ダブリン(読み)だぶりん(英語表記)Dublin

翻訳|Dublin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダブリン」の意味・わかりやすい解説

ダブリン
だぶりん
Dublin

アイルランド共和国の首都。アイルランド島の東岸、ダブリン湾に面し、リフィ川河口に位置する。ゲール語でブラークリーアBaile Átha Cliath(「難攻不落の砦(とりで)」の意)、古称エブラナEblana。人口49万5101、首都圏人口112万2600(2002国勢調査速報値)。人口の約80%がカトリック教徒。市街地中央部は商業地域、南東部は歴史的建造物の多い旧市街である。市中には広い道路や広場があり、中心街オコネル街の中央には独立運動の指導者オコネルの記念像がある。近年都市化は郊外に拡大しクロンターフClontarf、ドニーブルックDonnybrook、サンディマウントSandymount、ラトファーンハムRathfarnham、ブランチャーズタウンBlanchardstownなどは新興の市街地となった。現在ダン・レアラやブレイなどの都市と連接し、アイルランド最大のコナベーション(連接都市地域)を形成するに至った。

 国際港としてのダブリン港は20世紀初頭に大きく改良され、ロイヤル運河、グランド運河と連絡し、内陸交通、海外貿易の要衝として、同国の輸出入の半分以上を取り扱う。家畜、肉、酪農製品、ベーコンなどが輸出され、とくにギネスの黒ビールは有名で専用タンカーで船積みされる。また、イギリスのランカシャー、クライドサイド工業地帯、カンバーランドなどからは、石炭、石油、たばこ、肥料、穀物、チョコレートなどが輸入される。外港のダン・レアラとイギリス(ウェールズ)のホリヘッドを結ぶ航路はほとんど旅客船によって占められている。工業には酒類の醸造・蒸留、繊維、造船、食品、鋳物、ガラス、たばこ製造などがある。ダブリンの位置するアイルランドの中央平野は低地で水はけが悪いため、集落は排水のよい氷河起源の砂礫(されき)層上に発達し、道路は曲がりくねったエスカー(氷堆積(たいせき)物による堤防状の地形)の上を走る。気候が温暖多湿で牧草の生育に適するが、粘土質土壌であるため、農作物の栽培には不適である。このためウシの冬期飼料が確保できないこともあって、この平野は夏期だけほかの地方から転送されてきたウシの肥育地帯となり、肥育牛はダブリンから船積みされる。北郊約20キロメートルにダブリン空港があり、ロンドンと空路1時間で結ばれる。

米田 巌]

歴史

リフィ河口のこの地は古くからケルト人によって「難攻不落の砦」という意味のことばでよばれていたが、9世紀デーン人がここを占領し、城壁のある町をつくって以来、英語のブラック・プールBlack Pool(リフィ川の水の色に由来する)に相当する「ダブリン」の名でよばれるようになった。1172年イギリス王ヘンリー2世がアイルランド首長から臣従の礼を受けたのは、現在トリニティ・カレッジのあるカレッジ・グリーンであった。それ以来ダブリンはイギリスの支配の拠点となった。イギリスが開設したアイルランド議会もほとんどダブリンで開かれ、総督府も置かれた。現在市中にあるダブリン城(元総督府)、カスタム・ハウス(税関)、アイルランド銀行本店(旧議事堂)、トリニティ・カレッジ(ダブリン大学、1592創立)、国会議事堂(旧レンスター・ハウス)など歴史的な建物の多くは18世紀に建造されたり修復された。経済的にも中心都市の一つであったが、民族運動もここを中心に展開された。現在市内各所に、オコネル、パーネルなど民族運動闘士の立像胸像がある。19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランド・ルネサンスとよばれた新しい民族的文学運動は、リフィ河口北側のアベイ劇場(1951年に焼失、再建)を中心としていた。W・B・イェーツ、J・M・シングなどの作品がアイルランド演劇を世界的水準に高め、またJ・ジョイスの作品は別の視点から世界の注目を集めた。ほかにJ・スウィフト、T・ムーア、O・ワイルド、G・B・ショーなどの文学者、E・バーク、E・カーソンなどの政治家がダブリン生まれである。

[堀越 智]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダブリン」の意味・わかりやすい解説

ダブリン
Dublin

アイルランドの首都。アイルランド語ではバリアオーハクリア Baile Átha Cliath。アイルランド東部,レンスター地方北東部,ダブリン県中部の特別市で,同県の県都。アイリッシュ海のダブリン湾に臨む港湾都市で,リフィー川の河口に位置する。5世紀には聖パトリックによりキリスト教が伝えられ,9世紀にデーン人が侵入,その支配は 1170年アングロ・ノルマンに放逐されるまで続いた。1172年イングランド王ヘンリー2世はブリストル市民を移住させ,ダブリン経営を開始,市はペール Paleと呼ばれるイングランド支配地域の中心地となった。その後イングランドの植民化政策に対するアイルランド人の抵抗の歴史が続き,経済発展が妨げられたが,17世紀末頃よりヨーロッパ大陸から来住したユグノーやフランドル人によって織物工業が発展し始め,18世紀には繁栄の時代を迎え,市域も拡大した。中心市街にはこの時代に建てられた建築物が数多く残っている。1800年の合同法によりアイルランド議会が廃止されると,富裕階級の多くがロンドンに移ってしまい,しだいに衰退(→アイルランド合同)。その後イギリス支配からの独立を目指す民族運動の高揚に伴って,しばしば暴動が起こり,1916年には「復活祭の月曜日」として知られる武装蜂起(復活祭蜂起)があり,1週間にわたる市街戦が展開された。1921年のイギリス=アイルランド条約により,北部のアルスター 6県を除く全島が自治領アイルランド自由国となり,ダブリンがその首都となったが,北アイルランドの分離をめぐってその後も紛争が続き,市街は大きな被害を受けた。
このため近代工業の発展は遅れたが,1950年代後半以降政府によって新しい経済計画が実施された結果,ウイスキー,ビール(ギネススタウト黒ビールの一種〉が有名),製粉などの農産物加工のほか,機械,造船,金属加工,肥料,繊維,製菓など多様な工業が発達した。18世紀初めに建設された港から発展したダブリン港はアイルランドの主要港で,アイルランドの貿易の大部分を扱っており,ロイヤル運河,グランド運河により,内陸部を貫流するシャノン川とも連絡している。また文化中心地でもあり,ダブリン大学(1591),アイルランド国立大学(1909),図書館,博物館,美術館や,20世紀初頭アイルランド文芸復興運動において重要な役割を果たしたアビー劇場など教育・文化施設が多い。劇作家ジョージ・バーナード・ショー,詩人ウィリアム・バトラー・イェーツ,作家ジェームズ・ジョイスらの生地。水運のほか陸上交通の要地でもあり,鉄道,道路が市から放射状に延び,北郊には国際空港がある。面積 118km2。人口 52万5383(2011)。

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