日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローゼンベルク」の意味・わかりやすい解説
ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)
ろーぜんべるく
Alfred Rosenberg
(1893―1946)
ナチズムの理論家。エストニアの商人の子。リガ(現ラトビア共和国)の工科大学で建築を学んだが、モスクワでロシア革命を経験し、反ボリシェビズム的立場を強めた。1918年のドイツの敗北と革命に衝撃を受け、政治評論家となった。1919年ナチス党に入り、1921年以来党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター(民族的観察者)』の主筆として、ユダヤ主義、マルクス主義、民主主義を攻撃した。1933年に党の外交局長、1934年には党の世界観を統制する最高責任者となり、その世界観に基づいて東方進出を目ざし、イギリス、イタリアと提携しつつフランス、ポーランドと対立するという基本構想を主張したが、教条主義的態度のため、政策への影響力はほとんどなかった。主著『20世紀の神話』(1930)も反教会的な立場のため、党から公認されなかった。1940年文化財略奪部隊を組織し、1941年東方占領地相となった。ここでの責任を問われ、ニュルンベルク国際軍事裁判で絞首刑になった。
[吉田輝夫]
ローゼンベルク(Arthur Rosenberg)
ろーぜんべるく
Arthur Rosenberg
(1889―1943)
ドイツの歴史家、政治家。ベルリン大学で古代史と考古学を学び、学位取得後同大学の私講師となる。1918年11月ドイツ革命が勃発(ぼっぱつ)すると、独立社会民主党に入り、1920年その分裂とともに共産党に移った。1920~1924年ベルリン市会議員、1924~1928年国会議員。この間さらにドイツ共産党中央部、コミンテルン執行委員会で活躍した。1927年モスクワ従属路線を拒否して共産党から除名され、以後学究生活に戻り、1930年ベルリン大学古代史教授となるが、1933年ヒトラー政権が成立するとイギリスに亡命し、1938年アメリカに渡り、ブルックリン大学で教鞭(きょうべん)をとった。古代史家としてよりも現代史家として知られ、『ワイマール共和国成立史』(1928)は古典的名著とされている。
[吉田輝夫]
『ローゼンベルク著、吉田輝夫訳『ヴァイマル共和国史』(1964・思想社)』▽『ローゼンベルク著、足利末男訳『ヴァイマル共和国成立史』(1969・みすず書房)』