日本大百科全書(ニッポニカ) 「フッガー家」の意味・わかりやすい解説
フッガー家
ふっがーけ
die Fugger
宗教改革時代の南ドイツの豪商。ヤコブ2世Jacob Ⅱ(「富豪ヤコブ」、1459―1525)の代に大いに繁栄した。1367年、彼の祖父ハンスがアウクスブルクへ出て織工ツンフトに加入、父ヤコブ1世Jacob Ⅰ(1412―69)はベネツィアと織物や香料の商業を営む。
七男四女の末子に生まれたヤコブ2世は、聖界に入ったが、還俗(げんぞく)してイタリアで商業を習い家業についた。1485年以来チロールの領主への貸付けの代償に銀の先買権を獲得し、銀の販売で大きな利益をあげた。後の皇帝マクシミリアン1世との関係もこのころから始まった。94年ハンガリー王からノイゾール銅山を賃借し、クラクフの技師トゥルツォーの協力を得て銅の採掘と精錬を始め、輸送路を確保するため取引範囲を拡大した。銀と銅は当時東方への輸出品であった。93年に新興の国際市場アントワープ(アントウェルペン)に支店を開設、98年にはベネチアで同業者と銅の販売カルテルを結び、1505、06年にはリスボンへ進出、4000ドゥカーテンを出資して東インド貿易に参加した。教皇庁の高官フォン・メッカウなど有力者との結び付きを利用して取引網を広げ、教皇庁の銀行家として各地の司教からローマへの献納金や贖宥(しょくゆう)状(免罪符)売上金の送金を引き受けた。ハプスブルク家を援助し、19年の皇帝選挙ではカール5世(マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)の選挙資金85万グルデン中54万グルデンを融通した。その回収のためチロール銀山のほかスペインの騎士団領の収益がフッガーに委譲された。このころ大商人の独占に対する非難が激しく、23年帝国議会はフッガーを裁判にかけることを決めたが、彼は皇帝に詰問の手紙を送って裁判の中止と取引の保証を取り付けた。農民戦争では領主側に資金と武器を提供したが、ハンガリーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意し、心労のなかで25年66歳で死去した。
彼は、兄から引き継いだ財産を10倍に増やし、20以上の支店、60の町の代理商と駐在員を使って国際的な商業と金融業を営んだ。1507年以後領地を購入し、14年に伯爵に叙せられたが、自らは称号を使わず商人で通した。学芸を保護し、寄付や慈善を続け、14年には低家賃住宅フゲライを建てた。
ついで、彼の甥(おい)のアントンAnton(1493―1560)の代に、資産は最大になったが、返済の保証のない債権が増加し、事業はスペイン王室への貸付けとアントワープでの投機に傾いた。そのためスペイン王室の支払い停止(1557、1575、1607)とアントワープの陥落(1585)で痛手を受け、17世紀には商業から退いた。
フッガー家は、土地貴族として現在まで続いており、アントンの代から集めた多数の史料がディリンゲンのフッガー文庫に収蔵されている。
[諸田 實]
『諸田實著『ヤコプ・フッガー』(松田智雄編『巨富への道』所収・1955・中央公論社)』▽『諸田實著『ドイツ初期資本主義研究』(1967・有斐閣)』