1919-33年に存続したドイツの共和国。
第1次大戦末期,キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は,1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会において,(1)国民議会の召集,(2)軍隊の民主化,(3)鉱山の社会化,を決議した。これは,さしあたり議会制民主主義の導入に賛成しつつも,第二帝政の主柱であった反民主的な軍部・重工業を解体しようとしたものであったが,しかし,多数派社会民主党首脳の支配する人民委員政府は,(1)国防軍首脳と多数派社会民主党首脳のいわゆるヒンデンブルク=エーベルト同盟,(2)資本家団体首脳と自由労組首脳のいわゆるシュティンネス=レギーン協定(中央労働共同体協定)をてこに,一方において,直ちに社会主義共和国を樹立しようとするスパルタクス団=共産党らの蜂起を鎮圧するとともに,他方,労働者・兵士大衆の要求する重工業社会化・軍隊民主化をも封殺し,こうしてワイマール共和国の基礎を作ったのである。19年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は,エーベルトを大統領に選出するとともに,社会民主党・中央党・民主党のいわゆるワイマール連合内閣を成立させ,19年7月31日にはワイマール憲法を採択した。ワイマール憲法は世界で最も民主的な憲法といわれ,ワイマール民主主義の法的基礎を形成したが,しかし,ドイツ革命の不徹底の結果として,ドイツ社会の支配層には第二帝政の主柱だった重工業・軍部・ユンカーの勢力が根強く残存することとなり,共和国の運命に重大な影響をあたえることとなったのである。
ワイマール共和国の成立過程で生じた不信と対立は,戦勝国のとった過酷な政策によって倍加された。戦勝国側は19年6月28日,ベルサイユ条約をドイツに強制したが,これはドイツから全海外領土と本国の13%を奪い,広範な軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い,さらに莫大な賠償金を課するものであった。とくに,自国の安全保障に不安を感じたフランスは苛烈な賠償政策を展開したので,ドイツの内政は容易に安定しなかった。20年3月には極右勢力によるカップ一揆が起こり,21年3月には共産党の指導によってザクセン地方で労働者が蜂起した。23年1月には,フランスが賠償問題を口実に,ベルギーとともに,ついにルール占領に踏み切った。ドイツは〈消極的抵抗〉によって抵抗したが,しかし,インフレーションの破局的高進と重大な社会不安を招いた。10月にはザクセンに左翼政権が成立して共産党が革命計画を進め,11月にはヒトラーによるミュンヘン一揆が起こった。ラインラントではフランスの後援による分離運動が活発化した。このなかで,ドイツ政府は11月,レンテンマルクを発行してインフレを抑え,国防軍の力によって各地の反乱を鎮めるとともに,経済再建を望むアメリカと,革命化を恐れるイギリスの助けを借りて,24年8月,ドーズ案を締結して賠償問題を暫定的に解決し,ようやく混乱を乗り切ったのである。
ドーズ案の成立とともに,共和国にはしばしの安定と繁栄が訪れた。24年12月の国会選挙は穏和政党の勝利と極右・極左政党の敗北をもたらして,以後数年間の政治的安定の基礎を作った。内閣は,中央党,民主党,人民党のブルジョア穏和政党を中心に運営され,28年5月の国会選挙はこれに社会民主党の参加をもたらした。ドイツ工業全国連盟の指導する経済界は,化学・電機資本を中心に,基本的に共和国容認へと転じ,産業合理化を推進して新しい事態に対処しようとした。ドーズ案成立とともに,アメリカをはじめとする諸国から流入した巨額の外資は,賠償支払を可能にするとともに,ドイツ経済の資本不足を緩和した。景気は上昇し,28年には戦前水準に達した。生産の上昇につれて賃金も上昇し,失業が減少した。27年7月の〈職業紹介・失業保険法〉をはじめとする多くの社会政策が実施され,民生の向上がはかられた。
国際的にもドイツは,外相シュトレーゼマンの指導下に,24年8月のドーズ案に続いて25年1月には関税自主権を回復し,同年10月にはロカルノ条約を締結した。その結果として,26年には国際連盟に常任理事国としての加盟が実現した。こうして,ドイツは西欧諸国との協調を中軸に名実ともに国際社会への復帰を果たしたのであるが,しかし他面,22年4月にソ連とラパッロ条約を結んだのに続いて,26年4月には同国とベルリン条約を締結し,独ソ軍事協力を通じて秘密裡に再軍備を推し進めるなど,戦勝国に対抗する強国化の道もとられていたのである。しかしながら,相対的安定期の国際秩序は何よりもアメリカからの巨額の外資流入に依存したものであったから,外資途絶の危機に直面して結ばれたヤング案(1930年3月)は,ドイツ国内の右翼勢力の反対運動の激化とともに,安定と協調の時代の終末を告げるものであった。29年10月,アメリカで起こった大恐慌は,すでに景気後退の中にあったドイツをたちまち襲い,最後の議会主義内閣,ヘルマン・ミュラー大連合内閣は30年3月末,失業の増大と政治の過激化の渦中に没した。
25年4月,ヒンデンブルク将軍が第2次大統領に当選するや,国防軍,農業界,重工業界などの支配層右派勢力はしだいにこれを中心に結集しはじめていたが,30年4月に成立したブリューニング内閣は,この支配層右派勢力と,相対的安定期の中軸をなし,社会民主党=自由労組首脳と結んだドイツ工業全国連盟首脳(化学・電機資本)を中心とする支配層左派勢力との均衡の上に立ったものであった。ブリューニングは,31年12月の第4次緊急令を頂点とするデフレ政策によって,恐慌克服と賠償問題の解決をはかったが,かえって恐慌の激化と民衆の過激化を招き,支配層右派の勢力増大の前に32年5月挂冠した。
続くパーペン内閣の下で,すでに30年9月の国会選挙で一大飛躍を遂げていたナチスは,32年7月の国会選挙において断然第一党となり,議会制民主主義と既成ブルジョア政党に絶望した中間層大衆の一大結集点となった。カトリック教徒は中央党への信頼を保持したが,労働者階級は社会民主党と共産党への分裂を深めた。恐慌は32年8月に最低点に到達し,以後,9月の経済振興緊急令などの積極政策と相まって,しだいに回復に向かった。いまや,ドイツ支配層にとってナチスを大衆的基盤とした体制の再編は焦眉の急務となったのである。パーペンは,7月20日のクーデタでプロイセン州の社会民主党政府を一撃の下に倒すとともに,ヒンデンブルクの支持を得て,ヒトラーを副首相として入閣させようとしたが,これはヒトラーに拒否された。このためパーペンは国家改造による独裁的統治を計画したが,国防軍の実力者シュライヒャーに反対され退陣した。
他方,ドイツ工業全国連盟首脳は,社会民主党から離れて右傾化しつつある自由労組をナチスに結びつけるいわゆる対角線連合を構想しつつあったが,シュライヒャーはこれを,ナチス第二の男シュトラッサーを党から分裂させて副首相として迎える,という形で実現しようとして失敗した。ここにおいて,33年1月4日,重工業界首脳の後見によって,ヒトラー=パーペン会談が実現した。全国農村同盟による農業界・ユンカー勢力がこれに参加し,国家人民党が同調した。こうして,33年1月30日に成立したヒトラー=パーペン内閣は,ナチスと重工業界・農業界を中心とした保守的右翼とを結ぶ右翼統一戦線内閣として実現したが,それは第二帝政以来残存してきた支配勢力がワイマール民主主義に対抗して行った復活=再編成の試みでもあったのである。
執筆者:栗原 優
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1918年11月のドイツ革命によって生まれ、33年1月のナチス党の政権掌握によって終わりを告げたドイツ最初の共和国。
[松 俊夫]
革命によって政権を委譲された社会民主党は、革命派の動きを抑えるために軍部と結び、議会制民主主義の導入に全力をあげた。1919年1月ベルリンで革命派の蜂起(ほうき)が鎮圧されたあと、国民議会の選挙で多数を占めたワイマール連合(社会民主党、中央党、民主党)は、2月にエーベルトを大統領に選び、7月ワイマール憲法を制定して共和国を発足させた。同年6月ベルサイユ条約が調印されると、右派勢力は国民の憤激を利用し、第一次世界大戦の敗北は「背後から、あいくちによって刺された」結果であると宣伝、20年3月には一部の軍人、右翼政治家がカップ一揆(いっき)を引き起こす事態を招いた。一揆は労働者のゼネストによって失敗したが、その影響を受けて同年6月の総選挙では、ワイマール連合が大きく後退し、かわって左右両派が進出した。ナチス党が25か条の綱領を定めたのもこの年である。一方、連合国は21年5月、最後通牒(つうちょう)をもって総額1320億金マルクに上る賠償をドイツに要求した。ドイツはやむなくこれを受諾し、支払いを開始したが、まもなく行き詰まったため、22年4月ソビエト・ロシアとラパロ条約を結び、国際的孤立からの脱却と市場の開拓を図ろうとした。しかしこれは連合国に衝撃を与え、フランスは賠償支払いの遅れを理由に、23年1月ベルギーとともにルール地方を占領、一方、ドイツもゼネストによる「受身の抵抗」で応じたため、ドイツ経済は麻痺(まひ)し、破局的なインフレを招いて深刻な社会不安を引き起こした。そこで同年8月、首相に就任したシュトレーゼマンはただちに抵抗を打ち切り、レンテンマルクを発行してインフレの収拾に努め、左翼勢力の動きやナチス党のミュンヘン一揆を失敗させて危機を克服した。
[松 俊夫]
シュトレーゼマンはまもなく辞任したが、引き続き外相にとどまり、「履行政策」を推進した。その結果、1924年8月ドーズ案が成立して賠償支払いの基準が定まり、25年10月にはロカルノ条約が成立し、翌年ドイツは国際連盟に加入して常任理事国となったが、一方、26年4月には独ソ間にベルリン条約も成立し、ドイツの国際的地位は著しく向上した。またドーズ案の成立後、アメリカ資本の導入と合理化によってドイツ経済は再建され、まもなく戦前の水準に達した。それに伴い24年12月の総選挙では、ワイマール連合が議席を回復し、文化も「黄金の20年代」にふさわしい活況をみせ始めた。しかしインフレと合理化によって地位を固めた大資本の影響力は強く、25年エーベルトの死後に行われた大統領選挙では、保守派の推す大戦中の「英雄」ヒンデンブルクが当選、政府もしだいに保守色を強めた。その後、28年5月の総選挙では社会民主党と共産党が進出したが、ワイマール連合はなお過半数を制することができなかったため、社会民主党のヘルマン・ミュラーは人民党をも含む不安定な内閣を組織しなければならなかった。
[松 俊夫]
1929年6月、ドーズ案にかわってヤング案が提出されると、右翼は一斉に激しい反対運動を展開し、なかでもヒトラーの活動は一躍国民の注目をひいた。この間、同年10月、アメリカで恐慌が起こると、アメリカ資本に依存してきたドイツ経済は大きな影響を受け、財政難に陥ったミュラー内閣は30年3月辞職した。そのあとブリューニング、パーペン、シュライヒャーの各内閣が成立したが、いずれも議会に基礎をもたない「大統領内閣」で、もっぱら大統領の緊急令に依存して局面の打開を図ろうとした。しかし恐慌の様相はますます深刻化し、32年には失業者数が600万を超える状況に達した。すでに30年9月の総選挙で、ナチス党は恐慌に悩む中間層の支持を受けて大幅に躍進していたが、一方、共産党も著しく進出したため、これを警戒した大資本や大地主はしだいにナチス党の支持に傾いた。その結果、32年4月の大統領選挙では、ヒトラーはヒンデンブルクに迫る票数を獲得、さらに同年7月の総選挙でもナチス党が圧勝した。これに対して社会民主党と共産党は相互の不信感から統一戦線を組みえず、また同年11月の総選挙でナチス党が一時後退した機会をとらえることもできなかった。このような情勢のなかで、33年1月、大統領ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命し、ここに共和国はその短い歴史を閉じたのである。
[松 俊夫]
『ローゼンベルク著、吉田輝夫訳『ヴァイマル共和国史』(1970・東邦出版社)』▽『村瀬興雄著『ドイツ現代史』(1954・東京大学出版会)』▽『林健太郎著『ワイマル共和国』(中公新書)』▽『脇圭平著『知識人と政治』(岩波新書)』▽『栗原優著『ナチズム体制の成立』(1981・ミネルヴァ書房)』
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…こうして,ロシア革命の衝撃下におかれた西ヨーロッパ世界では,〈左〉からするコミュニズムの切迫感と,それに対抗しようとする〈右〉からの独裁を主張する勢力の拮抗のなかで,〈左〉〈右〉両側からの,議会制民主主義への批判・弾劾がつよまった。そうしたなかで,ワイマール共和国期のドイツでは,ひときわはげしく議会制論がたたかわされた。カール・シュミットは,〈議会制〉と〈民主主義〉のむすびつきをきりはなし,それどころか,その二つを相互排斥的なものとして位置づけ,議会主義への信念は民主主義でなく自由主義の思想界に属するとし,民主主義の名において議会主義を否定した。…
※「ワイマール共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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