ルワンダ内戦(読み)るわんだないせん

知恵蔵 「ルワンダ内戦」の解説

ルワンダ内戦

ルワンダベルギーの信託統治領から1962年に独立。独立以前から多数部族フツ族と少数部族ツチ族が共存していたが、ベルギーが統治に当たってツチ族を優遇した。73年、政権の座についたフツ族は和解政策を採ったが対立は続き、94年、内戦は激化した。国連安保理停戦を呼びかけると同時に国連平和維持軍(PKF)を派遣、停戦合意が成立、暫定政府が樹立された。しかしツチ族のゲリラ、ルワンダ愛国戦線(RPF)は首都キガリで大規模な攻防戦を展開した。このため安保理は同年5月、第2次国連ルワンダ支援団(UNAMIRII)の派遣を決議した。この間、大規模な虐殺が続き、死者は50万人を超え、80万人がタンザニアザイール(現・コンゴ民主共和国)に逃れた。7月、ほぼ全土を掌握したRPFがフツ族穏健派首班の新政権を発足させた。新政権はRPFと野党4党から成り、11月に議会を招集、大量虐殺を裁く戦犯法廷を発足させた。また国連も、国際戦争犯罪法廷をタンザニアのアルーシャに設置した。2000年3月、ツチ族出身のポール・カガメ前副大統領兼国防相が新大統領に就任した。01年、安保理の撤退決議にもかかわらず、ルワンダ軍は隣国コンゴ民主共和国の内戦(コンゴ内戦)に反政府組織を支援して介入した。02年12月、ムベキ南ア大統領の仲介により和平協定に調印、ルワンダ軍は撤退した。また、03年8月、大統領選挙でカガメが再選、与党RPFが圧勝した。カガメ大統領は経済再建のため欧米諸国との関係を修復し、05年9月には訪米した。しかし、隣国コンゴ北東部のフツ族難民に攻撃を仕掛ける武装勢力を支援し、コンゴとの対立は続いている。

(林晃史 敬愛大学教授 / 2007年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルワンダ内戦」の意味・わかりやすい解説

ルワンダ内戦
ルワンダないせん

ベルギーの信託統治領時代からの少数派支配民族ツチ人と,1973年7月のクーデターで政権を握った多数派民族フツ人の間で 1990年10月勃発した内戦。ツチ人主体のルワンダ愛国戦線 RPFのウガンダからの侵攻発端とし,1993年8月に政府と RPFは和平協定に調印したが,1994年4月6日に首都キガリで起こったジュベナル・ハビャリマナ大統領機撃墜事件をきっかけに再発。政府軍兵士,民兵らがツチ人の虐殺を始めたため,RPFは虐殺阻止と政府転覆をねらって進撃し,首都を制圧して 7月19日に新政府を樹立した。虐殺などによる死者は約 80万人,虐殺の報復を恐れザイールなど国外へ逃れた難民はフツ人を中心に 200万人をこえた。(→ルワンダ大虐殺

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ルワンダ内戦」の解説

ルワンダ内戦(ルワンダないせん)

反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」の侵攻によって1990年10月に始まり,いったん成立した和平合意が崩壊してツチ人に対する大量虐殺が行われる状況のなかで,94年7月にRPF側の勝利で決着した。独立以降のルワンダでは人口的多数派であるフツ人の一部エリートが政治権力の中枢を独占した。RPFは独立前後にルワンダを追われたツチ人の難民を中心に組織されていたが,経済不振や政治的抑圧を背景に支持を広げた。内戦が始まると,政権側はRPFをツチ人と同一視してその抹殺を扇動し,1994年4月の大統領搭乗機撃墜事件を契機として,国内のツチ人とフツ人反政府勢力を組織的に虐殺した。内戦時の人口約700万のうち,50~80万がその犠牲になったといわれる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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