ガーナの政治家。ガーナの独立解放闘争の指導者、独立国ガーナの首相・大統領として活動し、アフリカ諸国の民族解放闘争を支援し、アフリカ諸国の統一、汎(はん)アフリカ主義を強く主張した。ゴールド・コースト(黄金海岸、現ガーナ)の西部に金細工師の子として生まれ、カトリック派ミッション学校を卒業し、アクラの教員養成学校に学んで教員になった。1935年アメリカに渡航し、リンカーン大学で経済学、社会学、神学を、ペンシルベニア大学で教育学、哲学を専攻したのち、リンカーン大学で政治学を教えた。渡米中にマルクス主義に接し、ガンジーや「アフリカへの帰還運動」のマーカス・ガーベイの影響を受けた。1945年に法律を学ぶためロンドンに渡り、西アフリカ学生同盟の活動に参加し、汎アフリカ主義者のジョージ・パドモアと協働した。1945年マンチェスターで開かれた第5回汎アフリカ会議の書記局員として活動した。1947年、ゴールド・コーストに新たに組織された統一ゴールド・コースト会議(NGCC)の書記長に迎えられたが、運動方針をめぐってJ・B・ダンカーらの穏健派と対立し、1949年6月に自ら会議人民党(CPP)を組織し、即時自治獲得運動を指導した。1951年2月の総選挙に獄中から立候補し、CPPが勝利を獲得、政府事務首班に就任した。1954年6月、1957年7月の選挙に勝ち、1957年3月、ゴールド・コーストはガーナという歴史的な名称をもつ国として独立を達成した。1960年7月に共和制に移行した際、大統領に就任した。独立後、教育・社会福祉の充実、工業化の進展を図る社会主義化政策を進めるとともに、外政面ではギニアのセクー・トゥーレ、マリのモディボ・ケイタとともにアフリカ統一運動を進めた。
1966年2月、北京(ペキン)滞在中に本国で軍事クーデターが起き失脚、ギニアに亡命していたが、1972年4月27日にルーマニアのブカレストの病院で死亡した。エンクルマの民族解放思想、汎アフリカ主義は、独立獲得・建設期に生まれた思想として、その意義は失われていない。
[中村弘光]
『野間寛二郎訳『わが祖国への自伝』(1961・理論社)』▽『野間寛二郎訳『自由のための自由』(1962・理論社)』▽『野間寛二郎訳『アフリカは統一する』(1964・理論社)』
ガーナの政治家。パン・アフリカニズムの指導者。英領ゴールド・コースト(現,ガーナ)南西部沿岸のエンジマで,アカン族の鍛冶屋の子として生まれ,1930年首都アクラの師範学校を卒業,初等学校,カトリック系神学校で教員をつとめたのち,35-45年アメリカに,45年からイギリスに留学,西アフリカ学生同盟(ロンドン)副会長となった。45年10月の第5回パン・アフリカ会議(マンチェスター)ではパドモアとともに書記をつとめ,以後パン・アフリカニズムの第一の指導者として,運動の主導権をアメリカ黒人の手からアフリカ人の手に移すことに貢献した。47年帰国し,統一ゴールド・コースト会議書記長をへて,49年会議人民党を創設,その書記長としてゴールド・コーストの即時独立を目指す運動を指導。50年反英ストで逮捕され,翌年の総選挙に獄中から立候補して当選。釈放されて首相に就任した。57年のガーナ独立とともに初代首相,60年の共和制移行で初代大統領に就任,オサギエフォ(救世主)と呼ばれた。社会主義に裏打ちされたアフリカ大陸の政治的統一を強く主張し,アフリカ合衆国の創設を目指したが,中国を訪問中の66年2月軍部クーデタが起こって失脚し,友邦ギニアに亡命。復権の希望もむなしく,療養先のブカレストの病院で客死した。《わが祖国への自伝》(1957)ほか著書多数。
→パン・アフリカニズム
執筆者:小田 英郎
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1909~72
ンクルマともいう。ガーナの政治家,建国の父。イギリス領ゴールド・コースト時代のガーナで教育を受けたのち,1935~45年アメリカ,45年からはイギリスに留学し,西アフリカ学生同盟副会長となり,パン・アフリカニズムの指導者となった。47年,ガーナに帰国し民族運動を率いた。50年,反英ストで逮捕されるも,51年の総選挙では獄中から立候補し当選した。57年,ガーナ独立とともに初代首相(在任1957~60),60年共和政移行時に初代大統領(在任1960~66)。社会主義を基盤にしたアフリカ統一を唱えた。66年,クーデタにより失脚。
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…先鞭をつけたのは47年に創設された統一ゴールド・コースト会議(UGCC)で,〈できるだけ早く自治を達成すること〉を目標に運動を展開した。1935‐45年のアメリカ留学を終えてロンドンでパン・アフリカニズム運動を推進していたエンクルマは,請われて帰国ののちUGCCの書記長に就任し,48年2~3月に起こった一連のデモや暴動を機に,ゴールド・コーストの行政権を〈族長と民衆の代表からなる暫定政府〉に即時移譲するよう要求した。しかしイギリスはこれを拒否し,エンクルマを含むUGCCの幹部を逮捕するといった強硬手段にでたため,UGCC指導部内にエンクルマの急進主義に対する批判が強まり,彼は書記長を解任された。…
…同連盟の準備活動を基礎に,第2次世界大戦直後の45年10月マンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。この会議は,運動の主導権がそれまでのアフリカ系知識人からエンクルマらアフリカ知識人に移ったこと,多数のアフリカの政党,政治組織の参加を得てアフリカ・ナショナリズムと結合したこと,などの点で画期的な会議であった。 これ以後パン・アフリカニズムはアフリカ大陸に導入され,アフリカの独立と統一を直接の目標として一大飛躍を遂げた。…
※「エンクルマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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