改訂新版 世界大百科事典 「アンダーグラウンド映画」の意味・わかりやすい解説
アンダーグラウンド映画 (アンダーグラウンドえいが)
underground cinema
1957年,画家であり美術評論家でもある映画批評家マニー・ファーバーが,アメリカのギャング映画や犯罪・暗黒映画(《暗黒街の顔役》《三つ数えろ》《白熱》《アスファルト・ジャングル》等々)を〈アンダーグラウンド映画underground films〉と呼んで論じたのがこの名のそもそもの起りだが,59年に批評家のルイス・ジェーコブズが,アメリカのアバンギャルド映画を〈その生涯の大半を地下的(アンダーグラウンド的)存在として送る映画〉と定義した(《フィルム・カルチャー》(1959年春季第19号)所載〈実験映画の黎明(れいめい)〉)ことから,今日に至るアンダーグラウンド映画の名称が生まれた。同年,前衛映画作家スタン・バンダービークが,彼自身の作品を含めた当時の実験映画を〈アンダーグラウンド〉と呼んだ。この言葉はジャーナリスティックな呼称として世界的に流布されたが,映画史的には〈ニュー・アメリカン・シネマ〉(のちに《俺たちに明日はない》《イージー・ライダー》等々の作品群に冠せられた〈アメリカン・ニューシネマ〉とは別),あるいは〈アメリカン・アバンギャルド〉の名称で呼ばれる。
1930年代末から40年代にかけて,ニューヨーク近代美術館が,H.リヒター,V.エゲリング,F.レジェ,マン・レイ,ルネ・クレール,M.デュシャン,S.ダリ,L.ブニュエルといったヨーロッパのアバンギャルド映画のプリントを入手して上映し始めたことと,J.コクトーの《詩人の血》(1930)が劇場公開されたことなどによって,映画王国と化していた従来のハリウッド映画のシステムにあきたらず,反発しながらみずからも映画を作りたいという衝動に燃える若者たちを熱狂させた。初期のアンダーグラウンド映画には,〈アバンギャルド〉のパターンとして作家自身の魂の投影である(マヤ・デレンのようにみずから演ずることも多い)主人公が,〈夢遊病者のように禁じられた風景のなかをさまよう〉(アラン・シトニー)イメージが現れた。
おりしも16ミリ機材とフィルムの普及によって(16ミリ機材と不燃性の16ミリのリバーサル・モノクロフィルムが出現し,その現像所が世界各地に普及し始めたのが1923年である),世界的にホーム・ムービーの全盛時代を迎えていた事情とあいまって,若者たちはいっきょに〈もっとも個人的なテーマをもっとも個人的手段によって表現するメディア〉としての〈個人映画〉に傾倒していった。この傾向は,第2次世界大戦中に慰問用に軍が使った16ミリカメラと映写機の払下げによって機材が入手しやすくなったためにいっそう助長された。また40年代から50年代にかけて,サンフランシスコの〈アート・イン・シネマ〉やニューヨークの〈シネマ16〉など,アバンギャルド映画の専門館をはじめいくつかの16ミリ常設館ができた。
こうした傾向の〈個人映画〉の先駆的作品となったのが,女流作家マヤ・デレンの18分の短編《午後の網目》(1943)で,ニューヨークではなくウェスト・コーストで作られた。〈発育不全のフロイト趣味,おりこうちゃんのためのシュルレアリスム〉(アド・キルー)などといわれながらも,初の〈トランス(夢ごこち)映画〉(映画評論家パーカー・タイラーの命名)として強烈な刺激剤となり,次々に〈自分自身の魂を見つめる個人映画〉が作られた。その後,デレンはニューヨークに出て活動を続け,同じ映画運動(製作,配給,上映)を進めていたメカスと論争したりするが,61年にはこの世を去り,以後はメカスが彼の主宰する《フィルム・カルチャー》(1955創刊)を機関誌として,〈ニュー・アメリカン・シネマ〉運動を推進していくことになる。やがてオフ・ハリウッド,ニューヨーク派の主流になるライオネル・ロゴーシンの《バワリー25時》(1955),ジョン・カサベテスの《アメリカの影》(1957),シャーリー・クラークの《クール・ワールド》(1963)をはじめ,1950年代から60年代にかけて,さまざまな実験的作品群が出現した。さらに,この映画運動は新しいテクノロジー(コンピューター,レーザーなど)を利用した〈拡張映画expanded cinema〉に向かっていく。この方向は〈インターメディア〉とも呼ばれ,やがてある面ではビデオ・アートにまで結びつくことになる。
日本
1960年代に入って,日本でも東京の草月アートセンター主催による〈世界前衛映画祭〉〈アンダーグラウンド・フィルム・フェスティバル〉(ともに1966)などによって,〈アメリカン・アバンギャルド〉の作品が次々に紹介され,当時8ミリ映画のシステムが飛躍的に改良された(1965年に国内販売されるようになったスーパー8と国産のシングル8によって,フィルム上の実効画面の面積が拡大され,画質,明るさ,ともに向上した)こともあって,日本にも新しい前衛映画の作家たちが生まれた。例えば大林宣彦の《伝説の午後-いつか見たドラキュラ-Emotion》(1967)のような,その後70年代に入ってからも〈自主映画〉と呼ばれる一連の〈個人映画〉の流れに影響を与え続ける作品も生まれた。今日の〈自主映画〉群には,〈アメリカン・アバンギャルド〉本来の〈もっとも個人的なテーマをもっとも個人的な手段によって表現する〉という自由の精神が受け継がれているといえよう。なお,1960年代末期には《映画評論》を中心に,〈暗黒舞踏〉〈地下演劇〉なども含めて〈アングラ〉という日本的に略語化されたジャーナリスティックな風俗用語が生まれ,風化し,転用され,今日に至っている。
執筆者:日比野 幸子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報