ウガンダ(読み)うがんだ(英語表記)Uganda

翻訳|Uganda

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウガンダ」の意味・わかりやすい解説

ウガンダ
うがんだ
Uganda

アフリカ東部の内陸国。正称はウガンダ共和国Republic of Ugandaで、イギリス連邦に属する。北は南スーダン、東はケニア、南はタンザニア、ルワンダ、西はコンゴ民主共和国(旧ザイール)と国境を接する。面積は24万1550平方キロメートルだが、その約18%はビクトリア湖キョーガ湖をはじめとする湖が占める。人口2444万2084(2002年センサス)、3463万4650(2014年センサス)。国名は「ガンダ人の国」という意味で、イギリス植民地時代「女王の首飾り」と称されたように、緑豊かな肥沃(ひよく)な土地である。1962年10月9日に独立を達成。首都はカンパラ

[赤阪 賢]

自然

国土の大半は標高900メートルから1500メートルの高原で、残りは湿地、湖、山地からなる。ビクトリア湖から出た白ナイル川がキョーガ湖を通り、北へ向けて国土を縦断している。国の西部には大地溝帯(グレート・リフト・バレー)が走り、その底部にはアルバート湖エドワード湖などが連なっている。またコンゴ民主共和国との国境にはルウェンゾリ山地が突出している。その最高峰のマルゲリータ峰は標高5110メートルに達する。ルウェンゾリ山地は赤道直下にもかかわらず氷河を抱き、月の山の伝説で古くから知られている。東部のケニアとの国境地帯はエルゴン山(4321メートル)に続く高地となっている。

 国の南部を赤道が走り、気候は熱帯型を示す。雨量は年間を通じて多く、ビクトリア湖北岸地域では年降水量は2000ミリメートルを超える。しかし、北東部のカラモジャ地方や南西部の東アンコーレ地方では年降水量が750ミリメートル以下に下がり、カラモジャ地方では干魃(かんばつ)問題が生じている。年間の平均気温は20℃から22℃の範囲で、全体として比較的快適である。高度により多少変動があり、国全体では7月がもっとも涼しい月だが、雨量はもっとも少ない。ウガンダはかつては熱帯森林に覆われていたが、人間の手で農耕地に改変され、ビクトリア湖などの湖の近辺の湿地に残存するにすぎない。ルウェンゾリ山地やエルゴン山には山地林が発達し、高山性の景観を示す。中部から北部にかけてはサバナが広がる。

 北部にキデポ国立公園、カバレガ滝国立公園、西部にルウェンゾリ国立公園があり、ライオン、ヒョウ、ゾウ、クロサイシロサイ、キリン、シマウマ、カバ、ワニなどや、イランド、トピ、ローンアンテロープ、オリックス、クーズーなどのカモシカ類など、多様な動物相に恵まれている。また西部の山地にはマウンテンゴリラが生息している。1994年、ブウィンディ、ルウェンゾリの2国立公園が世界遺産の自然遺産に登録された。

[赤阪 賢]

歴史

一般に大湖地方と称される肥沃なこの土地には、初めバントゥー系諸族が、ついでナイロート系諸族、さらに牧畜民のハム系諸族が移住してきた。彼らはそれぞれブガンダ、ブニョロ、トロ、アンコーレ、ブソガ、ブギスなどの王国を形成した。これらの王国のなかから14世紀にはブニョロ王国が勢力を伸ばしたが、19世紀に入るとブガンダ王国が優勢になった。そのころヨーロッパ人による東アフリカ内陸部の探検隊はナイル川の水源の確認に熱中し、イギリスの王立地理学協会に派遣されたバートンとスピークが1858年にタンガニーカ湖畔に達した。ついでスピークは1862年にビクトリア湖の北に位置するブガンダ王国に入り、ナイル川の水源がビクトリア湖であることを確認した。1874年にスタンレーはビクトリア湖を一周し、ブガンダ王国のムテサ1世と会見したが、これをきっかけにキリスト教の伝道活動が活発化した。当時イギリスのマッキノンWilliam Mackinnon(1823―1893)は東アフリカ会社を設立、1888年には勅許を得て帝国イギリス東アフリカ会社となり、東アフリカ内陸への進出を目ざした。

 ドイツもウガンダへ関心を寄せたが、1890年のイギリス・ドイツ協定によってウガンダはイギリスの勢力下に置かれた。ブガンダ王国ではアラブ商人の持ち込んだイスラム教と、カトリックプロテスタントのキリスト教との間に勢力争いが繰り広げられた。帝国イギリス東アフリカ会社はルガードFrederick John Dealtry Lugard(1858―1945)を派遣して統治を試み、イスラム教を支持するブニョロ王国など周辺の諸王国を平定した。1894年ウガンダはイギリスの保護領とされた。イギリスは各部族の王国を間接統治する策をとったため、各王国の伝統的な政治形態が温存され、むしろ強化される傾向も生じた。

 1910年インド洋沿岸のモンバサから延びたウガンダ鉄道がビクトリア湖東岸のキスムに達したため、以後ウガンダにはワタ栽培が急激に進展し、重要な輸出品となった。またコーヒー栽培も現地のアフリカ人の手によって急激に広まった。隣国のケニアと事情が異なり、白人の入植が比較的少なかったウガンダでも、1920年代になるとアフリカ住民の不満が爆発し、氏族長によるバタカ・アソシエーションが結成されて植民地政府に土地権利の復活を要求した。1938年にはムサジの率いる「キントゥの末裔(まつえい)」という大衆組織が反政府運動をおこした。第二次世界大戦後ブガンダ王国を中心に独立の気運が高くなり、1948年にはウガンダ・アフリカ人農民組合が結成され、価格の高騰したワタの直接販売を要求して立ち上がった。1952年にはウガンダ国民会議(UNC)が創設され、ついで1953年にはケニアのマウマウ団の反乱の影響で危機感をもったブガンダ王国のムテサ2世はロンドンに逃れた。最有力部族であるガンダ人中心のUNCの運動に反発した他部族はウガンダ人民会議(UPC)を結成し、ランゴ人のオボテを党首に選んだ。そのほか多くの政党が分立し、民族主義運動の路線をめぐり対立した。1962年4月の総選挙ではUPCが第一党を占め、首相オボテのもとで10月9日に独立を達成した。

[赤阪 賢]

政治

1963年ウガンダは大統領制をとり、ブガンダ王のムテサ2世が名目上の初代大統領に就任したが、その権限は象徴的なものにとどまった。その後UPC内部の権力争いとガンダ人の独立分離運動により政局は混迷し、結局ムテサ2世は追放され、首相オボテが大統領に就任、1967年9月の新憲法で伝統的な王国を廃止して共和国体制をとった。1969年オボテは人民憲章を発表、旧体制の一掃を図った。さらに1970年には社会主義路線を示し、主要外国企業の国有化を企画し、経済力のあるアジア人追放をもくろんだ。

 1971年1月25日、アミン少将による軍事クーデターが起こり、アミンは自ら大統領に就任し、1979年までの8年間独裁者として権威を振るった。その間、1972年のイスラエルとの国交断絶、在住アジア人の国外追放、イギリス企業の接収、タンザニアとの国境紛争、1976年のエンテベ空港事件を契機とした国境紛争など、従来築き上げた諸外国との外交関係が悪化した。また国内でも、政敵の出身部族であるランゴやアチョリなどへの弾圧を図り、そのために約30万人が虐殺されたといわれている。1979年2月、タンザニア北部のモシでアミンの独裁に対抗するウガンダ民族解放戦線(UNLF)が結成された。UNLFはタンザニア軍の直接的な支援を受けてウガンダ領内に進撃し、同年4月ついにアミン政権は打倒された。いったんルレが大統領に就任、ついでUNLFの内紛によりビナイサGodfrey Lukongwa Binaisa(1920―2010)が後を継いだが、1980年選挙で元大統領のオボテが返り咲いた。

 1985年7月軍事評議会(議長オケロ)がクーデターを試み、民族抵抗運動(NRM)との内戦状態に陥った。1986年にムセベニYoweri Kaguta Museveni(1944― )がNRMを基盤にして政権を樹立し、アミン時代から続いた混乱を収拾した。1994年に憲法制定のための議会選挙で大統領支持派が勝利し、1995年に新憲法が制定された。1996年5月に実施された大統領選挙ではムセベニが対立候補に圧勝し、続いて国民議会の選挙でも与党が多数の議席を占めた。ムセベニはNRMによる単一政党制を導入したが、これに対し複数政党制採用の是非を問う国民投票が2000年6月に行われた。51%の投票率で、そのうちの9割近くがNRMの単一支配を支持し、複数政党制の導入は見送られた。2001年3月の大統領選挙では、69.3%の得票率でムセベニが再選された。

 2005年7月、ふたたび複数政党制採用を問う国民投票が実施され、その結果、複数政党制への回帰が決定された。2006年2月の大統領選挙ではムセベニが59.3%の票を獲得して3選を果たしている。また、反政府勢力の「神の抵抗軍」(LRA)と政府軍の闘いは20年以上に及んでいるが、2006年以後、和平の動きがあるものの、停戦には至っていない。

[赤阪 賢]

経済

ウガンダは温和な気候と広い耕地に恵まれ、人口の約80%が農業を営む農業国である。輸出額においても農産物がほとんどの割合を占めている。おもな商品作物はコーヒー、綿花、紅茶の3品目である。コーヒーは古くからガンダ人によってこの地で生産されていたもので、1920年代に商品作物化が進み、1960年代にはアフリカで第3位の生産量を誇るようになった。ロブスタ種がガンダ地域などの低丘陵地で、またアラビカ種がキゲジやエルゴン山麓(さんろく)で栽培されているが、アラビカ種のほうが良質なため最近ではロブスタ種からアラビカ種への転換が進められている。綿花は20世紀初頭に栽培が奨励され、おもに鉄道に沿って広がった。当時はウガンダでもっとも重要な作物であった。最初カンパラ周辺に限られていたが、しだいに東部テソ地域やキョーガ湖の北部にまで普及した。紅茶は西部のフォート・ポータル近辺や、ビクトリア湖北岸のジンジャが主たる産地である。コーヒー、綿花の栽培が小農の手によって行われているのに比べて、紅茶栽培の場合はプランテーションが発達している。この3品目以外にもサトウキビ、タバコ、ラッカセイ、大豆などの商品作物も栽培されている。商品作物以外の食料作物もあり、ミレット、ソルガム、バナナ、マニオク(キャッサバ)、サツマイモ、プランテン・バナナ(料理用バナナ)、ゴマ、そして豆類がある。またルウェンゾリ地域では米が栽培されており、キョーガ湖近辺の低地でも実験栽培が試みられている。こうした豊かな農業国が成立したのは、イギリス保護領時代にアフリカ人自身の小農経営が促進されたことと、インド人の商業活動が内陸国ウガンダの流通面を確保してきたことの二つが大きな要因であったといえる。

 しかし1971年にアミン政権が成立すると、性急な民族化政策がとられ、外国人プランテーションの接収、インド人の国外追放などが行われた。このため主要農産物の生産量は1970年代に減少の一途をたどった。1970年代からの混乱で農村も荒廃したため経済は衰退したが、1980年代後半から再建が進められ、国際通貨基金(IMF)の指導で経済自由化などの政策を採用して、国際的な援助の額も増加した。

 ツェツェバエ駆除対策の成功もあって家畜数は増える傾向にあり、1994年、ウシ保有数は約510万頭である。おもな牧畜地域はテソ地区で、搾乳用および食肉用のゼブ種のコブウシが主体である。北東地域では遊牧が行われている。北部および東部からカンパラ周辺ブガンダ地区への家畜の交易が盛んである。漁業は、内陸国ながらビクトリア湖を中心とする湖沼で盛んである。2万人が漁業に携わっており、1993年に22万トンを水揚げした。

 鉱業は銅が中心で、ルウェンゾリ山に近いキレンベ鉱山で産出される。この銅山は1956年に開発が始まり、1970年には1万7600トンを生産したが、近年は枯渇傾向にある。このほかコンゴ民主共和国との国境地帯で錫(すず)を産し、1980年の生産額は12万トンであった。また南西部ではタングステンを産し、1980年に13万9000トンであった。高品質の鉄鉱脈がキゲジで発見されていて埋蔵量3000万トンと推定されるが、開発は進んでいない。トロロ地区では石灰岩を産する。

 工業は就業人口813万人で全賃金労働者の15%を占める。豊富な水力発電が工業を支え、余剰電力はケニアに供給されている。この電力によりジンジャやトロロに化学、製錬、鉄鋼などの工場がある。食品工業もカンパラやジンジャにビール、冷凍肉、缶詰、製粉などの工場がある。また地方の生産地近辺にも繰綿、製茶、砂糖などの工場が散在している。しかし、工業もインド人の手によるところが大きかったため、アミン以後低迷をかこっている。

[赤阪 賢]

社会・文化

ウガンダは政治的、文化的に東部地域、西部地域、ブガンダ地域、北部地域の四つに区分されている。東部地域にはブギス、ブケディ、ブソガ、セベイ、テソの各地区が含まれる。エルゴン山の麓(ふもと)にブギス人などのバントゥー系諸族や、ナイロ・ハム系のテソ人などが居住し、ナイル川に沿ってバントゥー系のブソガ人などが居住している。西部地域はブニョロ、トロ、アンコーレ、キゲジの各地区からなる。これらの地区にはブニョロ、トロ、アンコーレなどの部族がそれぞれ居住し、かつては王国を形成していた。この地域ではとくに長角のアンコーレ牛の牧畜が盛んである。ビクトリア湖の北西にあたるブガンダ地域は、東メンゴ、西メンゴ、マサカ、ムベンデの各地区を含み、ガンダ人がおもに居住する、ウガンダでもっとも豊かな地域である。北部地域はカラモジャ、ランゴ、アチョリ、マディ、西ナイルの各地区からなる。これらの部族のなかでもっとも有力なのはガンダ人で、ついでテソ人、アンコーレ人、ブソガ人、ランゴ人、ブギス人などが続く。また隣国ルワンダから流入したバニャルワンダ人が増え、近年国境付近で紛争が生じている。

 ウガンダ全土の人口密度は1平方キロメートル当り102人であるが、ビクトリア湖周辺では約300人に達する。都市化はあまり進まず、都市人口は約12%(2003)にすぎない。カンパラが最大の都市で、ついでジンジャ、ムベイルが続く。交通は東アフリカでも発達しているほうで、道路は延長2万7222キロメートル(1985)、約3分の1が舗装されている。モンバサ―ナイロビ―カンパラを結ぶ鉄道はカセセやグルへの支線をもち、国内で1286キロメートルに及ぶ。エンテベの国際空港はケニアなどのアフリカ諸国やヨーロッパ諸国への便をもっている。

 教育制度も比較的整備されており、1989年で7905の小学校(生徒数約260万)があった。さらに教員養成の大学のほか、工科・商科大学では中堅技術者を養成している。1922年にカンパラに建設されたマケレレ大学は、最初は工業高校であったが、東アフリカ全体の高等教育機関となり、1950年には大学となって、多彩な人材を生んだ。そのなかにはタンザニアの元大統領ニエレレなども含まれる。アミン時代にインテリや専門家が国外に逃れたため、教育や文化の発展が停滞した。

[赤阪 賢]

日本との関係

第二次世界大戦前、日本の綿紡業は東アフリカの原綿を求め、1933~1937年のウガンダ綿の輸出の20%を日本が占めた経緯がある。その後も日本との貿易関係は継続し、今日では輸入でウガンダの貿易相手国の上位を占めており、日本側の恒常的出超傾向が続いている。1994年にムセベニ大統領が来日、1997年には日本大使館が設置された。

[赤阪 賢]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウガンダ」の意味・わかりやすい解説

ウガンダ
Uganda

正式名称 ウガンダ共和国 Republic of Uganda。スワヒリ語では Jamhuri ya Uganda。
面積 24万1555km2
人口 4288万6000(2021推計)。
首都 カンパラ

アフリカ大陸中東部の内陸国。北は南スーダン,東はケニア,南はタンザニア,ルワンダ,西はコンゴ民主共和国と国境を接する。アフリカ大地溝帯(グレートリフトバレー)のなかに位置し,西の国境にモブツセセセコ湖エドワード湖ルウェンゾリ山脈,南西の国境にビルンガ山脈,東の国境にエルゴン山,南東の国境にビクトリア湖があり,湖面面積が国土の約 20%を占める。標高 600m前後の北部は暑く,ほかの地域は標高 1100m以上で,年平均気温 20℃前後。雨季は 3~5月と 10~11月の 2回。中部,北部は高木サバナ,南部は低木サバナ。15世紀頃から諸王国の盛衰があったが,18世紀末にカンパラ近辺を本拠とするブガンダ王国が台頭,1840年代からはアラブ人の奴隷・象牙商人が暗躍するところとなったが,1890年イギリス東アフリカ会社がカンパラに進出,1894年イギリスのウガンダ保護領となった。1950年代から独立運動が起こり,1962年3月イギリス連邦内の自治国となり,同 1962年10月立憲王国として独立。1967年10月共和国となった。独立以来クーデター,内戦が繰り返され,1971~79年のイディ・アミン大統領の恐怖政治もあって産業基盤が破壊されたが,1986年ヨウェリ・ムセベニが政権を掌握,以来復興に努め,政情の安定と経済成長を実現した。産業は農業が中心で,コーヒー,チャ(茶),綿花,タバコを輸出。牧畜,湖の漁業も盛ん。鉱物資源は豊かではないが,銅,コバルト,スズ,タングステン,リン鉱石,岩塩などを産出。工業は製鉄のほか農産物加工,建築材,日用品製造など。古くから人種交流が激しく,多様な人種の混交がみられるが,大部分はバンツー系(→バンツー語系諸族),ナイロート系(→ナイル語系諸族),ナイロ=ハム系(→ナイロ=ハム語系諸族)などのアフリカ人。イギリス植民地時代に鉄道敷設のため送り込まれたインド=パキスタン系住民がのちに経済を大幅に支配したが,1972年アミン体制下のアジア人追放事件で激減した。伝統宗教のほか,キリスト教徒,イスラム教徒が多い。公用語は英語とスワヒリ語であるが,ルガンダ語が最も広く用いられる。

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