パナマ(読み)ぱなま(英語表記)Republic of Panama 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パナマ」の意味・わかりやすい解説

パナマ(国)
ぱなま
Republic of Panama 英語
República de Panamá スペイン語

中央アメリカ東端、南北アメリカ大陸を結ぶパナマ地峡を占める国。正称はパナマ共和国República de Panamá。北はカリブ海、南は太平洋に面し、東はコロンビア、西はコスタリカに接する。中央部に地域を貫通するパナマ運河がある。面積7万5517平方キロメートル(運河面積を含む)、人口328万4000(2006年推計)、340万5813(2010年センサス)。首都はパナマ市。

[今野修平]

自然

パナマの国土は、北緯9度線と西経80度線がほぼ中央を走り、南北アメリカ大陸がもっとも狭くなった地峡部を占めている。コルディエラ造山褶曲(しゅうきょく)帯による褶曲山脈が、東西を長軸にする緩いS字型に湾曲している部分にあたり、北のカリブ海にモスキトス湾、南の太平洋にパナマ湾を形成している。パナマ湾の西側はアスエロ半島が南に突き出し、その西にコイバ島が浮かぶ。国土の骨格をなす褶曲山地はパナマ運河地帯を鞍部(あんぶ)として、東西両方向へ高さを増している。コスタリカ国境に近い西部地域は標高1000メートル以上の高地となり、最高峰はチリキ火山(バルー火山。3475メートル)である。最大幅150キロメートル程度の細長い国土の中央を脊梁(せきりょう)山脈が走るため、大きな河川には恵まれない。コロンビア国境に近い東部地域やカリブ海沿岸の低地帯は雨量が多く、深い熱帯雨林に覆われて人口希薄の所が多い。西部太平洋岸は乾期(1~4月)もあり、アスエロ半島と鞍部の中央地帯がおもな居住地域となっている。

[今野修平]

歴史

1501年スペイン人ロドリゴ・デ・バスティーダスRodrigo de Bastidasがパナマ地峡を「発見」。1502年、コロンブスの第4回(最終回)航海でモスキトス湾岸が探査され、1510年には早くも東部のダリエン湾岸にスペインの植民地が建設された。1513年にはダリエンの知事・探検家バルボアが地峡部を越えて太平洋岸に達し、アメリカ大陸の交通の要衝として注目されるに至った。1519年にはパナマ市の地に植民地が建設され、またコロン北東のポルトベロに港湾がつくられ、パナマはスペインが南アメリカに植民する基地としての役割を果たした。1821年には、スペインから独立した大コロンビア連邦共和国の一州として植民地支配から脱した。19世紀中ごろ、アメリカのカリフォルニアで金鉱山が開発されると、アメリカの東部と西部を結ぶ交通路として、パナマ地峡が大きな注目を集め、1855年にはカリブ海岸と太平洋岸の間に地峡横断鉄道が完成した。1881年にはフランス運河会社がレセップスの指導で運河建設に着手したが失敗した。その後を継いだアメリカ政府は、運河建設にかかわる条約の締結をコロンビアに拒否されたため、利害の一致するパナマ地峡住民の独立運動を援助し、その結果、1903年11月パナマ共和国として独立が達成された。

 独立後、アメリカはパナマと運河条約を締結し、運河の両側各8キロメートルの地帯(パナマ運河地帯)の永久租借権、治外法権、武力干渉権を確保し、1914年にパナマ運河はアメリカによって完成した。パナマ運河の建設は、資金や人口の流入などによりパナマの経済の発展を促し、とくに運河の入口に位置するパナマ市の繁栄をもたらした。しかし、独立後のパナマの政情は不安定で、1930~1960年代にいくつかの政権が交代した。この間、運河条約に典型的に示されているアメリカの植民地的支配に反対する運動が広がった。

 1968年の軍部のクーデター後実権を握ったオマール・トリホス将軍は運河条約の改定交渉に乗り出し、1977年には新パナマ運河条約が締結され、アメリカは1999年12月31日をもってパナマ運河を全面的にパナマに返却することになった。1981年トリホスが航空機事故で急死、その後司令官ノリエガManual Antonio Noriega Moreno(1934―2017)が軍政をしいたが、1989年末アメリカが軍事侵攻し、1990年には麻薬密輸の容疑でノリエガを逮捕した。1994年に大統領選挙が行われ民主革命党(PRD=Partido Revolucionario Democrático)のバジャダレスErnesto Pérez Balladares Gonzálezが当選して政情は落ち着いた。大統領の連続再選は禁止されており、1999年の大統領選挙ではアルヌルフィスタ党(現、パナメニスタ党)のミレヤ・モスコソMireya Elisa Moscoso de Ariasが当選し、パナマでは初の女性大統領となった。パナマ運河は新運河条約の下、1999年12月31日に返却された。また同年11月には独立以来駐留していたアメリカ軍基地13も返還され、アメリカ軍は全面撤退した。

[今野修平]

政治・外交

政体はアメリカに倣った立憲共和制である。政治の実権は、かつては他のラテンアメリカ諸国と同様、地主をはじめとする一部の富裕階級の手に握られていた。1968年の軍部のクーデター以後、軍が有力な政治勢力となり、軍主導で政治が展開されたが、1983年の憲法改正を経て、民政確立の道を歩んでいる。1989年のアメリカ軍侵攻、翌1990年のノリエガ逮捕といった混乱もあったが、1994年の大統領選挙以降、大きな混乱はない。

 政体は内閣の首班でもある元首の大統領、これを補佐する副大統領を頂点とする行政府、71議席の一院制議会、三審制の司法で構成され首相はいない。政党はパナメニスタ党(PP=Partido Panameñista)20議席、民主変革党(CD=Cambio Democrático)18議席、民主革命党(PRD)26議席(議席数は2011年8月時点)等があり、2009年の大統領選挙で野党連合のリカルド・マルティネリRicardo Alberto Martinelli Berrocal(1952― )が当選、約40年間続いたPRDとPPによる二大政党政権交代の構図が崩れた。

 外交の基本は国連中心の全方位外交であり、国連加盟は1945年。台湾との外交関係を維持し、2010年パナマを含む中米6か国はヨーロッパ連合(EU)と自由貿易協定(FTA)の締結に最終合意した。

 外交の素地となる国民感情はアメリカの植民地支配に対する反米感情も一部で根強い反面、パナマ運河が経済的な中心であるだけにアメリカとの関係は多面的で深いものがある。軍隊は1989年のアメリカ軍侵攻により1990年に解体、1999年のパナマ運河の正式返還に伴いアメリカ軍基地も閉鎖され、これにかわって国家保安隊が編成された。国家保安隊は国家警察隊(約1万1000人)、海上保安隊(約600人)、航空保安隊(約400人)からなり、治安予算は2億6900万ドルである(2009)。

 2009年に策定された国家5か年計画(2010~2014)によると、流通、観光、農業の3分野を、今後の経済を担う重要な分野としてインフラ整備や政策立案・組織強化等を進め、また社会問題の解決を図るために教育・産業分野の人材育成を進めるとしている。

[今野修平]

経済・産業

パナマ経済は、建国以来パナマ運河を中心とする西半球の通商センターとしての地理的位置を、最大の経済基盤としてきた。そのためパナマ運河、港湾、コロン自由貿易地域(パナマ運河の大西洋側出入口コロンの一角)を中心とする第三次産業がGDP(国内総生産)の約75%を占める(2008)。これにパナマ運河関係の収入を加えると、約80%に達し、消費財の大半を輸入に依存して国民生活を成り立たせている。そのため、他のラテンアメリカ諸国と比べると農林水産業や工業が脆弱(ぜいじゃく)で運輸、金融、商業、観光のサービスを主体にするきわめて特異な経済であるが、GDPが230億9000万ドル(2008)、1人当りGNP(国民総所得)6180ドルとラテンアメリカでは高い水準を示してきた。

 経済成長率は2004年以来年7%を超え、2007年には11.5%に達した。世界経済危機の影響もさほど深刻でなく、2009年の経済成長率は2.4%であった。しかし産業間所得格差は大きく、国土利用でも地域格差が生じて、パナマ市中心の大都市圏に集中した産業立地と近隣諸国も含めた地方からの激しい人口流入が課題となっている。この基本的経済体質を活用し、かつ弱点克服を期待して1953年に設立されたコロン自由貿易地域は1600社に達する外国企業が進出する世界有数の中継貿易センターに発展し、パナマの国民経済を支える主役となり、流通加工化もあって工業発展の道も切り開いてきた。

 第一次産業の主要産品は米とサトウキビで漁業ではエビの生産が多く、近年はバナナ、コーヒー、パイナップルが輸出能力を高め、総輸出額(FOB)の約15%に達するようになった(2008)。農林水産品の輸出能力は小さいが食料自給率は低くなく、畜産は西部サバナ気候地域で肉牛の生産がなされている。国内市場が小さいことが第一次産業、第二次産業ともに発展の阻害要因の一つであり、運河やコロン自由貿易地域のもつ通商センター機能を活用して外国の市場・資本と結びついた発展が基本条件となってきた。コロン自由貿易地域に次ぐ第二の戦略プロジェクトは、1970年の国際金融センターの開設で、順調に成長して1990年代末には金融機関数は126行に達し、外貨導入および輸出志向工業の振興政策と結びついてコロン自由貿易地域との相乗効果をもたらしている。第三の戦略プロジェクトは、急進展した世界のコンテナ輸送で狭隘(きょうあい)化したパナマ運河の拡張工事である。かねてより日本、アメリカ、パナマを中心に第2パナマ運河構想等が検討されていたが、2006年パナマ運河の拡張の是非を問う国民投票が実施され、圧倒的な多数で承認された。これまでの水門にほぼ並行する形で新たな接続航路と3段式水門を建設することが決定し、2007年に起工、運用開始は2016年6月になった。水深12メートル、幅員33.4メートルのドックが、水深15.2メートル、幅員55メートルに拡幅増深され、コンテナを約1万3000個積むことができる(2012年時点では4500個積み)大型コンテナ船の通航が可能となり、世界の海上交通地図を大きく変えることになる。

 2010年度のパナマ運河の年間通航船舶数は1万4230隻、通航収入は14億8209万ドル、貨物量2億0482万トン。東アジア経済の活性化を反映して徐々にアジア出入貨物が増えている。このほかに、パナマ市郊外にある国際空港では南北アメリカ航空路の中継基地機能と中米・カリブ海地域のハブ空港としての機能拡充強化を進めており、国際交通の拠点強化をして通商センター、金融センターと重ね合わせて中枢機能の盤石化を図っている。

 地峡部には横断道路と横断鉄道があるが、最大の基幹道路であるパン・アメリカン・ハイウェーはパナマ市の東250キロメートルの国境近くでとぎれて未通区間を残しており、コロンビアには抜けられない。今後は渋滞化が進む大都市圏での交通整備が課題で、着工している地下鉄建設への期待が大きい。

 財政は歳入の伸び悩みと内外債務の金利支払いに追われているが、経済成長率は公共事業投資や大都市圏への経済集積による旺盛(おうせい)な都市需要にも支えられ高い水準を維持している。歳出は教育費がもっとも多く、政策的に教育の向上が重視されている。貿易は輸入超過で、おもな輸出品目は農水産品、衣料、おもな輸入品目は石油、工業製品、消費財である。貿易相手国はアメリカと近隣諸国が多く、入国者、観光客の流入も同様である。使用通貨はバルボア。

[今野修平]

社会・文化

住民の70%はメスティソ(混血)で、ほかに黒人14%、白人9%および30万人弱の先住民族がいて、先住民自治区が5地区設定されている。

 公用語はスペイン語、宗教はキリスト教のカトリック教徒が多数を占める。識字率は政府の努力もあって高く95%を超えるが、農村部は都市部よりも非識字率が高い。教育施設は高校が574(公立369、私立205)、大学が34(国公立5、私立29)あり、年々卒業生が増加している。そのほかに職業訓練センターが35ある(2007)。

 パナマはスペイン人によるアメリカ大陸植民の最初の基地となったこともあり、16世紀に建設されたスペイン都市跡地(パナマ・ラ・ビエハ)、パナマ旧市街地、ポルトベロ要塞(ようさい)群の世界文化遺産や先住民村など国際観光文化資源に恵まれ、注目を集めている。

[今野修平]

日本との関係

日本とは1904年(明治37)に国交を樹立し、1962年(昭和37)相互に大使館を開設している。中継貿易の関係で、日本にとってパナマは中米諸国のなかで最大の貿易相手国となっている。日本にとってパナマ運河の存在は大きく、2007年(平成19)10月から2008年9月までのパナマ運河通過貨物量の発着国比率をみると、日本はアメリカ、中国、チリに次いで第4位となっている。このため第2パナマ運河構想の検討等パナマ運河の機能拡充分野を中心に1980年代より技術協力、経済援助等が進められ、対パナマ経済協力実績でもアメリカ、スペインに次いで第3位となっている(2004~2007)。また、日本の船舶登録の約70%がパナマ籍船で、このためパナマの日本からの輸入には便宜置籍船(事実上の船主の所在国とは異なる国に籍を置く船)が計上されていることもあり、輸入額が統計上日本への輸出額の615倍にもなるという極端な輸入超過となっている。最近ではパナマ運河拡張や首都圏の都市建設需要に支えられ、日本からショベルカー、ブルドーザー類などの建設機械の輸入が急増している(2008)。

 日本在住のパナマ人はわずか64人(2009)で、中米6か国ではもっとも少なく文化交流も盛んとはいえない。パナマ政府の国家5か年計画(2010~2014)とも絡み、今後の課題といえよう。ラテンアメリカ諸国のなかでも、ブラジル、メキシコに次いで日本企業の進出が多いが、1980年以降は減少傾向が続いており、現地の日本人学校の生徒数も減少している。

[今野修平]

『日本貿易振興会編・刊『パナマ』(1984)』『国本伊代・小林志郎・小沢卓也著『パナマを知るための55章 エリア・スタディーズ』(2004・明石書店)』『小林志郎著『パナマ運河拡張メガプロジェクト』(2007・文眞堂)』



パナマ(市)
ぱなま
Panamá

中央アメリカ、パナマ共和国の首都。パナマ湾に面し、パナマ運河の太平洋側入口近くに位置する。人口46万3093(2000)。パナマ運河地帯に入り込んでいるが、衛生、検疫を除きパナマの主権下にある。ラテンアメリカの他国の首都と異なり、標高が低いため高温多湿で、最高気温は各月とも30℃を超え、平均気温も27℃前後で年間の温度変化はほとんどない。雨期には午後に大粒のスコールが降り、赤色の表土を溶かした水が街路にあふれ、豪雨のため都市機能が停止するほどである。1519年に建設され、スペインのラテンアメリカにおける植民地支配の拠点となったが、1671年イギリスの海賊によって破壊され廃墟(はいきょ)と化した。1674年旧市街地の東方10キロメートルの現在地に再建され、カリブ海沿岸のコロンに通じる鉄道の開通やパナマ運河の建設によって急速に発展し、1903年首都となった。台地上の山の手地区は並木のある街路が整ったスペイン風の町並みが残る歴史地区で、政庁、大統領官邸、教会、商社や高級住宅街がある。ここには南アメリカ独立運動の指導者シモン・ボリーバルの会議場(サロン・ボリーバル)が残っており、歴史地区とともに1997年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。低地の下町は密集した市街地で、社会資本の整備も立ち遅れている。国際運河、国際空港、国際金融センター、国際賭博(とばく)場などの施設が集積する国際都市である。

[今野修平]



パナマ(繊維)
ぱなま
panama

中南米に産するパナマソウの葉を細かく裂き漂白したもので、これを繊維に使い織成または編組(へんそ)して生地(きじ)とし、帽子、座ぶとんなどをつくる。この模造品に三角藺(い)(台湾産のパナマ帽子の原料で、本パナマの模造品として使われた)を使ったものや紙製のものもある。

 また、梳毛(そもう)織物の一種で、経(たて)に綿糸、緯(よこ)に梳毛糸を使い、平織または斜子(ななこ)織とし、外観をパナマ帽子の生地に類似させたものがある。軽快な風合いをしていることから、夏のドレス地、スーツ地などに使われる。

[角山幸洋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パナマ」の意味・わかりやすい解説

パナマ
Panamá

正式名称 パナマ共和国 República de Panamá。
面積 7万4177km2
人口 434万8000(2021推計)。
首都 パナマ市。

中央アメリカ南東部にある国。南北アメリカ大陸を結ぶ地峡部の南東端,パナマ地峡を占める国で,西はコスタリカ,東はコロンビアと国境を接し,北はカリブ海,南は太平洋に面する。国土はパナマ運河により東西にほぼ2分される。地形は山がちで,西部中央を東西に延びるタバサラ山脈が脊梁山脈をなし,東部ではカリブ海沿岸にサンブラス,ダリエン両山脈が連なる。最高峰はチリキ火山 (3475m) 。海岸平野は幅狭く,比較的広い平野はパナマ湾東岸にある程度である。気候は概して高温多雨で,年間を通して降水をみるカリブ海沿岸と高い山地以外では,通常1~4月に明瞭な乾季が現れる。 16世紀スペイン人が地峡部に入ったときはインディオのクナ族,グアイミ族,チョコなどの部族が住んでいたが,その後スペイン人や奴隷として連れてこられた黒人との間で混血が進み,現在住民の大半はメスティーソ,あるいはムラットと呼ばれる混血である。公用語はスペイン語で,ローマ・カトリック教徒が 80%を占めている。バルボアによる太平洋発見以来,この地峡部はスペインによる南アメリカの征服,支配,統治の大動脈となり,物資の交易路として繁栄。 1821年いったんスペインから独立したが,数ヵ月後大コロンビアの一州となり,1903年パナマ運河開設に際してコロンビアから分離,独立。アメリカ合衆国はただちにこの独立を承認し,運河条約を締結,運河地帯を永久租借地として獲得。 1914年運河開通。 1964年パナマ国旗事件から暴動が起こり,運河返還の国民運動が高揚。 1977年に有効期限を 1999年末とする新運河条約が結ばれ,運河地帯は 1979年 10月に,パナマ運河は 1999年 12月 31日をもって返還された。 1983年以来ノリエガ将軍が国政の実権を握っていたが,1989年アメリカ合衆国軍がパナマに侵攻,翌年ノリエガは合衆国に身柄を引き渡された。国内総生産に占める割合は次第に低下してきているが,農業が依然として経済の主柱で,バナナ,砂糖,コーヒー,カカオが主要輸出品となっている。主要作物はほかにイネ,トウモロコシ,豆類,オレンジなど。林産資源は豊かであるが,大部分未開発。漁業は近年急速に発展,エビは重要な輸出品である。工業は農産物加工が中心で,ほかに石油精製,セメント,製紙,繊維,製靴などの工業が立地。貿易収支は慢性的に大幅な入超であるが,運河およびコロン自由貿易地区からの収入や,船舶の便宜置籍制による収入で一部補填されている。主要交通路は運河に沿ってパナマ市とコロンを結ぶ鉄道,道路,コスタリカから東へ国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェー,西部のチリキ鉄道。

パナマ
Panamá

パナマの首都。またパナマ州の州都。パナマ中部南岸,パナマ湾に面する都市で,パナマ運河の太平洋側の出入口の近くに位置する。旧市は 1519年,インディオの漁村があった地にスペイン人によって建設され,この地方の中心地とされ,交易物資の中継地として繁栄。アンデス地方の財貨はまず海路で市に運ばれ,ここから陸路パナマ地峡を横断,カリブ海沿岸のノンブレデディオスやポルトベロへ運ばれ,そこからスペインに向け積み出された。 16世紀後半以降しばしばイギリスの海賊に襲撃され,しだいに衰退,1671年ヘンリー・モーガンにより完全に破壊された。 1674年西約 10kmの現在地に新しい町が建設されたが,あまり発展せず,1751年ヌエバグラナダ (コロンビア) 領に編入された。 19世紀には政治的混乱の舞台となり,1903年パナマ共和国のコロンビアからの独立が市で宣言されるとともに,その首都となった。その後,特にパナマ運河開通 (1914) 後急速に発展。港湾機能は西のバルボアに移ったが,市内にはビール醸造,石油精製,製鋼,縫製,木材加工などの工業が立地。市街は大部分近代化されているが,17世紀の大聖堂や広場など,植民地時代の面影が残る旧市街は,旧市遺跡とともに 1997年世界遺産の文化遺産に登録。パナマの教育・文化中心地で,国立パナマ大学 (1935) ,サンタ・マリア・ラ・アンティグア大学 (1965) ,国立博物館,国立劇場,熱帯・予防医学研究所などがある。また交通の要地で,運河,パナマ鉄道,地峡横断道路によりカリブ海側の主要港コロンと結ばれるほか,パンアメリカン・ハイウェーにより国内主要都市と連絡。近郊にトクメン国際空港がある。人口 43万299(2010)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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