日本大百科全書(ニッポニカ) 「イースター蜂起」の意味・わかりやすい解説
イースター蜂起
いーすたーほうき
Easter Rising
独立の共和国を目ざした1916年4月24日のアイルランド・ナショナリストの武装蜂起。イースター(復活祭)の月曜日だったので、この名がある。アイルランドの自治問題は第三次自治法案(1912)でいちおうの決着がつくはずであった。前年の議会法の改正で1914年には成立必至だったのである。しかしユニオニスト(プロテスタント)はアルスター義勇軍を結成して武力によってでもそれを阻止しようと大運動を開始した。これに対しナショナリストもアイルランド義勇軍を組織した。アイルランド義勇軍は武装蜂起のための組織ではなかったが、14年に第一次世界大戦が始まり、自治法が成立しても施行停止という形で棚上げになると、義勇軍のなかのアイルランド共和主義同盟IRB(フィニアン)は義勇軍による武装蜂起を準備し始め、その時期を民族の同意が得られるときと規定し徴兵制実施を決めた。予想どおり、15年にイギリスが徴兵法案を提出すると、アイルランドにおける反徴兵運動は穏健なナショナリストまで含めて高まり、IRBは蜂起準備を急いだ。イギリス政府は反徴兵運動の高揚と募兵が順調なのをみて、徴兵法施行からアイルランドを除外した。しかしすでにドイツからの武器密輸など蜂起計画が進んでいたために、IRBは16年春のイースターに決行することに決定した。ドイツからの武器の陸揚げに失敗し、義勇軍指導部内の穏健派を説得できず、予定の日曜日に中止命令がでるなどの混乱で、翌24日月曜日に決行したものの、予定の1万人は集まらなかった。とくに地方での混乱が大きく一部が遅れて蜂起しただけで、ダブリン市だけの行動となった。当日は休日のため警戒も手薄で、蜂起軍は市内要所を占領、中心部隊はオコネル通りの中央郵便局を占領して共和国宣言を読み上げた。宣言には19世紀なかば以来の急進派組織フィニアンの指導者クラークThomas James Clarke(1857―1916)を筆頭に、社会主義者のコノリーJames Connolly(1868―1916)、ゲーリック・リーグ(ゲール同盟Gaelic League)のピアースPatrick Henry Pearse(1879―1916)など7人が署名していた。蜂起軍は1週間ほど占領地域を死守、土曜日ついに降服して敗北に終わった。この蜂起は、19世紀以来の自治運動に決着をつけてアイルランド独立への新しい道を開いたもので、アイルランド史上重要な意味をもっている。民衆は1世紀以上続いているイギリスとの連合になじんでおり、また戦争による好景気もあって蜂起に無関心であり、反感さえ示した。しかし蜂起軍が降伏した29日土曜日の翌週5月3日に早くも指導者の処刑が始まり、10日までに15人が銃殺されると世論が一変し、翌1917年の三つの補欠選挙で蜂起派の候補が勝利した。そしてシン・フェイン党の再建という形で蜂起派を主体にナショナリストが結集して18年の総選挙に大勝し、19年1月、国民議会を樹立して独立戦争に突入するに至る。こうしてイースター蜂起は穏健派から過激派までのすべてのナショナリストにとって行動の原点となった。アイルランド共和国もこの日を建国の日とし、過激派はこの蜂起ゆえに南北分割を認めた自由国に始まる現在の共和国を否定した。蜂起軍の司令部となったダブリンの中央郵便局の壁に宣言文がはめ込んであり、1階のフロアには50周年を記念して制作された、外敵からアイルランドを守った伝説の民族的英雄クーフリンの像が建っている。
[堀越 智]
『堀越智著『イースター蜂起1916』(1985・論創社)』