の進水量の60%のシェアを占めた造船業も,戦後のブームのあとは世界貿易量の縮小,日本はじめ外国の激しい競争,技術革新の遅れによって建造量は減少し,31-37年の間はどの年も100万トンを大きく割り,最低の1933年はわずか13万トンにすぎなかった。第3に,綿工業も外国における自給化の進展と日本製品の進出によって海外市場を失い,1938年,最大の市場インドのごときは戦前の10分の1に縮小し,綿糸布全体の生産高は戦前レベルの2分の1以下に低下した。
他方,自動車,電機,レーヨンなど戦前からの新興産業は両大戦間に着実に拡大した。たとえば,フランス,ドイツ,アメリカに比べてスタートの遅れた自動車産業は両大戦間に国内市場を中心に急速に伸びて,1930年代末期には,第1位のアメリカとは比較にならないが,ヨーロッパでは生産と輸出において他を引き離していた。また,自動車産業と関連して航空機産業がこの時期に興り,30年代末期に再軍備が活発化してから急速に成長する。自動車,航空機と並んで注目すべきは電力の利用が工場にも家庭にも急速に広まったことである。1926年に全国に送電線を敷設する中央電力公社が設立されたが,30年には工場動力源としての電力の普及度は66%に伸びた。また1927年にBBCが誕生してラジオは爆発的に普及し,照明器具の需要と相まって電力産業,電気工業の発展を促進した。
以上のように,一方では産業革命以来イギリスの国富を支えてきた重要産業が衰退に向かったが,他方ではさまざまの新しい成長産業が伸びてきたので,両大戦間のイギリス工業生産は全体では年平均3%程度の成長となったし,また1人当りの実質所得も1913年と38年の間には30%以上伸びている。もしこれに労働時間の短縮や有給休暇を考慮に入れるならば,平均的な生活水準はもっと向上した計算になる。しかし1920年代初頭の不況,とりわけ30年代初期の世界恐慌(1929-34)の際の深刻な不況と大量失業,金本位制の離脱(1931),イギリス連邦特恵関税や輸入関税法(1932)にみられる自由貿易政策の放棄などが両大戦間期のイメージを暗くしている。ことにイングランド北部,南ウェールズ,中西部スコットランドのように不況産業の集中していた地方における慢性的な高率失業やハンガー・マーチ(飢餓行進)の記録は暗い印象をさらに深めることになった。
経済停滞に悩む福祉国家
第2次大戦(1939-45)によるイギリス経済の損失は,第1次大戦のそれとは比較にならないほど甚大で,船舶の喪失,爆撃による工場施設・住宅などの被害額は約30億ポンドに上った。そして戦時中,約10億ポンドの海外投資分を売却し,必需物資の輸入代金を支払うために金と外貨の保有高を減らしたほか,さらに30億ポンドの新たな外債を背負うことになった。しかも輸出は戦前レベルの約3分の1以下に落ち込んだ。すでに述べたように,工業国イギリスの経済は大量の輸入食糧と原料に依存しており,もともと大幅な輸入超過国であったから,貿易外収入による補塡が絶対に必要であった。ところが戦争によって対外投資収入と海運収入の二大貿易外収入がともに激減したので,国際収支の均衡を維持し,国民の生活水準を回復するためには,1938年の水準を78%も上回る大幅な輸出の増大をはかる必要があった。したがって戦後,政権を担当したアトリー労働党政府(1945-51)は戦時の遺産である統制経済の下で輸入の制限と輸出の拡大につとめねばならなかった。1949年に断行された大幅なポンド切下げ(対米4.03ドルから2.80ドルに)の効果と翌年勃発した朝鮮戦争の影響をうけて,輸出は伸び生産は活況を呈したので,統制経済はしだいに緩和され,イギリス経済は平時の状態に帰ったのである。この時期の労働党政府の経済政策で注目すべきは,一つはベバリッジ報告の線にそう広範な社会保障計画と完全雇用維持政策によって,高度の福祉国家の建設を目指したことである。第1次大戦前からイギリスでは健康・失業保険,老齢年金,最低賃金など,ある程度の社会保障が実施されてきた。しかし第2次大戦後,それは〈ゆりかごから墓場まで〉のスローガンが示すように,いっそう広範囲に拡大されることになった。その中には終戦直後の大規模な住宅建設,家族手当,統一的な国民保健サービス,国民保険,国民扶助,児童保護などの諸制度の確立が含まれていた。もう一つは重要産業を国有化して公企業(パブリック・コーポレーション)とし,これを計画的な経済成長の手段として活用したことである。アトリー労働党内閣の下で国有化された事業はイングランド銀行,BOACとBEAの二つの航空会社,鉄道,電力,ガスおよび鉄鋼などで,以後のイギリスにおける公企業の主要な部分を占めていた。以上のように,戦後のイギリス経済にみられる一つの特徴は,国民生活の安定と向上にとって国家の役割,政府の責任が重大になったことである。戦後の食糧,燃料,原材料,住宅の極度の欠乏は国家に頼る以外に解決の方法はなかったし,戦災復興に要した巨額の資金は国家に依存せざるをえなかった。またオートメーションやエレクトロニクスのような新しい工業技術の導入に要する巨額の資金調達にも,貿易自由化がもたらした激しい国際競争に対処するにも政府の強力な援助や指導が望まれた。こうした雇用と購買力の維持,物価安定,国際収支の均衡維持のために政府の積極的な活動は不可欠とされるようになったのである。戦後のこのような経済体制の変化は一言でいえば,資本主義市場経済から混合経済への移行といえるかもしれない。
1950年代は,戦後の耐乏生活と統制経済の時代が過ぎて,大部分のイギリス人にとっては繁栄の時代であり,楽観的ムードの支配した時代であった。しかし次の60年代になると楽観的ムードはしだいに悲観的ムードに変わっていった。というのは物価安定,完全雇用,国際収支の黒字,経済成長など基本的な経済政策の成果が,他の工業国と比べてもかなり劣っていたからである。たとえば国内総生産の年成長率では,イギリスは1960-64年が3.8%,65-69年が2.3%であったが,OECD(経済協力開発機構)加盟国全体ではそれぞれ5%と4.9%であった。そして67年,イギリスは再び重大な国際収支危機に見舞われ,政府はやむなくポンドを14.3%切り下げねばならなかった。それによってポンドは危機を脱したが,国内の物価と賃金が刺激をうけて激しいインフレーションがおこった。工業生産の伸び率も低調で,1957-76年の間,EEC(ヨーロッパ経済共同体)6ヵ国の年平均5.32%に対して,イギリスはわずか2.26%にすぎず,世界の工業製品輸出に占めるシェアも1950年には25.3%であったが,70年代になると10%を割って1けた台に落ちこみ,世界に先駆けて原子炉やジェット旅客機を開発した国のイメージはない。外国人はこのような経済停滞を〈イギリス病〉と呼び,イギリスを〈ヨーロッパの病人〉とみる。病気の原因については,たとえば企業経営の欠陥,強力すぎる労働組合,自由競争の過度の制限,時代遅れの社会構造,教育制度の欠陥,増加する政府支出,経済政策(ストップ・アンド・ゴー政策)の失敗などさまざまの説明がなされている。このような状況の下で苦悩するイギリス経済にとって最大の光明は,スコットランド水域で発見された北海油田であろう。〈イギリス病〉を克服し,インフレと失業を退治する特効薬として,イギリス人の北海油田の開発によせる期待は大きい。
執筆者:荒井 政治
労働運動
産業革命がフランス革命期の政治反動と同時に進行し,労働者が階級的被差別の状態におかれたことから,イギリス独自の労働者階級意識が生じた。他方,賃労働者の雇用・生活条件改善のための労働組合は,国家やギルドの職人保護規制が後退した18世紀,これに代わるものとして始まった。1824-25年の団結禁止法撤廃は自由主義経済思想の勝利だったが,27年には〈ソーシャリスト(社会主義者)〉という言葉がオーエン主義の機関紙に登場し,協同とコミュニティと組合が当時の労働運動を特徴づけた。第1次選挙法改正(1832)の階級的性格が露呈され,政治的民主主義の確立をめざすチャーチズム(チャーチスト運動)がこれにつづくが,ビクトリア中期の繁栄のなかで,飢餓と貧困に結びついたこの運動の政治的基盤が消え,自助の時代が到来する。51年結成の合同機械工組合は豊かな資金と統制力とをもつ〈新型〉組合で,この種の組合の〈労働貴族〉の圧力のもとに67年の第2次選挙法改正が実現する。68年に発足した労働組合会議(TUC)は労働運動の〈内閣〉となり,70-75年の労働組合法による組合の法的地位の承認,争議行為の正常化に貢献した。一方,1844年のロッチデール・パイオニア組合をモデルとする協同組合運動は消費者配当を特色とし,卸売部門にも拡大されて全国運動となるが,〈倹約〉の社会哲学のなかに埋没した。
イギリス資本の世界市場独占が終わる大不況期に社会主義運動が復活し(1881年の(社会)民主連合,84年のフェビアン協会,93年の独立労働党),新組合主義とよばれる不熟練労働者の組織化(1889年のガス労働者,港湾労働者)が進む。工場制の普及,都市化の進行,教育の普及とあいまって,19世紀末までに同質的労働者階級が出現し,労働党への道が準備された。その同質性は,第1次大戦中の労働の希薄化(熟練職への不熟練工の採用)によってさらに強まり,組合員数も1914年の414万から19年の792万へ激増し,組合合同など戦後の労働運動の再編強化をもたらした。26年の炭坑夫支援のためのゼネストは,TUC指導のもと250万の労働者が参加したが,労働側の敗北に終わる。30年代は炭鉱・繊維など旧産業の衰退と耐久消費財新産業の成長によって明暗が分かれ,37年に運輸一般労組が炭鉱労組を抜いて最大(世界一)の組合(組合員65万)となる。
第2次大戦後TUCは,完全雇用の下で賃金抑制を受け入れ,アトリー労働党政府に協力した。高水準の社会福祉と耐乏生活下の平等が,一般組合員の抵抗にもかかわらず政府への組合の支持をつないだ。55年以後,競合する組合相互の対立から争議が頻発した。新しい技術革新が古い労働貴族の急進化,組合指導者の左傾化をもたらし,組合勢力が労働党右派の脱社会主義化の試みを阻止し,組合の一部は単独核軍縮支持にまわった。64-70年のウィルソン労働党政権は,テクノクラートの経済成長計画からデフレ政策へと転じ,賃金抑制につながる所得政策や労働の慣行をくつがえす立法の試みは労組の自治・自立の伝統を脅かした。その後,ストライキ規制をねらうヒース保守党政権の労資関係法に対し組合は市民的不服従の態度を貫き,その所得政策に対する炭坑夫の挑戦が政権交替を招いた。74-79年の労働党政権は,自発的賃金抑制と引替えに実質賃金上昇,雇用・福祉,社会的平等,産業民主主義の促進をはかる内容の〈社会契約〉を組合と結んだが,インフレ,外貨危機のなかで力点を所得抑制に移した。国際通貨基金(IMF)からの借款のデフレ的条件のもと,失業は130万に達し,キャラハン労働党政府は79年,所得政策に反対する一連の争議によって退却を余儀なくされた。代わってサッチャー保守党政権のマネタリズム政策により失業は300万を超え,組合は守勢に立たされた。第3次産業の拡大,技術集約産業の発展など新産業構造の浸透と既成産業部門の停滞と衰退との結果,労働者階級の同質性が崩れ始め,伝統的階級意識のたがも緩んだ。80-81年のTUC加盟組合数は110,その組合員数1217万。組合員数40万以上の大組合の序列(運輸一般208万,合同機械労組148万,一般都市労組96万,国家地方公務員75万,全国公共従業員69万,科学技術経営職員49万,店員・分配関連47万,電気・電子通信42万)は新しい産業構造を反映し,25万の炭鉱労組は10位,18万の鉄道労組は16位にすぎない。
産業革命の緩慢かつ跛行的な進行が,長い間熟練と機械との共存を許してきた。熟練労働者の技能の独占が団体交渉の上で切札となるクラフト・ユニオン(職業別組合)とこれに参加できない不熟練労働者のゼネラル・ユニオン(一般組合)とが組合の主要な型となり,組合合同も産業別組合を発展させなかった。工場単位で多様な組合が併存することから急進的な職場委員運動が展開された一方,組合の自治・自立がセクト化を招き,組合の戦闘性は非政治的な経済主義に向かった。1979年の総選挙では組合員の3分の1が保守党に投票した。〈労働運動が前進を止めた〉といわれ,高次の集団意識の形成が望まれている。
執筆者:都築 忠七
社会保障
イギリスは1948年7月までに一連の社会保障立法を全面実施して,福祉国家の理想的モデルとして全世界の注目を集めた。それは1942年のベバリッジ報告を基礎とするものであったが,それはベバリッジの基本的立場が全部実現されたことを意味しなかったし,またその基本的立場が全面的に正しかったことを意味するものでもなかった。けれども,それ以来,イギリスの社会保障は日本にとって目標となった。その後,各国の社会保障が整備されるにともない,その比重は相対的には低下したものの,なおイギリス型とよばれる特色と独自性をもっている。
相互扶助と自立・自助
イギリスでは古くから教区を単位とする生活困窮者の扶助が,救貧法によって全国的に強制されていた。とくに農村地主の家父長主義に支えられて,地域共同体の相互扶助は強固な社会基盤を形成した。また都市では商人や職人のギルドといわれる同業組合が発展し,組合員の病気や死亡のとき援助した。このような相互扶助は地域福祉やボランティア活動として,イギリスの社会的伝統となっている。19世紀になって経済自由主義が支配的となると,貧困は個人の道徳的責任とされ,自立・自助が強調された。勤倹節約という中産階級の美徳はしだいに労働者階級にも浸透し始めた。協同組合,友愛組合,労働組合の発展がこれを物語る。
協同組合は1844年ロッチデールから始まった運動で,当初R.オーエンの影響を受けていた。生活用品の共同購入によって,消費者の利益を守ろうとする活動である。友愛組合は労働者や小市民の共済組織で,疾病手当,老齢年金,死亡保険の給付を行った。それはしだいに,今日の保険会社のような機能と形態をもつようになった。また,労働組合は労働条件の改善のほかに,友愛組合と同じように共済活動を行った。ビクトリア中期の労働組合は熟練工を中心としていたから,このような相互扶助を行う財源があったのである。
このような相互扶助組織に参加できたのは上層の労働者であって,不熟練労働者,日雇労働者などは取り残されていた。経済繁栄は格差を増大し,下層労働者の集中する大都市のスラムでは貧困と悲惨が累積されていた。貧困は個人の罪悪とされ,公的貧民救済はきびしく制限されていた。厳寒と悪天候が続いた1860年冬,ロンドンで多数の凍死者が出た。下層民たちは職にありつけなかったが,救貧法の屈辱にも耐えられなかったのである。この事件をきっかけとして,多数の個人的援助が行われ,慈善事業が活発となった。人は自助によって生活するが,すべての人が自助によって救われるわけではない。不幸にも生活に困窮している弱者に対して,援助の手を差し伸べるのは富者の義務であるとされた。19世紀の慈善事業は個人主義の裏返しとして発展した。69年には慈善組織協会(COS(コズ))が発足し,調査にもとづく自立の援助という近代的社会事業の先駆けとなった。84年にはトインビー・ホールが建設され,セツルメント活動の最初の拠点となった。
社会保険から福祉国家へ
1880年代以降,失業問題が深刻になると慈善事業はしだいに力を弱めた。20世紀初頭前後の社会調査は大量の貧困の存在を発見して,自助の限界を明らかにした。老齢,疾病,失業などによる貧困は個人の責任ではなく,社会的対応を必要とする。20世紀初頭のリベラル・リフォームとよばれる一連の社会立法は,社会保障への出発であった。1908年老齢年金法は,道徳的欠陥のない70歳以上の低所得者に税方式で年金を支給した。25年にこれは社会保険方式を導入し,保険料の拠出を要件に65歳から年金を支給し,70歳からは従来の無拠出制によるとされたが,道徳条項は廃止された。また,寡婦,孤児にも年金が支給されることとなった。1911年国民保険法は健康保険と失業保険を制定したが,とくに後者は世界最初の制度であった。イギリス社会保険の特色は,適用を免税点以下の低所得労働者に限定し,均一拠出均一給付というフラット制を採用したこと,保険料の拠出には雇主と労働者のほか国も加わるという三者拠出制がとられたことがあげられる。
両大戦間の世界不況の中で,大量失業の重圧のため失業保険は大きな打撃を受けた。1934年失業法は失業保険の財政再建を行うと同時に,失業扶助法を制定した。失業扶助は長期失業者を対象としたから,救貧法の後身である公的扶助よりも,扶助基準は高く,受給資格も大きく緩和された。それは保険と扶助の双方によってナショナル・ミニマムを維持しようとする福祉国家の初期段階であった。
第2次大戦後の福祉国家は,このような歴史を背景に生まれた。国民保険は全国民を対象とする統一的制度とされ,最低生活を営みえない者には国民扶助が権利として与えられる。医療は国民保健サービス制度として国営化され,完全雇用は国家の責任とされたのである。
執筆者:小山 路男
社会
社会構成
イギリスといえば〈ジェントルマンの国〉というイメージを思い浮かべることも多いであろう。とりわけ日本においてこのイメージが強いのは,日本が開国してイギリスと接触するようになったのが,19世紀後半のビクトリア時代であったことが重要な意味をもっている。すなわち当時のイギリスは〈世界の工場〉として最先進工業国たる地位を誇っていたにもかかわらず,中世以来続いた,国王を中核とし貴族と地主(両者を合わせて広義のジェントルマンという)を担い手とする支配体制はゆるぎもみせなかった。そして工業社会において支配者たるべき産業ブルジョアジーも,土地を手に入れて地主階級の一員にならないかぎり,また有名なパブリック・スクールからオックスフォード大学,ケンブリッジ大学に学んでジェントルマンにふさわしい教育を受け,その価値体系を身につけないかぎり,ジェントルマン,すなわち支配体制の一員とはみなされなかった。もちろんジェントルマン階層には,それまでの歴史において,本来その中核であった土地所有者階級のほかに,聖職者・法曹関係者の一部,上級官吏,陸海軍士官,内科医といった専門職業の人びとも加えられており,その数は19世紀初頭で300近い世襲貴族を含め3万家族に達していた。そして工業化の進展にもかかわらず,国をあげてジェントルマン志向の強まったのが,このビクトリア時代であった。
ところでこの〈ジェントルマンの国〉は,世界最初のプロレタリアート(労働者)階級を広範につくりだしており,ディズレーリの小説《シビル》(1845)の一節を借りれば,〈お互いになんらの交渉も親愛の情もなく,お互いに思想,習慣,感情を異にする,二つの国民〉から成る国でもあった。〈二つの国民〉,すなわちジェントルマンであるか否かの間に越え難い決定的な線が引かれている点に,イギリスの社会構成の最大の特徴が存する。
しかしながらこの社会構成を〈二つの国民〉だけに単純化することは誤りである。イギリスの社会構成を知るうえで最も困難な点は,その階層序列を収入の多寡のみで決定することはできず,そこに家系,職業,教育,生活様式,言語といった生活の全領域にわたる社会的諸要因を考慮に入れねばならないことである。こうした要因の絡み合いによって,〈上流〉〈中流〉〈労働者〉に大別され,しかも3者それぞれの内部が微妙なニュアンスで〈上層〉〈中層〉〈下層〉と分類されて,重層的な構成をとっている。G.オーウェルは,自らをジェントルマンの最下層である〈上層中流階級の下lower-upper-middle class〉の出身として,その点と植民地官吏としての体験に自分の階級意識の原点を見いだしたが,彼の著作にはイギリスの階級意識の複雑さとその多面的な反映を読み取ることができる。
たしかにイギリスの支配階層は,歴史的にみてフランスなどとは異なり特権をもたず,また長子相続制のゆえに貴族の長男以外は実業界などに進出したし,逆に実業で産をなした人たちが上昇して支配階層に加わることが可能であったため,閉鎖的なカーストを形成することはなかった。だがジェントルマンと非ジェントルマンの間の亀裂は簡単には埋められず,〈二つの国民〉への分裂が〈二つの文化〉を生んでいることも否めない。それを最も端的に表現しているのは,イギリスの新聞界における〈高級紙〉と〈大衆紙〉のみせる際だった対照であり,また第2次大戦後に登場した労働者出身の作家--A.ウェスカー,A.シリトーなど--の取り上げる主題がつねに〈やつらthem〉と〈おれたちus〉の問題であることにもうかがうことができる。このような硬直した社会構成に対する反省は,戦後のイギリスの〈病める老大国〉化とともに,強く叫ばれるようになり,歴代の政府も教育制度の改革を通して特権的なエリート・コースの開放を企て,それなりの成果はみられるものの,〈二つの国民〉の障壁を完全に除去するまでにはいたっていない。
執筆者:今井 宏
文化
イギリスというと,すぐ〈霧の国〉を連想する人が多い。もちろんイギリス全土が絶えず霧に包まれているわけではないが,確かに〈霧〉はイギリスの文化の特質を端的に示すキー・ワードと言える。なぜなら,霧とは南の方メキシコ湾からやって来る暖流と,北極から来る寒流とが,イギリス諸島付近でぶつかり合うことから生まれる天然現象であるが,イギリスの文化も南から伝来したラテン系の文化と,北から渡って来たゲルマン系文化という,異質の二つの文化の流れが衝突し合い,混じり合ったところから発生したものであるからだ。単一成分からなる純粋透明な文化ではなく,種々の要素が雑然と共存混在する濁流,まさに霧のような曖昧模糊(あいまいもこ)とした,えたいの知れぬ文化である。
グレート・ブリテン島にもともと住みついていたケルト系の民族と,北ヨーロッパ大陸から海を越えて侵入して来たゲルマン人(アングロ・サクソン人と呼ばれる)とは,はじめは対立抗争していたが,しだいに和解し融合していった。イギリス人といえばすぐにアングロ・サクソン人と考えたくなるが,文化,芸術の面から見ると,先住民族ケルト人の果たす役割が非常に大きい。例えば,イギリスのみならずヨーロッパにまで広く及んでいる〈アーサー王伝説〉は,本来ケルト民族の生み出したものであり,それが地中海沿岸地方から渡来して来たキリスト教思想と混合して変質したと考えられる。さらにイギリス文学におけるケルト的要素は無視できないものがある。20世紀イギリス文学の詩,小説,演劇を代表する巨匠,イェーツ,ジョイス,バーナード・ショーが,すべてアイルランド人であることを記すだけで十分であろう。しかも,彼らの作品は決してローカル文学ではなく,全イギリス,いや全世界の文学愛好家を魅了するだけの普遍性をもっていた。19世紀のブロンテ姉妹はイングランドの中心部で生まれたが,父親からケルト人の血を受け継いでいた。アングロ・サクソン人のもつ強固な現実感覚と,ケルト人の幻想にふける能力--この二つのまったく相反する要素がブロンテ姉妹の文学を生み出したわけであったが,それはイギリス文学のさまざまな作品の構成要素ともなっている。
このような北方系民族の気質の上に,南方のラテン系文化が注ぎ込まれたとき,さらに大きな変化が生じることになった。ゲルマン民族の神話・伝説は,《ベーオウルフ》や《ニーベルンゲンの歌》を見てもわかるように,暗い冬の長い風土を反映した,厳しい運命観にみちたものであった。人間はじっと運命の重圧の下で耐え忍ばねばならないし,結末は常に悲劇的であった。それと対照的にルネサンス時代の地中海沿岸地方から,明るい陽光と笑いにあふれた文学・芸術が導入された。この二つの異質の文化の潮流がぶつかり合ったところに生じた霧とでもいうべきものが,イギリスのユーモアであった。
真のユーモアとは,単なる滑稽感覚や笑いではない。それは人生の矛盾や不条理を鋭く感じ取り,それらに耐え,それらを受け入れながらも,決して陰気な悲観主義に落ち込むことなく,笑いで乗り越えようとする精神状態のことである。そこには涙と笑いという,互いにあいいれない二つの異質なものが,きわどいバランスを保って共存している。理論的にはこのような矛盾超克は不可能のはずであるが,現実にシェークスピアの作品を開いてみれば,いくらでもその実例を見いだすことができる。彼の創造したユーモアこそ,ゲルマン的な悲痛な人生観とラテン的な明るく澄みわたった人生観の二つを,大きく包み込んで融合させるという奇跡をなしとげたイギリス人のユーモアの典型であった。
英語は本来ゲルマン語の系統に属するもので,11世紀ころまで使われていた古英語(アングロ・サクソン語とも呼ばれる)は,今日のドイツ語や北欧語のように,純粋なゲルマン語の語彙をもっていた。ところが,11世紀のノルマン人征服(ノルマン・コンクエスト)以来フランス語系統の単語が,特に上層階級から侵入して来て,ここでもゲルマンとラテンの二つの流れがぶつかり合うこととなった。例えば,生きている牛を指す語はbull,oxなのに,それが食肉になるとbeefであるが,beefは牛を意味するフランス語が語源となっている(現代フランス語ではbœuf)。つまり,牛をゲルマン系の英語で呼ぶ人は飼育している平民のアングロ・サクソン人であり,ラテン系のフランス語で呼ぶ人は食べるノルマン人支配階級であった。豚pig/swineと豚肉pork,羊sheepと羊肉muttonについても同じことが言える。このようにして,一つのものに対して,ゲルマン系の古英語に由来する単語と,ラテン系の借り入れた言語に由来する単語と,この二通りを使うことができるようになった。さらにルネサンス期には,多量のラテン語系,ギリシア語系の単語が英語に繰り込まれ,語彙はますます豊かになった。アングロ・サクソン系の単語は庶民の使う口語に多く,いわば手作りの木綿地の素朴な肌ざわりであるのに対して,ラテン語系の単語は学者や上流階級の人が使う文語に多く,外来の華やかな服地に似ていた。この2種類の,異なった語感をもつ語彙を,その状況,人物,感情,雰囲気に応じて使い分け,すばらしい効果をあげたのがシェークスピアであり,また時代が下って19世紀になるとディケンズであった。彼らの文学の言語が豊かであるということは,イギリス人の言語の豊かさ,ひいてはイギリス文化の多様さを証拠だてるものにほかならない。
このようにイギリス文化を支えるその多元性,異種の,相矛盾し合う要素を混合し融合させる腕前の秘密は,文学や芸術の次元のみにとどまるものではない。庶民の日常生活のさまざまな場でも,無意識のうちに行われている。パブで〈ハーフ・アンド・ハーフ〉といって2種類の酒を好みに応じて混ぜるとき,パイプタバコを各自が好きなようにミックスするとき,その他枚挙にいとまない。単一のもののみによる純粋さに疑惑をもつイギリス人の精神構造は,政治の世界では二大政党対立を維持し,宗教の世界ではプロテスタントともカトリックとも違う〈中道〉のアングリカン・チャーチを守り通したのであった。
執筆者:小池 滋 多元的な要素の融合というイギリス文化の特徴は,この国が世界帝国になってゆくにつれていっそう強化され,非ヨーロッパ世界の文物をさえ容易に〈イギリス化〉してしまうほどになる。紅茶に砂糖を入れて飲み,葉巻をくゆらせ,こうもり傘を手にしたジェントルマンといえば,いかにも純イギリス的にみえるが,それらはいずれもエリザベス1世が登位した頃のイギリスには存在しなかったものであり,紅茶や葉巻は主として17世紀に,こうもり傘となると18世紀末に,それぞれ新世界やアジアからもち込まれたものである。砂糖はもっと古くから知られてはいたが,17世紀にカリブ海の植民地が,アフリカ人奴隷を労働力として開発されるまでは,高価すぎて普及はしていなかった。紅茶がイギリス人の国民的飲料になったといいながら,茶も砂糖もイギリス本国には産しない。同じことは,綿織物についてもいえる。イギリスを世界一の強国に押し上げたのは産業革命であったが,その産業革命をリードした綿工業は,17世紀後半以来,東インド会社の最大の輸入品であったインド産綿布の国産化を狙った産業だったのである。イギリス近代の生活文化は,グローバルな影響のもとに〈大英帝国〉のそれとして成立した,というのが当たっていよう。紅茶文化はその典型といえる。
しかし,今日ではイギリス人の間でも紅茶文化は後退しつつあり,コーヒーに代位されつつある。19世紀の庶民の朝食であったポリッジ(オートミール)がコーンフレークスに取って代わられつつあるのと同じく,それは生活文化の相における大英帝国の影響の消滅とアメリカ化を象徴しているといえよう。
執筆者:川北 稔
宗教
イギリスでは,イングランドの国教会は英国国教会(アングリカン・チャーチ)であり,スコットランドの国教会は長老派教会である。国教会のほかにも,自由教会と呼ばれる会衆派教会,バプティスト教会,メソディスト教会やローマ・カトリック教会その他の教会が存在している。非国教徒だけでなく,非キリスト教徒,無神論者にも市民的諸権利は保障されているが,英国国教会の〈信仰の擁護者〉であり〈最高統治者〉であるイギリス国王は,アングリカン・チャーチの教会員以外にはなりえない。アメリカおよびその影響を受けた日本では,政教分離が自明の理と考えられているが,ヨーロッパでは長い間,一つの国(あるいは領邦)には一つの教会しか認められなかった。したがって,〈イングランドの教会〉は,宗教改革まではローマ・カトリック,その後ピューリタン革命まではアングリカン・チャーチ,共和政時代までは長老派教会,王政復古後はまたアングリカン・チャーチと内容を変えた。このような変化はすべて議会の制定法によって行われた。名誉革命(1688-89)後,教会と国家は同一社会の両側面であるとする中世的理念が放棄され,イングランド内にも,国教会以外の教会の存在が許されるようになった。ただ信仰の自由は,現在日本やアメリカの憲法が保障しているような積極的な権利ではなく,国教会の定める信仰以外の信仰を告白する自由でしかなく,そのため19世紀まで,国教忌避者の市民的諸権利は大幅に制限されてきた。
イギリスは後43年にクラウディウスによって征服され,ローマ帝国の版図に組み込まれるが,ケルト系の先住民はドルイド教を奉じていたと思われる。キリスト教はおそらくローマの軍人か商人によってイギリスにもたらされた。314年南フランスのアルルで開かれた教会会議にはイギリスから3人の司教が出席したと伝えられている。初期の伝道はスコットランドのニニアン,アイルランドのパトリック,アイオナ修道院の創始者コルンバらによって推進されたが,アングル族,サクソン族の侵攻によって布教活動はしばしば中断した。教皇グレゴリウス1世によって派遣されたアウグスティヌスは,597年初代のカンタベリー大司教となり,イギリスの教会を西方教会の一員として再編する方向を定めた。以後宗教改革期まで,国民国家の台頭による王権と教皇権の対立にもかかわらず,イギリスの教会はカトリック教会の枝として存続した。
1534年ヘンリー8世は離婚問題を契機とする宗教改革で,イギリスの教会をローマより分離し,長年イギリスの社会・宗教生活に大きな役割を果たしてきた修道院を解散した。ヘンリーの死後二転三転した宗教事情は,エリザベス1世登位(1558)後〈教義的にはプロテスタント,礼拝様式ではカトリック〉といわれた英国国教会として定着した。スチュアート朝の登場(1603)とともにイギリスの宗教界にとって激動の17世紀が始まる。抑圧されてきたピューリタンは王政と主教制を打倒し,長老主義的教会と共和政を確立したが,ピューリタン各派間の抗争によって1660年には王政と主教制が再確立する。ピューリタンの多くは非国教徒となり,名誉革命後は長老派教会,会衆派教会,バプティスト教会,クエーカー派を形成して今日にいたっている。18世紀に入って啓蒙主義の時代を迎えると,啓示や奇跡を否定し,宗教を理性によって理解しようという理神論者が伝統主義者との間に論争を引き起こした。他方,一般的な宗教的情熱の冷却によって教会生活は各派とも低調をきわめたが,都市に集中し教会の手の届かなくなった労働者や貧民に,救いの手を伸ばし回心と聖化を説いたのがウェスリーであった。彼のメソディスト運動はやがて国教会の外に出て一教派をつくったが,イギリスの信仰復興に大きく寄与した。
19世紀に入ると各方面で改革が進行する。名誉革命後も審査法によって公職や大学への道を閉ざされてきたカトリック教徒は,1829年の解放法で市民的諸権利を回復し,16世紀以来非合法とされてきたカトリック教会の再建が可能となった。国教会内でもオックスフォード運動の結果,教会の自主性回復と自己革新への努力が進められ,教会生活に生気が取り戻された。他方,C.ダーウィンの《種の起原》によって代表される近代科学の成果は伝統的な信仰理解に大きな挑戦となったが,自由主義者や近代主義者は聖書や伝統的な教義の再解釈に努めた。近代資本主義のもたらした弊害に対しては,モーリスやキングズリーらがキリスト教社会主義運動を興して社会実践を推進した。20世紀に入って教会合同運動が始まると,国教会と自由教会各派間の協働態勢が強まり,合同を目指した話合いも進められるようになったが,現時点では合同はまだ実現していない。現在15の司教区,3500人の聖職者,420万の信徒を擁するカトリック教会の国教会に対する態度は冷淡であったが,第2バチカン公会議後は両教会間に友好的雰囲気が生まれ,教義面での合意を求めて積極的な話合いが進められている。16世紀以来のイギリス国民の海外進出にともなって,国教会も自由教会も北アメリカ,アジア,アフリカ,オーストラリアにそれぞれの枝を広げ,世界教会協議会をはじめ,YMCA,YWCAなどで指導的役割を果たしている。
→アングリカン・チャーチ
執筆者:八代 崇
教育
イギリスの教育といえば,オックスフォード大学やケンブリッジ大学,さらにまた有名私立中等学校であるパブリック・スクールにおける教育がすぐに想起される。これらの学校にみられる教育の特徴は,選別主義,保守主義,貴族主義といったものであり,〈質〉を重視する教育ということになるであろう。しかし一方において,このような古色蒼然たる象牙の塔をだいじに保持しながらも,新しい時代の要請にこたえるべくニュー・ユニバーシティ(新構想大学)やオープン・ユニバーシティ(放送大学)を世界に先駆けて試みる国でもある。教育における質と量の調和,古きものと新しきもののバランス,これらの希求こそイギリス教育の一大特徴であるといってよい。
イギリスにおける教育の歴史は,まず大学とその予備門ともいえる中等学校の出現で始まる。一般大衆の子弟のための学校,つまり小学校はこれらにずっと遅れて出現する。すなわち12,13世紀に既にオックスフォード,ケンブリッジ両大学が,また14,15世紀からはその予備門としてのパブリック・スクールが設置されていく。ウィンチェスター校,イートン校,ラグビー校,ハロー校などである。当初これらの大学や学校はもっぱら聖職者の養成を目的とするものであったが,以後しだいに貴族や有産階級の教育機関へと変容していく。一方,一般大衆の子どものための教育の制度化は,18世紀以後における産業革命の進行と近代国家の形成を待って実現されていくことになる。国民教育制度の整備のための嚆矢とされているのが,1870年初等教育法である。これは,小学校が十分設置されていない町村に,学校を設置するよう命じたものである。そして1880年教育法により5歳から10歳までの6年間の就学が義務づけられ,ここに初めて全国的な初等義務教育制度の時代を迎えたのである。以後1918年に就学年齢が14歳まで延長され,義務教育制度はますます整備されていくが,そのプロセスに見られる特徴は,国または地方公共団体が新しく学校を設置していくというよりは,むしろ既存の有志団体立(おもに教会立)の学校を公費で援助し,それらの学校を公立化することにより,国家教育制度を確立していったことにある。したがってこの国の公立学校と呼ばれるものの中には,設置者は有志団体であるが,その維持費は国や地方に依存している,いわば準公立的学校が多い。
この有志団体立学校への国の補助金の交付に伴い,その使途を監査するため,1833年に枢密院内に教育委員会が設けられた。これが拡大整備され,教育省をへて今日の中央教育行政機関としての教育科学省(1964設置)へと発展するのである。現行教育制度を規定するのは1944年教育法(バトラー法)であるが,この教育法は二つの点でこの国の教育の発展に貢献した。すなわちその一つは,大戦前から懸案となっていた国民一般の中等教育の機会拡大に対する要求を実現し,初等学校に連結する中等学校制度を確立したことである。今一つは,閣内相を長とする中央教育行政機関としての教育省の設置を実現したことである。これにより,イギリスの国家教育制度は教育の民主的理念の実現に向かって大きく前進する。
現在イギリスはイギリス病という言葉が流行するくらい極度な経済的不況の中にある。この危機を乗り切るため,教育政策に転換を求める声も強い。例えばその一つに,初等中等学校の教育課程の基準を国が全国的に定めようとする動きがある。このような動きは,教育の内容,指導の実際に関して国は口をさしはさまないという教育行政の伝統に大きく修正を迫るものであり,そのなりゆきが注目される。教育における伝統と革新をいかに調和させ,経済,社会の復興を促すか,期待されるところである。
イギリスの学校制度は,社会の階級制度を反映して,二重の複線型になっている。まず公立学校(これはパブリック・スクールと呼ばずメーンテーンド・スクールと呼ぶ)とイートン校やハロー校などのパブリック・スクールを含む私立学校(独立学校,すなわちインディペンデント・スクールと総称する)とを並置させているという意味で複線型である。さらに公立学校に入学した子どもは,成績により中等学校で3種類の学校(グラマー・スクール,テクニカル・スクール,モダン・スクール)に選別されるという意味で二重の複線型になっている。しかしこの公立中等学校段階における選別は,コンプリヘンシブ・スクールと呼ばれる総合制中等学校の出現で制度的には解消しつつある。このような複線型は高等教育機関の間でも厳然として存在している。すなわち,大学とその他の高等教育機関(教育カレッジと総合技術専門学校)との間には,社会的地位,規模,財政などにおいて大きな違いがみられる。このような実情から,これを高等教育の二元制と呼んでいる。
執筆者:水野 国利
マス・コミュニケーション
イギリスは,量・質ともにマス・メディア先進国であり,たとえば通信社ロイターは,大英帝国の伝統を保持して,現在も世界各地に巨大なネットワークをはりめぐらせている。日本との対比で特色をあげれば,まず第1に新聞が歴史的な階層構造を反映して,《タイムズ》《ガーディアン》などの〈高級紙(クオリティ・ペーパー)〉と,政治経済などの堅い話題,難しい議論にはできるだけ触れず,犯罪,スポーツ,性など娯楽的情報に力点をおく,《サン》《デーリー・ミラー》などの〈大衆紙popular paper/mass paper〉とに截然と分かれていた点である。さらに,第2次大戦後は,マス・メディアのあり方(制度,内容,経営)について,議会の〈王立委員会Royal Commission〉を軸にして徹底した調査・検討,改善案の提出がなされ,公表される報告書を土台に,それなりに〈大衆的〉な討論,改良への〈合意〉形成の努力が続けられていることも大きな特色である。メディア統制の主流は自主規制であり,新聞については〈プレス苦情処理委員会〉が読者の批判について調査し,メディアに対する勧告を行っている。
チューダー,スチュアート絶対王政は,印刷・出版業者をギルド(ステーショナーズ・カンパニー)に組織して自己規制させ,星室裁判所に言論統制をゆだね,原則として定期的な国内ニュース伝達媒体を容認しなかった。しかし,庶民院議員が議事の要旨をまとめて選挙区有力者に送る手書新聞news-letterは,すでにエリザベス時代から慣行化し,17世紀には専門業者も出て印刷されるようになっている。1640年に始まるピューリタン革命により,言論統制の法規・機構が解体されるとともに,革命の進行で全国の耳目を集めることになった議会活動を報道する週刊紙が簇生した。世界を神と悪魔が闘っている舞台であるとみなす世界観が普及し,人々が遠い地域の出来事に熱心な興味をいだくようになったことに,その根源を見いだすことができる。王党派は《宮廷通報Mercurius Aulicus》,議会側は《ブリテン通報Mercurius Britannicus》という準機関紙を出して激しい言論戦を展開する。イギリス・ジャーナリズムの出発点である。メディアの歴史では,以降ヨーロッパの最前線に立つ。
1695年,絶対王政型の事前検閲法規が消滅。1702年には日刊紙《デーリー・クーラント》が誕生,またアディソン,スティールの《スペクテーター》(1711刊)などの教養・娯楽紙も流行し,新聞は社会に定着する。31年にはケーブEdward Caveが《ジェントルマンズ・マガジン》を出し,総合雑誌の原型をつくった。
しかし,紙,広告に課税してメディアを経済的に統制する1712年の捺印法は19世紀(基本部分の撤廃は1855年)まで威力を振るい,フランス,アメリカが1830年代に現実化した新聞の民衆化,安い大衆紙の出現を妨げた。新聞の本格的大衆化は,1896年,ノースクリッフの創刊した《デーリー・メール》に始まる。やさしい短い文体は新しい読者層をとらえ,99年ボーア戦争の勃発とともに,100万部に近い大新聞に伸びた。彼は部数を公表して広告収入を増大させ,それを新聞経営の土台にする。新聞企業はマス・プロ,マス・セールの現代産業として確立した。以後,新聞経営者は多くの新聞,雑誌を系列化し〈帝国〉を築いて,激烈な部数拡大競争を演じて今日にいたるのである。
ラジオ放送は,1922年,主として受信機メーカーなどで構成された民間企業体(British Broadcasting Company)によって独占的に始められた。しかし,電波媒体の効力,重要性を認識した政府は,27年国王特許状を下付して,独立した公共企業体のイギリス放送協会(BBC)を結成させ,放送用電波をその独占下におく。BBCの初代会長リースJ.C.W.Reithは,モラル,伝統の擁護を使命とし,政府からの実質的自立(郵政相は形式上,免許取消し,番組中止の権限をもっている)を図るとともに,公正,客観的ではあるが,お上品にとりすましたBBCスタイルを確立する。
第2次大戦後BBCの〈独占〉についての批判,圧力がたかまり,その打破のため,1954年テレビジョン法が提出された。推進側の保守党も,党員の多くは自由競争は賛成,コマーシャルは嫌いという矛盾した立場で激論のすえ成立(296票:269票)。同法によってITA(Independent Television Authority。1972年ラジオを加えてIndependent Broadcasting Authority(IBA)と改称)が設立される。民放ではあるが,IBAは施設,設備を管理する公共企業体で,番組をつくる会社だけが広告をとる民間企業なのである。アメリカ,日本型の民放とは構造が質的に違う。
近年もR.H.トムソン,マードックKeith Rupert Murdoch,キングCecil Kingらの戦後のメディア王が系列化を進め,競争を展開する。1960年代初めから,200万以上の部数をもつ《エンパイア・ニューズ》,100万部以上の《ニューズ・クロニクル》などが相ついで廃刊,合併され大きな社会的話題となった。読者は十分にあっても広告が集まらないためである。集中・系列化が進み,受け手の選ぶ自由,メディアの多様性がそこなわれてゆくのをどうするのか。民衆の多数が〈合意〉できるメディア・システムをどのようにつくっていくのか。南北の情報格差解消にどう貢献するのか。むろん,それはイギリスだけではなく,メディア先進国共通の課題でもある。
執筆者:香内 三郎
歴史
先史時代
はるかな太古,地表の大部分がまだ厚い氷河で覆われていた旧石器時代には,イギリス諸島は大陸と地続きであった。グレート・ブリテン島(ブリタニア)で発見された最古の化石人類(旧人)はスウォンズコーム人で,約25万年くらい前のものと思われる。以後大陸からさまざまの人類が移り住んで,採集・狩猟・漁労の生活を営んだ。やがて気候が温暖に向かう3万~2万年前ころから,中石器時代を経,現在の人類と同じ種のホモ・サピエンス(新人)がイギリス諸島にひろがり,前4千年紀初めころ農耕・牧畜が開始されて新石器文化の段階に入り,さらに前1800年ころから青銅器の使用が始まった。新石器時代から青銅器時代にかけて,地中海方面よりイベリア人,中欧方面よりベル・ビーカー人と呼ばれる人びとが移住し,大陸の文化をもたらした。巨石文化もその一つで,ストーンヘンジが代表的遺跡である。青銅器時代には気温はさらに上昇し,イギリス諸島はしだいに大陸から分離して,現在のような島になった。
前8,前7世紀ころからインド・ヨーロッパ語族の言語を使用するケルト人が渡来し,鉄器文化をもたらし,先住民族を征服して住みついた。彼らは大別して前7~前5世紀に来たゴイデル人(ゲール人)と,前4~前2世紀に移り住んだブリトン人(キムリ人)から成り,後者からブリタニア(ブリテン)の名称が由来した。彼らは多数の部族に分立したが,その社会は神事をつかさどる聖職者(ドルイド)と広大な土地を所有する戦士が貴族として支配階級を構成し,一般の農民を収奪した。部族長や大貴族は,丘陵の斜面を二重三重の土手と溝で囲んだ砦(丘砦)を戦争の拠点とした。
古代--ローマン・ブリテン
前1世紀半ば,当時ガリア(現在のフランス)でゲルマン人と戦っていたローマの将軍カエサルは,敵を側面から援助するブリトン人を討つべく,前55,前54年の2度にわたってブリタニアに侵入,彼らを撃破した。カエサルは島の占領を意図せずに引き上げたが,約1世紀後の43年,ローマ皇帝クラウディウスが征服に乗り出した。ブリトン人は頑強に抵抗したが敗れ,1世紀末までには島の南部はローマの支配下に入った。以後5世紀初めころまでをイギリス史上のローマン・ブリテン時代という。
ローマは北の辺境に長城ハドリアヌスの壁を築いて北方からの攻撃に備え,約80のローマ風都市を建設し,道路をつくってこれを結んだ。都市には公会堂,競技場,浴場,水道など石造の公共建築物がつくられ,農村にはブリトン人の農民や奴隷を使役する農業経営の場であるウィラが多数成立した。しかしローマの支配は収奪のための軍事的・政治的な性格にとどまり,ブリトン人の社会にそれほど大きな刻印を及ぼすものではなかった。4世紀に入り,ヨーロッパで民族大移動が始まったころ,ブリタニアでも北方からピクト人,西方のスコット人など外民族の侵入が開始された。ローマは大陸の防衛のためブリタニアの軍隊を引き上げ,410年皇帝ホノリウスはブリタニアの放棄を宣言し,ここにローマン・ブリテン時代は終わった。
中世前期--アングロ・サクソン時代
ローマが引き上げた後のブリタニアは,ブリトン人の小部族国家分立の状態に復帰した。しかし5世紀半ばころからゲルマン民族の一派アングロ・サクソン人の侵入が始まった。彼らはブリトン人を西方・北方に追いやりつつ着実に占領地を拡大し,6世紀末までにはほぼ現在のイングランドの地にアングロ・サクソン人の7~10個の小王国が成立した。以後9世紀初めまで,これら諸王国の間で激しい争覇が展開する。この時期をイギリス史上の七王国時代という。この間異教徒であったアングロ・サクソン人はキリスト教に改宗し,それとともにラテン文化が流入,文字の使用,慣習法や伝承文学の成文化も始まった。
分立した七王国は,9世紀前半ウェセックス王エグバートにより一応統一されたが,このころから北欧を原住地とするバイキング(デーン人)の侵入が激しくなり,同世紀後半にはイングランドの北東部は彼らに占拠された。このときイングランド王となったアルフレッド大王は,軍制を改革して彼らを破り,それ以上の拡大を阻止して国土を守った。10世紀にはイングランド諸王がバイキングの占拠地域を回復し,王権を強化したが,同世紀に再開されたバイキングの大侵入により,イングランドは1016年デンマーク王子クヌット2世に征服された。クヌット2世はイングランド王だけでなく,やがてデンマーク王,ノルウェー王をも兼ねて,北海を内海とする一大帝国を樹立したが,それも約20年後彼の死とともに瓦解し,イングランドにはまもなくエドワード懺悔王が即位して,ウェセックス王家が復活した。しかし彼には嗣子がなかったため,1066年その死後王位をめぐる闘争が生じ,北フランスのノルマンディー公ギヨームが麾下の騎士を率いて侵入,イングランドを征服,ウィリアム1世(征服王)として即位してノルマン朝を開いた。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。
以上の5~11世紀の社会の発展であるが,民族大移動で渡来したアングロ・サクソン人の社会は,すでに階級社会にあり,大別して大土地所有者で戦士たる貴族層と,その下に従属する一般農民層に分かれていた。数世紀にわたる戦乱などによって戦士層の地位はますます上昇し,キリスト教に改宗以後は聖職者層も貴族の列に加わり,社会は〈祈る者〉(聖職者)と〈戦う者〉(貴族)とが広大な土地を所有して,〈耕す者〉(農民)を隷属的な農奴の地位に押し下げて支配・収奪するという封建化への道を進みつつあった。なお,アングロ・サクソンにより西部に追われたブリトン人は,ウェールズに数個の小王国をたてて分立し,またイングランドの北には,アイルランドから移ったスコット人が先住のピクト人やブリトン人と同化しつつスコットランド王国を形成した。
中世後期--封建時代
ノルマン・コンクエストによってこれまでのアングロ・サクソンの貴族はノルマン貴族に取って代わられ,支配層は全面的に交替した。またイングランドが大陸のノルマンディーのいわば属領となったことにより,以来大陸とくにフランスと密接な交渉や対立が生じ,ラテン的文化が流入,古英語(アングロ・サクソン語)もフランス語の影響を受けた。
ウィリアム1世はフランスで行われていた封建制度を導入,全国的な検地(ドゥームズデー・ブック)やソールズベリーの誓いによって王権を強化したため,イングランドはフランスと異なる集権的封建国家となった。しかし12世紀半ばには王位をめぐる内乱(スティーブンの乱)がおこり,その結果,1154年フランスのアンジュー伯がヘンリー2世として即位し,プランタジネット朝を開いた。彼は相続や結婚などによりフランスの約1/2をも支配して,当時ヨーロッパで最大の領土を有する君主となった。また諸種の改革を行って封建諸侯や教会勢力を抑え,王権の強大化に努めた。しかしこのことは貴族の反発を招き,彼らはジョン王(欠地王)の失政に反抗して,1215年その要求を〈マグナ・カルタ〉として王に認めさせた。つづくヘンリー3世時代にもシモン・ド・モンフォールを中心に結束して国王を破り,従来の聖職者・貴族の集会に州騎士および都市の代表を加えて国政を議した(1265)。一般にイギリス議会の起源とされるものである。議会の形成は,地方で有力となった騎士や都市民が,高位聖職者や大貴族とならんでようやく政治にも参加するようになった状況を示すものである。
13世紀後半に即位したエドワード1世は,国内の安定に努め,またウェールズを征服し,スコットランドをも征服しようとしたが,これは失敗に終わった。このようにイングランドがグレート・ブリテン島の他の地域に進出したのは,とくにジョン王の対外戦争の失敗によって,フランス内の領土の多くを失ったため,その代償を島内に求めたものとみることもできる。そしてこのフランスとの対抗の総決算が百年戦争(1337-1453)である。戦争は15世紀半ばまで断続的に継続する。この間イングランドでは14世紀半ば黒死病が流行して,全人口の約1/3ないし1/4の人命を奪い,さらに同世紀後半にはウィクリフの教会改革運動に起因する動揺やワット・タイラーの大農民一揆などがおこって,社会不安がいっそう増大した。1399年貴族間の争いの結果王位はランカスター家に移り,15世紀前半にはそのヘンリー5世がフランス王を称するなど,対フランス戦争は一時有利に展開したが,結局1453年カレーのみを残して大陸の領土のすべてを失うことによって百年戦争は終結した。百年戦争の敗戦後王位をめぐる内乱ばら戦争が勃発,その間に王位はヨーク家に移ったが,1485年ランカスターの陣営に属するチューダー家のヘンリーがヨーク家の王リチャード3世をボズワースの野に撃破して,ヘンリー7世として即位した。このチューダー朝ヘンリー7世の登位をもってイギリス中世の終りとする。
中世後期のイギリスでは,11,12世紀以来交換経済が大いに発達し,都市の発達や羊毛輸出を中心とする外国貿易の展開を促した。また中世末期から急速に勃興した毛織物工業は,その経営の中に資本制の萌芽をはぐくみながら経済をいちだんと活発化した。こうした商工業の発達は,隷属的な地位に押し下げられていた農民の経済力を上昇させ,その社会的地位の向上をもたらし,黒死病や農民一揆などの影響も加わって終局的には社会の基礎をなす荘園制度を解体に導くことになった。その結果,荘園制を経済的基礎としていた封建諸侯の勢力は失墜した。このような封建制度の崩壊傾向とともに時代は近代に移っていくのである。
執筆者:青山 吉信
絶対主義の時代
チューダー朝の成立(1485)からピューリタン革命の勃発(1640)までの時期が,イギリスにおける絶対主義の時代である。ただし絶対主義といっても官僚制と常備軍によって支えられた強力な王権のもとでの中央集権国家の成立をこの時点で考えるのは,イギリスの場合現実に反する。まだこの段階のイギリスは,ハプスブルクとバロアという二大王家の争覇戦が繰り広げられていたヨーロッパにおいて,その辺境に位置していた二流国にすぎなかった。チューダー朝2代目のヘンリー8世は,みずからの離婚問題を契機にしてローマ教会から分離して英国国教会(アングリカン・チャーチ)をつくりその首長となった(1534)が,この宗教改革は議会制定法を通して行われ,肝心の信仰問題よりも,ローマ教会の支配を排除した国民国家の建設という政治的課題が優先したところに特徴がある。同時に行われた修道院解散によって没収されたその土地・財産は,下院議員としてまた地方行政を担当する治安判事として協力を惜しまなかったジェントリー層に分配され,それが彼ら〈ジェントリーの勃興〉を招き,彼らが従来の貴族に代わってこれから後の近代イギリスの主要な担い手となる契機が与えられた。しかしながらこの宗教改革の際に教義上の改革が不徹底であったことが,ヘンリー8世没後に動揺を生み,娘のメアリー1世の治世には一時カトリックに復帰したが,1558年即位した当の離婚問題の申し子たるエリザベス1世は,プロテスタントとカトリックの激突を避ける〈中道〉政策をとって国教会を確立させ,貴族の反乱を鎮圧し,またメアリー・スチュアート処刑の報復に出たスペイン無敵艦隊を撃破(1558)して,国家の独立を守りぬき,国民の敬愛を一身に集めた。この土壌の上にシェークスピアを代表とするイギリス・ルネサンスが華やかに開花したが,オランダ独立戦争によるアントワープ市場の崩壊に伴い,基幹産業たる毛織物の輸出が深刻な打撃を受けたため,現実の社会情勢はきわめて厳しかった。折からの海外進出の気運にこたえて東インド会社などに貿易独占権を与え,新興産業の育成に努め,また徒弟法,救貧法を制定したのも,この社会情勢に対処するためであった。女王の治世には潜在化していた不満は,つぎの前期スチュアート朝において爆発することになる。
17世紀の二つの革命
17世紀のイギリスは,二つの革命--ピューリタン革命と名誉革命--を経験し,近代化の条件を整え,しだいに世界の一流国にのし上がっていった。イギリスを革命情勢に導いた主動力は,国王と議会の対立にあったが,その背後にはチューダー朝のもとでの社会構成の変質によるジェントリーを中心とする社会層の発言力の増大,それに伴う議会ことに下院の国政における地位の向上があった。しかも王権の側には常備軍と地方官僚の欠如という致命的な弱点があり,絶対王政の安定は前述の社会層の協力いかんにかかっていた。ところが前期スチュアート朝の2人の国王(ジェームズ1世,チャールズ1世)の行動は,彼らの期待を裏切るばかりであった。王権神授説の押しつけ,国教会体制の強化,対スペイン,フランス従属外交の展開,そして浪費と放縦をほしいままにする宮廷の存在などがそれである。しかも財政難を臨時課税や強制献金によって補おうとする便宜策は,議会を刺激した。慣例を無視する国王の政策に対する抵抗のよりどころとして,コモン・ロー(慣習法),ことにその象徴としてのマグナ・カルタが新しい生命をもつようになった。議会を中心にして,ジェントリー,コモン・ロー専門家,さらに国教会体制を批判するピューリタンの三者が手を握って,国王と宮廷に対する挑戦を開始した。
1628年議会が提出した〈権利請願〉は,国王の政策がマグナ・カルタ以来保障されていた国民の権利を侵すものと訴えた。チャールズ1世は以後11年間議会を開かずに専制政治を行ったが,37年船舶税の徴収範囲を広げて訴訟をうけ,また同年スコットランドに国教会の祈禱書と儀式を強制して,激しい抵抗にあった。40年対スコットランド戦争の戦費の協賛を求めてやむをえず開いた2度目の議会(長期議会)が,ピューリタン革命の主要な舞台となった。長期議会はただちに専制支配機構を打破し王権を制限するための改革を次々にほぼ満場一致で実現したが,国王の宗教権・軍事権を議会が掌握しようとしたことを契機にして,それまでの反絶対王政統一戦線は分裂し,42年秋から議会派と国王派の間に内乱が戦われた。それが支配階層内部の分裂と抗争として展開した点に,この革命の特徴が認められる。内乱はピューリタニズムを精神的支柱として編成されたニューモデル軍の活躍によって議会側の勝利に帰し,49年1月チャールズ1世は〈国民の公敵〉として処刑され,イギリスは共和政となった。革命の指導者クロムウェルは,反革命の拠点たることを理由にアイルランドを征服して植民地化を進め,53年護国卿に就任して軍事独裁を始めた。この間航海法(1651)を制定して当時の最大の貿易国オランダに挑戦し,イギリスは植民地帝国建設の第一歩を踏み出した。
しかし革命はしだいに保守化して,クロムウェルの死後王政復古となった。復位したチャールズ2世は,信仰の自由の約束を守らず,フランスのルイ14世の援助のもとにカトリシズムの導入を図り,専制を復活させようとしたため,議会と対立の度を深め,〈王位継承排除法案〉をめぐる争いからトーリー,ホイッグの二大政党の原型が誕生した。次のジェームズ2世はさらに自らの信奉するカトリシズムの復権を図り,強圧的な姿勢をとったため,88年6月皇太子の誕生を契機に指導的貴族は協議の末,王女メアリーの夫オランダ総督オラニエ公ウィレムに援助を求めた。ジェームズは逃亡し,翌年議会の提出した〈権利宣言〉を承認し,ウィリアム3世とメアリーは共同統治者として即位した。これが名誉革命である。この革命は議会制定法の支配を基本とする立憲君主制を樹立して,今日のイギリスの政治体制の基礎を固めた点に意義があったが,主権の座を獲得した議会の民主的な改革は行われず,貴族制的な体質を温存することになった。
植民地の拡張と産業革命
しかし17世紀の二つの革命によって私有財産権が確認されたことは,以後のイギリスの発展にとって決定的な意味をもった。内では貴族と大ジェントリーによる地主寡頭支配体制が確立し,外では大西洋にまたがる植民地帝国(大英帝国)の形成をみたのが,18世紀前半のことであった。王政復古後イギリスの海外貿易は非ヨーロッパ地域との関係を深め,貿易量も飛躍的に増大し,本国ではタバコや砂糖など新商品を加工して再輸出する工業が興り,またおもにカリブ海地域に展開したプランテーションに労働力を供給する奴隷貿易が未曾有の繁栄を生み,インド産綿布の輸入には東インド会社が活躍し,ロンドンをはじめブリストル,リバプール,グラスゴーなどの都市が発達した。一方大面積の土地を集めた貴族・ジェントリーは農業経営を専門家にゆだね,生産性を著しく向上させた。植民地貿易と農業における変革の両者が結びあって,イギリス産業革命の前提条件が整えられた。
本国においてはメアリー2世の妹アンの治世に,これまで同君連合の関係にあったスコットランドと合同(1707)したが,アンの死後スチュアート朝は絶えてドイツのハノーファーからきたジョージ1世が即位(1714)した。このハノーバー朝の初期に,大地主と大商人を基盤にして,1721年から20年にわたる長期安定政権を維持したのが,〈最初の総理大臣〉ウォルポールであった。他方イギリスの海外進出にはいっそう拍車がかかった。ファルツ戦争以降七年戦争までつづいたフランスとの〈第2次百年戦争〉においてイギリスは,ヨーロッパ大陸における戦闘はプロイセンなどの同盟国にゆだねて,自らは北アメリカ,インドにおける植民地拡張に全力をあげ,七年戦争後のパリ条約(1763)によって,カリブ海域と北アメリカを中核とする大植民帝国(旧帝国)をつくり上げた。同じ時期にイギリスは大きな転換期を迎えた。国内においてはジョージ3世の専制的傾向に対する反発として急進主義運動が展開し,アイルランドでは自治を要求する声が高まり,北アメリカ植民地は独立戦争に立ち上がり,ついに83年アメリカ合衆国の独立を承認せねばならなかった。こうして旧帝国は崩壊した。
しかしこの時期にイギリスは産業革命を迎える。イギリスではこの100年間に農業上の変革と海外貿易の伸張によって,資本・市場・労働力という産業革命の条件が準備されていたが,綿織物を中心とする大衆の需要の高まりによって従来の手工業の限界を打破する技術革新が強く望まれるようになった。紡績・織布部門で新しい機械が発明・導入されたのを皮切りにして,この刺激が製鉄業,機械工業などの他の産業分野にも波及的効果を及ぼし,マンチェスター,バーミンガムなどの新興工業都市が出現し,工場制度に基礎をおく資本主義社会が確立した。イギリスで産業革命が進行したのは,ヨーロッパ諸国がフランス革命とナポレオン戦争によって多大の損害を被っていた時期にあたる。産業革命によって圧倒的な工業力を築きえたイギリスは,反動的傾向の支配したウィーン体制下においても必ずしもそれに同調せず,独自の外交政策を追求したが,それも自らの豊富な商品の市場を広く世界に確保するためであった。イギリスは工業化の点では最先進国たる地位を誇りながらも,政治上の改革の点では遅れをみせていたが,1820年代末から自由主義的風潮が強くなり,審査法が廃止され,カトリック解放法も成立して,30年代の〈改革の時代〉を迎えることになった。
執筆者:今井 宏
改革の時代
1830年代から第1次大戦にいたるまでのイギリス史は,大きく(1)1830-40年代の改革の時代,(2)1850-70年代の繁栄の時代,(3)1870年代以降の帝国主義の時代の3期に分けて考えることができる。
1830-40年代は,産業革命以来の工業化に伴う諸矛盾が集約的に現れた激しい階級闘争の時代であった。工業化の担い手として台頭してきたブルジョア階級(工場主,商人,銀行家など)は,この時期に,国政への参加権(選挙権の獲得)と自由貿易の確立という長年来の要求を掲げて支配階級の地主階級と激しく争い,前者については32年の第1次選挙法改正によって,後者については46年の穀物法廃止(反穀物法同盟)によって二つながらその目的を達成することができた。一方,産業革命の中から成長してきた労働者階級も,37年から50年代にかけてチャーチスト運動に結集し,成年男子普通選挙権を要求して闘ったが,結局は弾圧されて敗北の憂目をみた。こうして1830-40年代の闘争は,ひとりブルジョア階級の勝利に終わった。
繁栄の時代
1850-70年代の繁栄の時代は,51年の第1回ロンドン万国博覧会の開催をもって始まる。この時期は,イギリスが,文字通り〈世界の工場〉として世界経済に君臨し,その繁栄を謳歌した時代であった。議会においては,自由党が終始保守党を抑えて多数党を形成し,自由貿易の体制を完成の域へともたらした。同様に大英帝国の問題についても,植民地分離論が広く唱えられ,自由貿易に即応する小イギリス主義の考えが支配的となった。
だが,このようにイギリスが,世界の最先進国として〈世界の工場〉となり,自由貿易の体制が確立して自由党の支配が続いたからといって,この繁栄の時代に,地主階級に代わってブルジョア階級が政治の支配者になったわけではない。ブルジョア階級は,第1次選挙法改正によって選挙権を獲得したが,そのことは決して政治支配階級の交替を意味するものではなかった。国会議員の階級的構成は,その後80年代まではほとんど変わらず,貴族院である上院はもちろん,選挙にもとづく下院においても,地主階級出身議員の圧倒的優位は揺るがなかった。また46年の穀物法廃止も,直ちに大量の穀物の海外からの流入をもたらしたわけではなく,かえってイギリスの農業は,50-70年代に,工業と並んで史上空前の発展をとげた。つまり,この時期には,伝統的な政治支配階級である地主の地位も安全に保たれたのである。その結果,彼らの階級理念であるジェントルマンの価値意識が中流階級の間にまで広がり,ここに中流階級のジェントルマン化というビクトリア時代の一文化的特色が生まれた。金持ちのブルジョアたちは,ジェントルマンの生活に憧れて,競って田舎に土地と邸宅を買い求めた。ジェントルマンを育成するパブリック・スクールが数多く開校されたのもこのころである。田舎に土地や邸宅を買ったり,息子をパブリック・スクールに入れるほどの財力のない人たちは,その財力に応じてジェントルマンを象徴する事物,たとえば自家用馬車を購入したり,召使いを雇ったりした。とくに召使いの雇用は,この繁栄の時代以降,19世紀イギリス中流階級の一習俗となったが,主人と召使いの主従関係を各家庭内に持ち込み,その結果,ジェントルマン化というよりはむしろスノッバリー(俗物根性。スノッブ)の風潮を,広く社会全体に瀰漫(びまん)させることになってしまった。
一方,このジェントルマン化と並んで,この時期には,勤勉と節約を励行して独立独歩の人格を築き上げるという自助の哲学が,中流階級から労働者階級の上層にいたる生産者階級をひきつけた。この思想は,自由貿易の確立がもたらしたイギリス自由主義の一つの社会的な表れと見ることができる。1859年に出版されたサミュエル・スマイルズの《自助Self-Help》は,19世紀後半のロングセラーとなっただけでなく,広く世界各国語に訳された。日本では1871年(明治4)に中村正直によって《西国立志編》として訳出され,殖産興業を図った明治日本の経済的エートスに大きく貢献した。
1850-70年代の繁栄の時代には,労働運動の性格もまた大きく変わった。この時期に労働運動の指導権を握ったのは,比較的所得の高い熟練労働者層であったが,彼らにはもはや革命的な気概はなく,その運動方針は,合法的な組合活動と政治闘争とによって労働者の地位向上を図る,というものであった。この労使協調路線に沿って,67年には都市の労働者に戸主選挙権が与えられ(第2次選挙法改正),70年には初等教育法が成立して,国民の皆教育をめざす公教育が制度として発足した。議会政治の民主化への歩みが,こうして始まった。
帝国主義の時代
しかし,繁栄の時代も,1870年代の到来とともに終りを告げ,歴史は帝国主義時代へと移行する。この時期は,対外的にも対内的にもイギリス史の大きな曲り角であった。対外的には,この時期,50,60年代以降急激に工業化をとげたアメリカ合衆国とドイツが世界市場に進出を開始し,そのためイギリスは,〈世界の工場〉としての地位を奪われ,これらの国々と激しく競合せねばならないことになった。この世界市場における独占の崩壊は,国内的には70年代から90年代にいたる長期の〈大不況〉という形で現れ,この間にイギリスの鉄鋼生産高はアメリカとドイツに追い抜かれ,その後塵を拝さねばならなくなった。また,この時期にいたって,46年の穀物法廃止の影響がはじめて現れ,アメリカなどから,小麦をはじめとする低廉な農産物が大量に流入するようになった。そのためイギリスの農業は,壊滅的な大打撃を被り,伝統的な地主階級の政治支配にも,ついに暗い影がさし始めた。この状況を背景に,かつての小イギリス主義はすっかり影をひそめ,大英帝国の統合と植民地の拡大をめざす風潮がそれに取って代わった。74年に成立した保守党のディズレーリ内閣は,帝国の統合を旗印に掲げ,75年にはスエズ運河株を買収してこれを手中に収め,翌76年にはビクトリア女王をインド皇帝に推戴した。一方,労働者階級の地位向上にもとづく政治の民主化傾向もいっそう強まり,84年には第3次選挙法改正が行われて,農業労働者に戸主選挙権が拡大された。また80年代からは,社会民主連合,フェビアン協会,独立労働党といった社会主義諸団体が誕生する一方,不熟練労働者の間に組合運動が急速に広がり,この動向を背景に労働者自身の政党結成をめざす気運が醸成された。その結果1900年に上記の社会主義諸団体と労働組合から代表が出て労働代表委員会が結成され,この組織が06年以降労働党となった。
典型的な帝国主義戦争として知られるボーア戦争(1899-1902)を経て20世紀にはいると,イギリスとドイツの間に海軍の拡張を競う建艦競争が始まった。06年に労働党との連立の上に成立した自由党内閣は,10年に大型戦艦の建造費用と労働者階級の社会保障費の双方を同時に捻出するため,地主階級の土地所有に大幅に課税する,いわゆる〈人民予算〉を成立させた。そして翌年には,上院改革が断行されて貴族院の審議権が縮小され,こうしてイギリスの政治体制は,第1次大戦前夜に,民主主義に向かって大きく前進した。
執筆者:村岡 健次
戦間期
イギリスは,世界的帝国としての遺産を動員して第1次世界大戦に勝ったものの,莫大な資源の消耗は国力を衰退させ,大英帝国の再編成を迫られることになった。戦後のイギリス経済は,海外諸市場を失った貿易不振から,慢性的に停滞した。とくにイギリス繁栄の基礎であったヨーロッパからの石炭の需要が減退,1920年に始まる不況は階級対立を激化させ,深刻な社会不安を招いた。失業者は毎年100万人に達し,26年には炭坑夫を中心に250万労働者のゼネストが起こるが,労働者側の敗北に終わった。こうしてイギリス本国が経済的・社会的危機に直面していたとき,大英帝国自体の結束も崩れ始めた。自らの経済力や民族意識を高めつつあった自治領や植民地は,戦中の対英協力によって発言権を強化し自立を主張した。まず22年アイルランドが自由国となり,インドでもガンディーによる反英独立運動が激化した。26年の帝国会議はこうした遠心化傾向に対応して,本国と自治領の関係を〈国王に対する共通の忠誠〉を軸にしたゆるやかなイギリス連邦へと再編成,31年のウェストミンスター憲章で成文化された。しかし1929年大不況が到来したとき,憲法上はイギリス連邦内の一国へと後退したイギリスと,旧自治領・植民地間の結束は経済的により強まった。すなわち金本位制を廃止し,輸入関税法を導入して自由貿易を放棄したイギリスは,32年オタワでイギリス連邦経済会議を招集し,帝国内特恵関税協定(オタワ協定)を結んだ。戦間期のイギリスは,この〈ブロック経済〉の方向で体制的危機の回避を図った。
第1次大戦後のイギリス政界では,国民代表法による普通選挙権の拡張(男子1918年,婦人1928年),労働組合の急進化,組合員の激増を背景に労働党が躍進し,自由党は退潮した。戦前の保守・自由に代わり,保守・労働の対立時代が開幕する。1918年に新綱領と新党則を定め,社会主義に立脚した国民政党として登場した労働党は,24年と29年にJ.R.マクドナルドを首班として政権を握った。だが政治的未熟と少数党のゆえに,公約の社会主義政策を実現せぬうち,大不況で倒れた。31年の同首班による挙国一致内閣の成立は,労働党を分裂させ,主流派は第2次大戦の勃発まで完全野党にとどまった。30年代のイギリスは連立内閣の体裁をとったが,保守党が実権を握り,S.ボールドウィン,A.N.チェンバレン内閣は,不況脱出とナチス・ドイツへの対応に苦渋する。
世界政治の重点は,戦後ロンドンからアメリカのワシントンに移りつつあった。イギリスを含むヨーロッパの経済復興は,アメリカからの借款に大きく依存し,軍事的にもイギリスは1921年のワシントン海軍軍縮会議で対米比率の均等を承認させられた。ナチス・ドイツがベルサイユ体制へ挑戦したとき,アメリカの孤立主義,旧自治領諸国の遠心化,日本の南進態勢の中で,ヨーロッパの大国をなお自負するイギリスは,独力でこの挑戦に立ち向かわねばならなかった。38年のミュンヘン会談に象徴されるチェンバレンの対独宥和政策は,イギリス国力の相対的低下を自覚した,ベルサイユ体制の平和的修正の試みであったが,もはやイギリスにはかつての〈世界の警察官〉としての威信も実力もなく,第2次世界大戦の勃発は防げなかった。
福祉国家への再生
イギリスはW.チャーチルの下で,満6年にわたり国力を使い果たして戦い抜き,第2次世界大戦に勝利した。だが戦勝の国民は,労働党に経済再建を急務とする苦難の戦後経営を託した。45年7月の総選挙で,安定多数を得たC.R.アトリーの労働党政権は,戦中のベバリッジ報告の線にそう広範な社会保障計画と完全雇用政策によって,福祉国家の建設に着手した。国民保険法,住宅建設など,〈ゆりかごから墓場まで〉のスローガンに象徴される画期的な社会保障諸対策と,銀行,鉄道,鉄鋼など基幹産業の国有化が強力に推進され,国民に対しては戦時中の統制を継続,〈耐乏生活〉が要請された。イギリス経済の復興には,〈マーシャル・プラン〉による巨額の借款が重要な役割を果たし,鉄鋼,石炭,繊維など重要産業は蘇生し,雇用も回復した。しかし49年春以来,世界的な景気下降の影響を受けてイギリス経済も深刻化し,ポンドが切り下げられた。ついで51年の総選挙ではチャーチルの保守党政権が返り咲き,諸統制の撤廃,減税などの措置によって,経済の回復に成功した。保守党内閣も,労働党の社会福祉・国有化政策を受け継ぎ,戦後10年をよく耐乏したイギリス国民は〈繁栄の50年代〉を謳歌することになる。楽観的なムードに支えられて53年6月のエリザベス2世の戴冠式は,イギリスと連邦諸国をあげての祝福の中に行われた。
だが国力の衰退したイギリスの外交は,急激な植民地ナショナリズムの台頭の〈変化の風〉と米ソ両超大国のはざまで動揺する。R.A.イーデン内閣は,エジプトのスエズ運河国有化宣言に対抗して英仏共同出兵した(スエズ戦争)が,スターリングの急落と冷戦の激化を恐れるアメリカの外交圧力で,イギリス帝国主義の最後の抵抗は挫折した。新首相M.H.マクミランの柔軟な対応により危機は回避され,保守党は〈平和と繁栄〉を公約して59年の総選挙で戦後最大の多数を得た。他方,51,55,59年の総選挙で敗れた労働党では,党内右派の脱社会主義傾向に反発して組合指導者が急進化し,60年の党大会では核兵器放棄論が僅差で多数を占めた。労働党右派は脱党,社会民主党を結成し,のち自由党と合流して自由民主党となる。
大衆の時代
高水準の社会福祉と完全雇用に支えられた〈繁栄の50年代〉は,豊かな労働者層を生んだ。消費生活の向上,耐乏時代の平等感,歴代内閣による教育制度の改革は総じて労働者大衆に伝統的な階級意識を薄れさせ,同時に彼らの生活文化が国民全体に拡大されていった。言葉や服装をはじめ,ビクトリア時代的な秩序感覚は緩やかになり,しだいに〈許容社会permissive society〉へと変貌する。
しかし60年代に入ると,国際的に後退を続けるイギリス経済は国内で物価と賃金の上昇の悪循環からインフレが進行し,67年には再びポンドが切り下げられた。科学革命を公約に64年の総選挙で政権を奪回したJ.H.ウィルソンの労働党政権も,ついにデフレ政策に転じ,賃金を抑制せざるを得なかった。悲観的な空気に移るなかで,続くヒース保守党内閣(1970-74)は懸案のECへの加盟をやっと実現し,イギリスはヨーロッパの一国へと脱皮した。第2次ウィルソン(1974-76),キャラハン(1976-79)両労働党内閣も,イギリス経済の長期停滞,インフレ,外貨危機に対応しきれず,〈イギリス病〉はつのっていく。他方,IRAによる北アイルランド解放闘争も激化した。
繁栄につづく〈漂流の60年代Swinging 60s〉は,流動性になお乏しい社会構造,教育改革の不徹底,過度の管理社会化などへの批判を噴出させた。ビートルズが世界的英雄となりミニスカートが爆発的に海外にも流行する。これらカウンター・カルチャーの出現は,伝統的階層社会の崩壊,大衆社会化の進行の象徴といえよう。70年代に入って,北海油田の開発はイギリス経済に光明となったが,経済の全般的斜陽化に歯止めはかからず,国民の危機感を深めた。保守党はイギリス病の原因を悪平等に求め,競争原理の旗を掲げて1979年の総選挙に圧勝した。イギリス史上初の女性首相サッチャー首相の保守党政権(1979-90)は,内にマネタリズム政策を強行して経済力復活を図り,対外的には82年フォークランド紛争への対処や,対ソ政策などで強硬姿勢を誇示し,大国としての威信維持に努めた。
執筆者:池田 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報