リーメンシュナイダー
りーめんしゅないだー
Tilman (Dill, Til) Riemenschneider
(1460ころ―1531)
ドイツの彫刻家。ハイリゲンシュタット(アイヒスフェルト)に生まれ、ウュルツブルクで没した。この地に彼は1479年以前に定住していたものと推定される。1520~21年ウュルツブルク市長の職にあったが、25年農民戦争で農民の側に加担したため、拷問と重禁錮刑に処せられ名誉と財産を失った。最初の修行は故郷の中部ドイツ(エルフルト?)で行われたと推定されるが、のち上部ライン地方およびフランドルの影響を受けている。木彫では『聖なる血の祭壇』(タウバー河畔ローテンブルク、ヤコブ教会)や『マリア祭壇』(クレーグリンゲンのヘルゴッツ教会)にみられる運動感を強調した光と影の取扱いが特徴的である。石彫では『アダムとイブ』(ウュルツブルク)、『ハインリヒ2世夫妻の墓碑』(バンベルク)、『ロレンツ・フォン・ビブラの墓碑』(ウュルツブルク)など個性表現と理想美の追究により新時代を開いた。
[野村太郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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「リーメンシュナイダー」の意味・わかりやすい解説
リーメンシュナイダー
Tilman Riemenschneider
生没年:1460ころ-1531
ドイツの彫刻家。活動の中心地ビュルツブルクでは市会議員や市長もつとめたが,農民戦争に加担したとして名声や社会的地位を著しく失墜した。石彫も手がけたが,何よりも素材の柔らかさ,しなやかさを生かした木彫においてドイツ彫刻史を代表する存在といえる。代表作はローテンブルクのヤコプ教会にある《最後の晩餐》を中心とする《聖なる血の祭壇》(1505ころ)と,その近郊のいくつかの教会にあるモニュメンタルな祭壇彫刻である。主題はもっぱら宗教的なもので,そこにただよう内観的で敬虔な宗教感情は他の同時代作家には見られない深みをたたえる。時代的にはドイツ・ルネサンスに属するが,その形態感覚と精神性においてはイタリア・ルネサンスとは対照的なゴシック的,ドイツ的傾向が著しい。
執筆者:千足 伸行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「リーメンシュナイダー」の意味・わかりやすい解説
リーメンシュナイダー
ドイツの初期ルネサンスの代表的彫刻家。1483年以後ビュルツブルクに住み,1520年―1521年同市の市長となったが,1525年ドイツ農民戦争に連座したかどで禁錮刑に処せられた。大理石による作品もあるが,木彫作品に彼の本領が発揮された。明快な写実性のうちに,ゴシック的な敬虔(けいけん)で静かな宗教感情を漂わせたものが多い。代表作《アダムとイブ》(1491年―1493年,ビュルツブルク,マイン・フランケン美術館蔵),木彫祭壇にはローテンブルクの聖ヤコブ教会の祭壇(1499年―1505年)やクンリンゲンの巡礼聖堂の祭壇(1505年―1510年ころ)などがある。
→関連項目ローテンブルク
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リーメンシュナイダー
Riemenschneider, Tilman
[生]1460頃.オステローデ
[没]1531.7.7. ウュルツブルク
ドイツの彫刻家。特に石材彫刻,木彫にすぐれていた。 1482年以来ウュルツブルクに住み,83年画家彫刻家組合に加入。 1520~21年には市長となったが,25年農民戦争に際して農民側に加担し,捕えられ拷問にあう。当時の重厚な表現を避け,個性的人物像を独特の繊細な感情で表現した。着色されていない木彫作品に特にその特徴がみられる。作品は『聖なる御血の祭壇』 (1501,ローテンブルク,ザンクト・ヤコブ聖堂) など。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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リーメンシュナイダー
Tilman Riemenschneider
1460頃~1531
ドイツの中世末,宗教改革期の彫刻家。生地,生年には諸説あるが,1480年頃からヴュルツブルクに住み,宗教的精神性を深く彫り込んだ木と石の彫刻を残した。1520~21年ヴュルツブルク市長。ドイツ農民戦争に際して農民軍に加担,捕らえられて拷問を受け,零落のうちに死亡。19世紀に作品が再発見,再評価された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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