日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピサロ」の意味・わかりやすい解説
ピサロ(Francisco Pizarro)
ぴさろ
Francisco Pizarro
(1476―1541)
インカ帝国の征服者。スペインのエストレマドゥーラ地方トルヒーヨの生まれ。父ゴンサロ・ピサロ、母フランシスカ・モラレスで、彼は庶子。1498~1502年にかけて対仏イタリア戦役に出たのち、1502年ニコラス・デ・オバンド総督の赴任航海で新大陸へ渡り、パナマの大西洋岸地方(ティエラ・フィルメ)に移る。ここでバルボアと出会い、太平洋の「発見」をともにしたのち、パナマを拠点にして南の陸地を探検し、黄金に富むというペルーの存在を確認した。そこで司祭エルナンド・ルーケと、ディエゴ・デ・アルマグロを共同事業者に誘い、ペルー征服を企てた。
1529年本国でカルロス5世から征服の権利と褒賞の約束を取り付けたのち、1531年初め、故郷から連れ帰った異母兄弟エルナンドHernando Pizarro(1475?―1578)、フアンJuan Pizarro(1500?―36)、ゴンサロGonzalo Pizarro(1506?―48)の3人ら185人の仲間と、馬37頭を率いて、パナマを出港した。サン・マテオ島で騎馬隊を下船させて陸路をとらせたあと、トゥンベスまで南下し、サン・ミゲル・デ・ビウラを建設した。その後インカ皇帝アタワルパを追って南進し、1532年11月15日カハマルカの地でアタワルパと会見した。この場で従軍司祭バルベルデが差し出した聖書を皇帝が地面に投げ捨てたのを機に、騎馬隊を先頭にしてインカ軍に攻撃をしかけ、アタワルパを生け捕りにした。身代金として莫大(ばくだい)な量の金銀を受け取ったにもかかわらず皇帝を解放せず、逆にアタワルパが嫡子である兄ワスカルを殺害したという罪で処刑し(1533.7.26)、1533年11月15日クスコに入城し、1535年1月18日新首都「諸王の都(リマ)」を建設した。
征服後、ピサロとアルマグロはそれぞれの領地、とりわけクスコの支配権をめぐって対立した。征服直後のペルーは、ピサロ派とアルマグロ派に分かれて内戦状態となり、ピサロは1541年6月26日アルマグロ派の乱入によってリマで殺害された。
[青木康征]
『ヘレス著、増田義郎訳『ペルーおよびクスコ地方征服に関する真実の報告』(『大航海時代叢書 征服者と新世界』所収・1980・岩波書店)』
ピサロ(Camille Pissarro)
ぴさろ
Camille Pissarro
(1830―1903)
フランスの画家。生涯の大半をフランスで過ごした印象派を代表する1人だが、国籍は終生デンマークであった。7月10日、フランス系ユダヤ人を両親に、当時デンマーク領のアンティーユ諸島サン・トマ島に生まれる。若くしてフランスに渡り、1855年絵画修業のためパリに出、コロー、クールベ、ドービニーらから大きな影響を受けた。59年から70年の間、何度かサロンに入選するが、63年の落選展にも参加している。70~71年のプロイセン・フランス戦争の間はロンドンに渡り、同じくロンドンにきたモネとともにコンスタブルやターナーの作品に触れて、深い感銘を受ける。
帰国後の1872年からはポントアズに居を構え、印象主義の様式で大地の風景を描く。ピサロは74年から86年まで8回開かれた印象派展のすべてに参加した唯一の画家であり、第1回展のための規約を草する労を引き受けるなど、組織化にはきわめて熱心で、しばしばグループ内に生じた亀裂(きれつ)の修復にも腐心した。70年代末から彼の絵のなかでは農民がしだいに重要な位置を占めるようになり、また版画の制作にも取り組んだ。85~90年の間、若いスーラの感化を受けて新印象主義の手法で描いたが、それはひとつにはそれまでのピサロの描法の論理的な展開でもあった。しかし、晩年はふたたび印象主義の描法に戻り、84年来居住するエラニーで田園の主題に取り組む一方、パリ、ルーアン、ディエップなどで都会の風景を描いた。1903年11月12日パリで没。ピサロはクロポトキンやエリゼ・ルクリュなどのアナキストの著述にも通じており、こうした彼の政治思想がその芸術を貫く重要な要素の一つとも考えられている。代表作には『赤い屋根』(1877)など。
[大森達次]
『ジョン・リオルド著、平沢悦郎訳『ピサロ』(1968・美術出版社)』▽『シャルル・キュンストレル著、谷本和彦訳『印象派の巨匠たち3 ピサロ』(1975・小学館)』