宗教改革時代の南ドイツ,アウクスブルクの豪商。領主への貸付けと鉱山業で有数の富豪となり,ハプスブルク家とカトリックの陣営を援助し,ルネサンスの学芸を保護した。1367年ハンスHans Fugger(1348-1409)が近郊のグラーベン村からアウクスブルクへ出て織工ツンフトに加入,その子ヤーコプJakob Fugger(1407ころ-69)はベネチアと織物や香料の取引を行った。ヤーコプは7男4女をもうけ,その末子ヤーコプ2世Jakob Ⅱ Fugger(〈富豪ヤーコプ〉,1459-1525)は幼時に聖界に入ったが還俗,イタリアで商業を習い兄を助けて家業についた。1485年以来チロルの領主への貸付けの代償に銀の先買権を獲得し,その販売で大きな利益をあげた。後の皇帝マクシミリアン1世との関係もこのころ始まった。94年ハンガリー王からノイゾール銅山を賃借し,クラクフの技師トゥルツォの協力で銅の採掘,精錬,販売に着手し,国際的巨商への道を歩んだ。93年国際市場アントワープに支店を開き,98年ベネチアの銅市場で同業者と販売カルテルを結び,1505-06年リスボンに進出,4000ドゥカーテンを出資して東インド貿易に参加した。フォン・メッカウなど有力者との結びつきを利用して教皇庁の銀行家となり,各地の司教からローマへの献納金や免罪符売上代金の送金を引き受けた。宗教改革の原因になったマインツ大司教の免罪符販売は,フッガーへの返済のために行われたのである。1519年の皇帝選挙ではカール5世(マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)のために選挙資金85万グルデン中54万グルデンを調達した。その回収のためにチロル銀山のほかスペインの騎士修道会領の収益がフッガーに委譲された。南欧と東欧を中心に20以上の支店と60の町の代理商や駐在員を結ぶ国際的取引網を築いた。このころ大商人の独占に対する非難が激しく,23年の帝国議会はヤーコプ2世を裁判にかけることを決議したが,彼は皇帝に強い詰問の手紙を送って裁判の中止と営業の保証をとりつけた。
ドイツ農民戦争では領主側に資金と武器を提供したが,ハンガリーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意せざるをえず,心労のなかで25年66歳で死去した。危篤の病床を皇帝が見舞ったという。兄から引き継いだ財産を10倍に増やし,1507年以降領地を購入し,14年に伯爵に叙せられたが,みずからは称号を使わず商人を通した。寄付や慈善に尽くし,14年に敬虔な貧民のためにアウクスブルクに建てた低家賃住宅フッゲライFuggereiには23年52家族の入居者がいた。
家業を継いだ甥のアントンAnton Fugger(1493-1560)のときに資産は最大になったが,返済の保証のない債権が増加して資産内容は悪化した。営業の中心はスペインへの貸付けとアントワープでの投機に移り,その結果スペイン王室の支払停止(1557,1575,1607)とアントワープの陥落(1585)で痛手を受け,17世紀半ばごろにはすべての事業から手を引いた。土地所有貴族となったフッガー家は現在,公爵家1,伯爵家2が存続し,アントンの代から集めた多数の史料がディリンデンの〈フッガー文庫〉に収蔵される。
執筆者:諸田 實
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
宗教改革時代の南ドイツの豪商。ヤコブ2世Jacob Ⅱ(「富豪ヤコブ」、1459―1525)の代に大いに繁栄した。1367年、彼の祖父ハンスがアウクスブルクへ出て織工ツンフトに加入、父ヤコブ1世Jacob Ⅰ(1412―69)はベネツィアと織物や香料の商業を営む。
七男四女の末子に生まれたヤコブ2世は、聖界に入ったが、還俗(げんぞく)してイタリアで商業を習い家業についた。1485年以来チロールの領主への貸付けの代償に銀の先買権を獲得し、銀の販売で大きな利益をあげた。後の皇帝マクシミリアン1世との関係もこのころから始まった。94年ハンガリー王からノイゾール銅山を賃借し、クラクフの技師トゥルツォーの協力を得て銅の採掘と精錬を始め、輸送路を確保するため取引範囲を拡大した。銀と銅は当時東方への輸出品であった。93年に新興の国際市場アントワープ(アントウェルペン)に支店を開設、98年にはベネチアで同業者と銅の販売カルテルを結び、1505、06年にはリスボンへ進出、4000ドゥカーテンを出資して東インド貿易に参加した。教皇庁の高官フォン・メッカウなど有力者との結び付きを利用して取引網を広げ、教皇庁の銀行家として各地の司教からローマへの献納金や贖宥(しょくゆう)状(免罪符)売上金の送金を引き受けた。ハプスブルク家を援助し、19年の皇帝選挙ではカール5世(マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)の選挙資金85万グルデン中54万グルデンを融通した。その回収のためチロール銀山のほかスペインの騎士団領の収益がフッガーに委譲された。このころ大商人の独占に対する非難が激しく、23年帝国議会はフッガーを裁判にかけることを決めたが、彼は皇帝に詰問の手紙を送って裁判の中止と取引の保証を取り付けた。農民戦争では領主側に資金と武器を提供したが、ハンガリーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意し、心労のなかで25年66歳で死去した。
彼は、兄から引き継いだ財産を10倍に増やし、20以上の支店、60の町の代理商と駐在員を使って国際的な商業と金融業を営んだ。1507年以後領地を購入し、14年に伯爵に叙せられたが、自らは称号を使わず商人で通した。学芸を保護し、寄付や慈善を続け、14年には低家賃住宅フゲライを建てた。
ついで、彼の甥(おい)のアントンAnton(1493―1560)の代に、資産は最大になったが、返済の保証のない債権が増加し、事業はスペイン王室への貸付けとアントワープでの投機に傾いた。そのためスペイン王室の支払い停止(1557、1575、1607)とアントワープの陥落(1585)で痛手を受け、17世紀には商業から退いた。
フッガー家は、土地貴族として現在まで続いており、アントンの代から集めた多数の史料がディリンゲンのフッガー文庫に収蔵されている。
[諸田 實]
『諸田實著『ヤコプ・フッガー』(松田智雄編『巨富への道』所収・1955・中央公論社)』▽『諸田實著『ドイツ初期資本主義研究』(1967・有斐閣)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
南ドイツ,アウクスブルクの大財閥で,15世紀末から16世紀の商業資本繁栄期にその名を残した商業・金融資本家の最たるもの。ヴェルザー家と異なり都市貴族の出ではないが,15世紀ヤーコプ(1412~69)のときイタリアとの香料・羊毛取引で産をなし,その末子ヤーコプ2世(1459~1525)のもとでティロルやハンガリーの領邦君主への高利貸付と引替えに有利な鉱山特権(銀,銅)を獲得し,一躍国際的な金融財閥にのし上がった。経営は同族会社組織によって行われ,あくどい買占め,独占によって庶民の反感を買ったが,他方でハプスブルク家の皇帝やスペイン王,ローマ教皇などへの融資を通じて宗教改革期の国際政治に大きな影響を及ぼした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…古くからドイツとイタリアを結ぶ交通の要衝であり,現在も鉄道3線が交差し,ロマンティッシェ・シュトラーセの中間に位置する。15,16世紀には南ドイツ経済の繁栄の中心になり,フッガー家をはじめ多くの国際的巨商が輩出した。19世紀以降綿工業が発達し,現在は機械工業の中心でもある。…
※「フッガー家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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