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アルマグロ アルマグロ Almagro, Diego de

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アルマグロ
アルマグロ
Almagro, Diego de

[生]1475. スペインレアル付近
[没]1538.4.25. クスコ
スペインの探検家,ペルーの征服者。 F.ピサロと協力してインカ帝国を征服後チリ遠征を行なったが失敗,1537年ペルーへ帰り,ピサロと争って敗れ処刑された。

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デジタル大辞泉の解説

アルマグロ(Almagro)

スペイン、カスティーリャ‐ラ‐マンチャ州南部の町。13世紀、レコンキスタを戦ったカラトラバ騎士団の本拠地が置かれ、16世紀にフッガー家アルマデン水銀鉱山の採掘権を得て居住した。マヨール広場は同国きっての美しさで知られる。毎年7月に国際的な古典演劇祭が催される。

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世界大百科事典 第2版の解説

アルマグロ【Diego de Almagro】

1480?‐1538
スペイン人コンキスタドール。1514年ペドラリアスダビラの率いるカスティリャ・デ・オロ(現,パナマおよびコロンビア北岸)への遠征に参加。パナマでF.ピサロらとともにペルー征服を企てた。インカ皇帝アタワルパの処刑後,ハウハ,クスコへ進撃。34年500名の部下を率いてチリへ遠征したが失敗した。クスコに帰還後,管轄区域等をめぐってピサロと対立し,38年4月ラス・サリナスの戦でピサロ軍に敗れ,同年7月処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アルマグロ
あるまぐろ
Diego de Almagro
(1464/1475―1538)

スペインのコンキスタドレス(征服者)。シウダド・レアル近くのアルマグロで拾われた捨て子で、地名を姓とした。のちパナマに赴き(1515)、1522年ピサロの探検に加わり、ペドラリアス・ダビラと協力(1524)、エルナンド・デ・ルーケとともにピサロのペルー征服を助けた(1533)。彼はピサロと結局は不和になるが、それまでの協力で1534年カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー南の領地のアデランタード(太守)を命じられた。1535~1536年にチリ遠征を企てたが、この地は金がとれず不毛で、また原住民の反抗にあって失敗、ピサロに反逆してクスコに進撃したが、ピサロの弟エルナンドに破れ、同地で処刑された。アルマグロには原住民との間に1子ディエゴ(同名)があり、父ディエゴの処刑後その残党とともにピサロを虐殺、その復讐(ふくしゅう)を果たしたが、1542年、彼もまた本国から派遣されたクリストーバル・バーカ・デ・カストロに斬首(ざんしゅ)された。[飯塚一郎]

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