日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランドル」の意味・わかりやすい解説
フランドル
ふらんどる
Flandre
オランダ・ベルギー国境のスケルデ川(エスコー川)下流域から、フランス北東部のアルトア丘陵にかけての北海沿岸地域。「フランドル」はフランス語名で、オランダ語名フラーンデレンVlaanderen、英語名フランダースFlanders。
[川上多美子]
地誌
現在のベルギーの東西両フランドル州(面積6126平方キロメートル、人口248万2716、1997)を中心とし、オランダのゼーラント州とフランスのノルド県、パ・ド・カレー県の一部が含まれる。ベルギーのアールスト、ヘント、ブリュッヘ、トゥールネー、フランスのリールなどこの地域の主要都市は、中世以来、毛織物工業の中心地。金属・化学工業も発達し、フランスのダンケルクは臨海型の最新設備を備えた鉄鋼業都市となっている。またベルギーのオーステンデとフランスのカレーは、イギリスとの間に連絡船や鉄道が通ずる交通の要地である。住民の大部分はオランダ語系のフラマン語を話すフラマン人系である。
[川上多美子]
歴史
フランドル地方は紀元前1世紀にはローマ人が、紀元4世紀にはフランク人が占有するところであった。フランク王国領となった後、843年のベルダン条約で西フランク領に属した。862年にはブリュッヘを中心とするフランドル伯領が形成され、その後フランス国王領と神聖ローマ皇帝領に分割された。中世には商業の復活とともに海上交易の振興と毛織物産業の著しい発展がみられ、国際商業の中心地となる。イングランドから北海沿岸、ライン川下流域に広がる北西ヨーロッパ都市圏と南の北イタリア都市圏の中間地点に位置したフランドルには、イーペル、ヘント、ブリュッヘといった珠玉の中世都市が形成され、産業育成と交易とにおいて豊かな都市生命力を胚胎(はいたい)し続けた。しかし12世紀よりフランドルはフランス国王の強く干渉するところとなり、ことにフィリップ4世はフランドル伯領の統治に意欲を示した。しかしフランドル市民はその強大な経済力を背景に封建領主に対して市政自治の自由を要求して闘争を繰り広げていった。フランスとイングランドの商戦隊の相互略奪に端を発し、イングランドはフランドル向けの羊毛の積出しを停止し、同時にフランドルの織布の輸入を停止した。羊毛の輸入が困難となったことでフランドル諸都市には失業者があふれた。さらにフランドル市民軍がルースベクの戦い(1382)でフランス軍に制圧されるなど、当地域の支配権の争奪はやがて英仏の百年戦争(1337~1453)に道を開いた。
1369年フランドルはブルゴーニュ侯領に編入され、文化史上に異彩を放つ一時代を画したことは文化史家ホイジンガの『中世の秋』(1919)に詳しい。1477年フランドルは神聖ローマ帝国ハプスブルク家の所領に、ついで同家のスペイン王位継承によりスペイン領となる。オランダ独立戦争の際、南ネーデルラントに属するフランドルはカトリック・スペイン領にとどまり、以後しばしば国際紛争の舞台となる。ウェストファリア条約(1648)によりフランドル北部はオランダ、南部はフランスに割譲された。フランス革命、ナポレオン時代には一時北部もフランス領に帰属したが、ウィーン会議(1814)により全域がオランダ領とされた。やがて北部優遇政策への反感から1830年にベルギーが君主国家として独立し、このとき東西フランドル州が誕生した。
19世紀にはナショナリズムとリベラリズムの高揚でフランドルはベルギーの精華と称され、フラマン・ワロン問題という言語政策の渦中に投下された。20世紀に入って活発化するフランドル民族主義者の活動は、一時同じ民族主義を唱え、またイギリス進出をねらうドイツ第三帝国との提携を許した。1993年ベルギーは連邦国家へと刷新され、北部に「フランドル地域」「オランダ語共同体」そして南部に「ワロン地域」「フランス語共同体」が構成されるなど、言語別地方分権化が進められている。フランドルは政治、経済、宗教、言語とまことに輻輳(ふくそう)とした歴史を有している。
[藤川 徹]