1923年11月8~9日,政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。23年1月ドイツの賠償支払遅滞への制裁として,フランス・ベルギー軍がルール地方を占領すると,ベルリンの中央政府は,〈受身の抵抗〉でこれに対抗。だが中央政府が9月にこの抵抗の中止を宣言すると,バイエルンには中央政府打倒の声が高まり,独裁的権限を与えられた邦国総監カールGustav von Kahr(1862-1934),バイエルン国防軍司令官ロッソー,警察長官ザイサーの〈三頭政治〉が実権を掌握,中央政府と対立し,ナチス突撃隊などを指揮下に入れ,ベルリン進撃を計画した。だが10月中旬よりドイツの政治・経済情勢安定化のきざしが見えると,11月3日以降,三頭政治側は性急なベルリン進撃計画を見合わせた。11月8日夜,ミュンヘン市内のビヤホールで三頭政治側が集会を開催すると,ヒトラーは突撃隊を使って会場を占拠,かつルーデンドルフ将軍の援助で三頭政治側の人物を蜂起へと誘導することを画策した。ヒトラーは国民革命の開始を宣言し,カール,ロッソー,ザイサーもいったんは蜂起に賛成する。だが翌9日早朝,3名は蜂起を否認。正午近くヒトラーは態勢を立て直すため,市中のデモ行進を実施するが,武装警察隊の射撃をうけて行進は四散し,蜂起は簡単に鎮圧された。その結果,ナチス党は解散させられ,ヒトラーは裁判にかけられ,24年4月,5年の要塞禁固刑を言い渡された。
執筆者:中村 幹雄
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…ナチスという呼称は,国民社会主義者Nationalsozialistの略称ナチNaziの複数形である。
[党結成からミュンヘン一揆]
1919年1月5日ミュンヘンの国有鉄道中央工場の仕上工ドレクスラーAnton Drexler(1884‐1942)が労働者をナショナリズム,反マルクス主義,反ユダヤ主義の立場に獲得することをめざして,同僚の労働者24名とともに結成,党首に就任した。最初ドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiと名のり,《ミュンヘン・アウクスブルク夕刊》紙のスポーツ担当記者ハラーの仲介で反革命結社〈トゥーレ協会Thulle Gesellschaft〉の援助を受け,かつ活動もハラーの方針に従い小規模な人数の演説集会に終始した。…
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