日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ美術」の意味・わかりやすい解説
ドイツ美術
どいつびじゅつ
ゲルマン古美術
ゲルマン民族はもともと視覚の再現像にさほどの価値を認めない民族だったといわれる。現存のゲルマン古美術を見ても、そこに施されているのは先史時代の遊牧民が伝えた動物意匠を文様化した「組紐(くみひも)文」で、その魔的な迷路の世界は民族大移動期を経てきたこの民族の呪術(じゅじゅつ)的、情念的な心情を物語っている。『ホルンハウゼンの騎士石』(7世紀末、ハレ州立美術館)には、対象の簡潔な図式化と表出力豊かな記号性、および象徴的な本質把握が認められ、ラテン民族の感覚性とは対蹠(たいしょ)的なこの民族の精神性が特徴的にうかがわれる。
[野村太郎]
中世
ゲルマン民族に初めて異質な文化の光を投じたのは、カール大帝(在位768~814)であった。しかし、キリスト教の普及と古代文化の振興を軸とするカロリング朝にも、厳密な意味でのドイツ美術はまだ誕生せず、その成立は約1世紀後のオットー朝を待たねばならなかった。当時ケルンに造営された聖パンタレオン聖堂は双塔式正面で名高く、またヒルデスハイム司教ベルンバルトの建立した聖ミハエル聖堂も後世の教会建築の範となった。ベルンバルトの名を冠してよばれる『青銅扉』は、高浮彫りの空間表現に時代の進歩がうかがわれる。コンスタンツ湖上のライヒェナウ修道院の写本挿絵、マース川およびライン川流域の金属工芸もこの時期の収穫である。特筆すべきはケルン大聖堂の『大司教ゲロのキリスト磔刑(たっけい)像』で、木の丸彫りによる等身大のこの像には、肉体的苦痛の極限から精神の偉大さを導き出そうとする創意、醜もまた芸術的表現でありうるとする卓抜な造形思考が働いている。
ドイツ・ロマネスクは、むしろ聖堂の内部空間に視線が注がれている。その先駆的な作例『大僧正ウェッティンの墓碑』(マクデブルク大聖堂)には、故人の偉大な人格を典型化する創意が読み取れる。この創意の奇抜な作例はブラウンシュワイク広場の当代唯一の野外独立彫刻『ライオン像』であるが、これはハインリヒ獅子(しし)公(1125―1195)が自ら命じてつくらせた象徴像である。
ドイツにおけるゴシック建築の摂取は、時間をかけて段階的に行われた。最初はロマネスクの母胎に影響ない部分改築、ついで母胎の空間を保持した増築(マールブルクの聖エリザベート教会、トリアの聖母教会、ストラスブール大聖堂など)として行われ、最後にケルン大聖堂がアミアン大聖堂を範として造営に着手されたのは1248年である。その後ハルレンキルヘ(広間式教会堂)の発達もあって、聖堂の円柱を人間像のために借用する初期ゴシック彫刻の発想もドイツではあまり厳密ではなく、聖堂彫刻でありながら現世的な情感の漂うものが多い。代表的作例に『エクレシアとシナゴーグ』(ストラスブール大聖堂)、『マリアとエリザベツ』『騎士像』(バンベルク大聖堂)などがある。また、ナウムブルク大聖堂のマイスター作『エッケハルトとウタ像』は観念的肖像彫刻として知られる。
[野村太郎]
ルネサンス
ドイツの15、16世紀は、宗教改革と農民戦争の混乱期であるが、カール4世(在位1346~1379)ゆかりのプラハおよび都市同盟傘下の諸都市で新時代の吸収が行われる。この時代の美的表現の主役は板絵で、「ボヘミア画派」「ハンブルク画派」、そしてロッホナーStephan Loehner(1410/1415―1451)を中心とする「ケルン画派」などが知られる。ほかに、シュワーベンのムルチャーHans Multscher(1400ころ―1467)、南チロール(ティロル)のパッハーMichael Pacher(1435ころ―1498)、バーゼルのウィッツKonrad Witz(1400ころ―1445ころ)、彫刻ではシュトス、クラフト、リーメンシュナイダーがいる。また、ハウスブーフのマイスターHausbuchmeisterやションガウアーによる版画の発達も特筆される。
ゴシックの色濃い15世紀に続いて、ドイツ絵画黄金の16世紀が始まる。重要な画家としては、二度のイタリア旅行でルネサンスを吸収し南北ヨーロッパの融合を果たしたデューラー、『イーゼンハイム祭壇画』一作で不滅の名を得ているグリューネワルト、ドナウ派のアルトドルファー、北ヨーロッパのビーナス像の画家クラナハ(大)、肖像画家ホルバイン(子)、明暗の画家バルドゥングの名があげられる。
[野村太郎]
バロック
この時期には建築のための装飾画の発達が目覚ましい。マニエリスム的なロッテンハンマーHans Rottenhammer(1564―1625)を先駆者とし、オーストリア・バロックを代表するロットマイルJohann Michael Rottmayr(1654―1730)、「南ドイツのフレスコの巨匠」といわれたアサム(兄)の名があげられる。しかし三十年戦争(1618~1648)による荒廃は、この時期以後長く才能ある美術家の国外流出を招来した。17世紀のエルスハイマー、18世紀後半のメングス、フューゼリらがそれである。なお、スイス生まれでドレスデンで制作したグラッフAnton Graff(1736―1813)は、ビーダーマイアー様式のリアリズムをみせている。
[野村太郎]
19世紀
名君フリードリヒ2世(在位1740~1786)以来、哲学、文学、音楽の各分野で躍進したドイツも、美術の分野では、ローマのサン・イシドロの廃寺にこもったナザレ派のように、なお才能の国外流出が続いた。この時期にドイツ美術の孤塁を守った第一人者は風景画家のカスパー・フリードリヒである。画家ルンゲPhillip Otto Runge(1777―1810)、詩人ティークおよびノバーリスらと親交のあった彼は、北ドイツの荒涼とした風景に悲劇的情感を盛ったロマン主義の画家として記憶される。この世紀の後半、現実主義を開拓した画家にメンツェル、理想主義的作風を示した画家にフォイエルバハとマレース、同じく彫刻家にヒルデブラントがいる。印象主義はリーバーマンによって移植されたが、ほぼ同時期にアール・ヌーボー(ドイツではユーゲントシュティル)も波及し、ウィーンのクリムト、ミュンヘンのシュトゥックがその画家として知られる。建築および工芸の分野では、1907年ドイツ工作連盟が組織された。
[野村太郎]
20世紀
二つの世界大戦を含む20世紀は、ドイツにとって未曽有(みぞう)の危機的時代であるが、この時代にドイツの造形精神はドイツ・ルネサンス期にも比肩する高揚をみせた。ノルウェーの画家ムンクに鼓舞された表現主義は、反自然主義的な20世紀初頭のヨーロッパ前衛美術運動の一翼を担った。ドレスデンの「ブリュッケ(橋)」、ベルリンの「シュトゥルム(嵐(あらし))」、ミュンヘンの「ブラウエ・ライター(青騎士)」が運動の母体で、おもな画家にはキルヒナー、ノルデ、ココシュカ、マルク、カンディンスキーらがおり、彫刻家にはバルラッハの名があげられる。第一次世界大戦後にベルリン、ハノーバー、ケルンに波及したダダの運動、およびそれに続く新即物主義の思潮のなかで活躍した美術家にはグロッス、ディクスOtto Dix(1891―1969)、シュビッタースKurt Schwitters(1887―1948)、エルンスト、アルプらがいる。また、1919年に建築家グロピウスによってワイマールに設立された「バウハウス」には、クレー、カンディンスキー、ファイニンガー、モホリ・ナギらが招かれて、美と機能との総合を追求した。
以上の運動やそれに参加した美術家たちはナチスによって「退廃芸術家」として弾圧され、自由な芸術の火は消えた。しかし第二次世界大戦後、抽象表現主義の国際的な潮流に呼応するバウマイスターやシューマッハーの活躍で復興され、戦前にもまして活発に現代美術の思潮に寄与する諸グループや美術家たちを生んでいる。とくにジャンルの枠をこえて反芸術の理念を幅広く追求したボイスJoseph Beuys(1921―1986)、動く彫刻の分野に新生面をひらいたゼロ・グループのマックHeinz Mack(1931― )やピーネOtto Piene(1928―2014)、ネオ・エクスプレショニズム(新表現主義)の画家バーゼリッツGeorg Baselitz(1938― )らの活躍は特筆される。また写真リアリズムの画家リヒターGerhard Richter(1932― )、幻想の画家ヤンセンHorst Janssen(1929―1995)とブンダーリヒPaul Wunderlich(1927―2010)、人間像の画家アンテスHorst Antes(1936― )も国際的に注目されている。
[野村太郎]
『前川誠郎編著『世界美術大系18 ドイツ美術』(1962・講談社)』▽『野村太郎編著『原色世界の美術6 ドイツ美術の流れ』(1970・小学館)』▽『岡野Heinrich圭一著『ドイツ美術史散歩 古彫刻篇』(1992・専修大学出版局)』▽『同『遺跡・古建築篇』(1995・専修大学出版局)』