ガーベイ運動(読み)がーべいうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガーベイ運動」の意味・わかりやすい解説

ガーベイ運動
がーべいうんどう

1914年にマーカス・ガーベイによってジャマイカで結成された世界黒人地位改善協会(UNIA)に始まる黒人運動。1917年本部をニューヨークに移し、ガーベイ書記長のもとで19年までに全世界に30の支部をもち、当時世界最大の黒人新聞になった『ニグロ・ワールド』を発行した。ガーベイは中央アメリカを旅したのち、ロンドンでアフリカ黒人と交流し、白人のアフリカ侵略や植民地主義、人種的抑圧を知る一方、ブーカ・T・ワシントン思想に傾倒した。UNIAの第1回大会(1920)で採択された「権利宣言」では、すべての黒人はアフリカの自由市民であり、民族自決権をもつべきであると主張され、アメリカの黒人差別にも攻撃的な抗議が加えられている。「アフリカへ帰れ」という中心スローガンは、1921年のUNIA第2回大会において、「アフリカ帝国」樹立宣言、ガーベイの臨時大統領就任、黒・赤・緑からなる国旗制定、白人侵略者をアフリカから追放するための「アフリカ旅団」などの結成へと進展した。黒人の人種感情に触れる戦闘性と白人や混血黒人を敵とみなす敗北主義の同居するこの運動は、第一次世界大戦を契機として、南部農村から北部大都市へと移住し労働者化した、抑圧され、侮辱され、労働組合からも排除されていた都市下層の黒人大衆に広く受け入れられた。それは、上層の黒人を対象とした、白人や混血黒人により構成された既存の全国黒人向上協会や全国都市同盟への下層黒人の不満の表明でもあった。ガーベイは同胞をアフリカへ送るためにブラック・スター汽船会社をつくったが、こうした事業に手を染めるなかで、この運動は初期の急進主義を捨て、黒人のための社会的平等の闘争をしだいに放棄非難するようになる。1922年には、事業不振で汽船会社は破産し、ガーベイも郵便不正利用の罪で5年の刑に処せられた。2年の服役ののち出所したが、まもなく運動は分裂した。この運動は弱さを一面にもちつつも、その後の黒人の闘いのための精神的風土を培った。

[竹中興慈]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android