スペイン人コンキスタドール(新大陸征服者)。1502年,インディアスへ渡り,13年太平洋を〈発見〉したバルボアの遠征に加わった。ペルラス諸島に滞在中,ビルーもしくはペルーという名の金の豊かな国の情報を得て遠征計画を抱く。パナマで司祭エルナンド・ルケ,ディエゴ・デ・アルマグロと組んで計画の実行に着手。24年と26年の2度にわたり予備調査を行い,トゥンベスにまで進む。27年末パナマに戻り,インカ帝国征服の許可を総督ペドロ・デ・ロス・リオスに求めるが拒否される。そこで,国王の許可を得る目的でスペインへ向かい,29年7月,トレドにおいて国王と協定を締結し,ヌエバ・カスティリャ(ペルー)の総督に任命される。このおり,エルナン・コルテスに会う。生地トルヒーリョでエルナンドやゴンサロらの兄弟に征服参加を勧め,彼らとともにパナマへ向かう(1530年1月)。
31年1月,3隻の船,180余名の部下を率いてパナマを出帆し,トゥンベスに上陸後サン・ミゲル・デ・ピウラを建設。インカ帝国が皇帝位をめぐる嫡子ワスカルと庶子アタワルパの争いで二分されている状況を利用しつつ進軍し,32年11月カハマルカに到着。同地で会見に来たアタワルパを捕らえ,1万以上ものインディオを殺害。大量の金銀財宝を釈放の身代金として手に入れたのち,アタワルパをワスカル殺害,偶像崇拝などの理由で処刑(1533年8月)。このころ,遅れてペルーに到着したアルマグロ麾下の兵士たちは戦利品の分配をめぐってピサロ派の兵士と対立しはじめる。傀儡(かいらい)皇帝にアタワルパの子トパルカを選びインカ帝国の首都クスコへ進軍。トパルカ死亡後,ワスカルの弟マンコを皇帝として33年11月クスコに入り,翌年市制をしく。インカ帝国を滅ぼしクスコを掌握したとはいえ,敵対するインディオの大軍に囲まれていたため,パナマなどスペイン人居留地との接触がとりやすい海岸地方に町を建設する必要を痛感し,〈諸王の都Ciudad de los Reyes〉(現,リマ市)を建設(1535年6月)。一方,チリへ遠征したものの失望して戻ってきたアルマグロがクスコの領有権などをめぐってピサロと公然と対立するようになった。38年ピサロは4月のサリナスの戦でアルマグロを破って彼を処刑。これを契機にスペイン人どうしの内乱が始まった。41年6月,ピサロはアルマグロの遺子に暗殺されるにいたり,ペルーはますます混乱を極め,インディオもマンコを領袖として反乱を起こし,ペルーが政治的に安定するのは第5代副王フランシスコ・デ・トレドの時代(1569-81)のことである。
ピサロは無学文盲であったが,軍人としては優れた才能を有した人物であった。インディオの改宗化や文明化にはコルテスほど関心を払わなかったため,コルテスより低く評価されているが,インカ帝国の征服はコルテスのアステカ征服と同じように同時代および後世に大きな影響を与えた。
執筆者:染田 秀藤
フランス印象派の画家。アンティル諸島のセント・トマスに生まれる。少年のころに教育のためパリに来て美術に触れ,この道を歩む決意をする。1855年に父を説得して再びパリに出,万国博覧会でG.クールベに衝撃を受け,J.B.C.コローに心酔する。アカデミー・シュイスでC.モネと出会い,まもなく後の印象派グループに合流する。当時暗い人物画を描いていたP.セザンヌと親しくなり,彼に戸外の光を教え風景画へと目覚めるきっかけを与える。ポントアーズ時代(1872-82)は,茶,緑,赤などの不透明な色彩で堅固で落ち着きのある力強い風景画を残し,その空間処理はセザンヌ,P.ゴーギャン,M.カサットなど色面に関心をもつ画家たちに影響を与えた。続くエラニー時代(1884-1903)は,新たな技法に対する関心によってはじまった。G.P.スーラ,P.シニャックなどの新しい点描主義が彼をとらえ,50歳を過ぎて名声も安定しかけたというのに,息子リュシアンLucien Pissarro(1863-1944)とともに30歳近くも年下の若者らに交じって制作,発表する。第8回印象派展(1886)は,ピサロがこうした後期印象派,新印象派の画家たちを仲間に入れたため,モネら創立以来のメンバーは手をひき,新世代誕生を告げる展覧会となった。しかし点描技法という,このあまりにも科学的で理論的な方法はときに彼をいらだたせ,90年ころには以前の自由な描法にもどった。モネが《ポプラ》や《積みわら》の連作をはじめた少し後に,彼も同一モティーフを繰り返し描くことをはじめ,なかでも俯瞰構図をとった都市風景は,鮮やかな構図と都市(パリ,ルーアン)のさまざまな場所のにぎわいを描いた点で,たとえば彼の好んだ広重の版画《名所江戸百景》にも比べうる作品である。制作の幅は広く,新しい技法に対するたえざる関心に支えられ,油彩,水彩,素描,銅版,木版,石版など,さまざまな技法による多くの作品を世に残した。彼は思想的にはアナーキズムの立場をとり,直接政治的なにおいのする主題は選ばなかったが,労働者の姿も多く描いている。
執筆者:馬渕 明子
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インカ帝国の征服者。スペインのエストレマドゥーラ地方トルヒーヨの生まれ。父ゴンサロ・ピサロ、母フランシスカ・モラレスで、彼は庶子。1498~1502年にかけて対仏イタリア戦役に出たのち、1502年ニコラス・デ・オバンド総督の赴任航海で新大陸へ渡り、パナマの大西洋岸地方(ティエラ・フィルメ)に移る。ここでバルボアと出会い、太平洋の「発見」をともにしたのち、パナマを拠点にして南の陸地を探検し、黄金に富むというペルーの存在を確認した。そこで司祭エルナンド・ルーケと、ディエゴ・デ・アルマグロを共同事業者に誘い、ペルー征服を企てた。
1529年本国でカルロス5世から征服の権利と褒賞の約束を取り付けたのち、1531年初め、故郷から連れ帰った異母兄弟エルナンドHernando Pizarro(1475?―1578)、フアンJuan Pizarro(1500?―36)、ゴンサロGonzalo Pizarro(1506?―48)の3人ら185人の仲間と、馬37頭を率いて、パナマを出港した。サン・マテオ島で騎馬隊を下船させて陸路をとらせたあと、トゥンベスまで南下し、サン・ミゲル・デ・ビウラを建設した。その後インカ皇帝アタワルパを追って南進し、1532年11月15日カハマルカの地でアタワルパと会見した。この場で従軍司祭バルベルデが差し出した聖書を皇帝が地面に投げ捨てたのを機に、騎馬隊を先頭にしてインカ軍に攻撃をしかけ、アタワルパを生け捕りにした。身代金として莫大(ばくだい)な量の金銀を受け取ったにもかかわらず皇帝を解放せず、逆にアタワルパが嫡子である兄ワスカルを殺害したという罪で処刑し(1533.7.26)、1533年11月15日クスコに入城し、1535年1月18日新首都「諸王の都(リマ)」を建設した。
征服後、ピサロとアルマグロはそれぞれの領地、とりわけクスコの支配権をめぐって対立した。征服直後のペルーは、ピサロ派とアルマグロ派に分かれて内戦状態となり、ピサロは1541年6月26日アルマグロ派の乱入によってリマで殺害された。
[青木康征]
『ヘレス著、増田義郎訳『ペルーおよびクスコ地方征服に関する真実の報告』(『大航海時代叢書 征服者と新世界』所収・1980・岩波書店)』
フランスの画家。生涯の大半をフランスで過ごした印象派を代表する1人だが、国籍は終生デンマークであった。7月10日、フランス系ユダヤ人を両親に、当時デンマーク領のアンティーユ諸島サン・トマ島に生まれる。若くしてフランスに渡り、1855年絵画修業のためパリに出、コロー、クールベ、ドービニーらから大きな影響を受けた。59年から70年の間、何度かサロンに入選するが、63年の落選展にも参加している。70~71年のプロイセン・フランス戦争の間はロンドンに渡り、同じくロンドンにきたモネとともにコンスタブルやターナーの作品に触れて、深い感銘を受ける。
帰国後の1872年からはポントアズに居を構え、印象主義の様式で大地の風景を描く。ピサロは74年から86年まで8回開かれた印象派展のすべてに参加した唯一の画家であり、第1回展のための規約を草する労を引き受けるなど、組織化にはきわめて熱心で、しばしばグループ内に生じた亀裂(きれつ)の修復にも腐心した。70年代末から彼の絵のなかでは農民がしだいに重要な位置を占めるようになり、また版画の制作にも取り組んだ。85~90年の間、若いスーラの感化を受けて新印象主義の手法で描いたが、それはひとつにはそれまでのピサロの描法の論理的な展開でもあった。しかし、晩年はふたたび印象主義の描法に戻り、84年来居住するエラニーで田園の主題に取り組む一方、パリ、ルーアン、ディエップなどで都会の風景を描いた。1903年11月12日パリで没。ピサロはクロポトキンやエリゼ・ルクリュなどのアナキストの著述にも通じており、こうした彼の政治思想がその芸術を貫く重要な要素の一つとも考えられている。代表作には『赤い屋根』(1877)など。
[大森達次]
『ジョン・リオルド著、平沢悦郎訳『ピサロ』(1968・美術出版社)』▽『シャルル・キュンストレル著、谷本和彦訳『印象派の巨匠たち3 ピサロ』(1975・小学館)』
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1478頃~1541
南スペイン,トルヒリョ生まれのインカ帝国の「征服者」。1502年スペインからエスパニョラ島に渡る。24年からコロンビアの太平洋岸を探検し,内陸部に高度な文明の存在を知った。31年180人の兵士を率いてペルー北部のトゥンベスに上陸,インカの内紛に乗じて32年インカ皇帝アタワルパを捕え,33年首都クスコに進軍してインカ帝国を滅ぼし,35年「諸王の都」(現リマ)を建都した。支配地をめぐる争いで協力者であったアルマグロを殺し,その残党に暗殺された。
1830~1903
フランスの画家。マネやモネと交友があり,影響を受けて印象派の画風となった。田園生活を愛し田園風景を情趣豊かに描いた。セザンヌとも親交があり影響を与えた。主作品「ルーアンの道」「パリ風景」。
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…(3)主題 主題の選択においては,一世代前の写実主義の画家たちが宗教画,神話画,歴史画に背を向けたのを受けて,彼らは特に同時代の風俗や,肖像,静物といった市民的なジャンル,身辺のありふれた風景などをその主題として取り上げた。
[グループ展]
印象派のグループとなる画家たちが知り合ったのは,1863年ころグレールCharles Gleyre(1806‐74)のアトリエ(モネ,シスレー,ルノアール,バジール)であり,それにアカデミー・シュイスAcadémie Suisseでかねてからモネと知り合っていたピサロ,セザンヌが合流した。ピサロを通じてモリゾも参加し,彼らはマネやバジールのアトリエ,またブラッスリー・デ・マルティール,ゲルボア,ヌーベル・アテーヌといったカフェで出会い,批評家たちとも親交を結び,戸外に制作に出かけるなど,しだいにグループを形成していった。…
…したがってスペイン本国の新大陸に対する依存度はますます高まったのである。
[第3期 1530‐95]
この時期スペインの新大陸における征服活動のなかで最も目ざましいのは,フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服(1531‐32)である。新大陸の〈征服〉の時代はほぼこれで終わり,以後はメキシコとペルーの副王を頂点とする中央集権的な植民地統治の時代に入るのである。…
…晴天日数は少なく,曇天の日が多い。 インカ帝国を滅ぼしたF.ピサロは,植民地支配のため1535年にリマを建設した。以後南アメリカ諸国の独立にいたるまで,リマはスペインの南アメリカ植民地支配の中心地となった。…
※「ピサロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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