ギニアの政治家、労働運動指導者。ギニアのファラナに生まれ、コナクリの職業訓練校を出て1941年に郵便電信公社(PTT)に勤務、労働組合運動に参加して、1945年通信労働組合書記長となった。1946年にはウフェボワニ、モディボ・ケイタとともに、西アフリカ全域にまたがる解放運動、アフリカ民主運動(RDA)の創設に参加、その支部であるギニア民主党(PDG)を組織して、1952年書記長に選任された。また1956年にはアフリカ労働総同盟(CGTA)、1957年には黒アフリカ労働総連合(UGTAN)を結成するなど、労働運動を推進した。1958年9月、ドゴール憲法の諾否を問う国民投票の際、「隷属のなかの富裕よりも、自由のなかの貧困を選ぶ」と演説し、独立を達成、ギニアの初代大統領となった。汎(はん)アフリカ主義、反新植民地主義の路線をとり続けた。1970年代末期から柔軟な外交路線をとり、イスラム圏諸国間の調停にもあたった。1984年3月26日、アメリカのクリーブランドの病院で急性心不全のため死亡。
[中村弘光]
『セク・トゥーレ著、小出峻・野沢協訳『アフリカの未来像』(1961・理論社)』▽『セク・トゥーレ著、小出峻・野沢協訳『続アフリカの未来像――国づくりへの理念』(1961・理論社)』
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西アフリカ,ギニアの初代大統領。マリンケ族の出身。19世紀末,フランスの侵略に抵抗した国民的英雄サモリ・トゥーレの孫といわれる。郵便労働者として1945年郵政労組を,48年ギニア労働総同盟を結成,50年フランス労働総同盟の西アフリカの責任者となる。労働組合を基盤に政治に進出し,1946年アフリカ民主連合結成大会に参加,47年短期間投獄される。52年ギニア民主党の書記長に就任。53年のゼネストを指導して影響力を拡大し,55年コナクリ市長,56年フランス国民議会議員に選出される。58年のフランス第五共和政憲法の賛否を問う国民投票では拒否をよびかけ,同年ギニアを完全独立に導き,首相,次いで大統領に就任。独立後,内外に急進的政策を進めるが成果をあげえず,政情不安に苦しんだ。60年レーニン平和賞受賞。
執筆者:大林 稔
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…内容は,870年ころスウェーデン出身の漂流者がこの島を発見してからキリスト教が広まるまでの約120年間にわたる歴史を記述する。その序文には,ギリシア時代から〈世界の涯(はて)〉として知られたティレThile(ギリシア語ではトゥーレThoulē)をアイスランドと断定した一文があり,同地を北方系ヨーロッパ人の幻の故郷とみなす伝説を生む源泉になった。またこの書物によれば,アイスランドの本格的植民は,ハーラル美髪王の国家統一を嫌った西ノルウェーの首長インゴールブル・アルトナルソンが874年にこの島へ移住したことに始まるという。…
…しかし,厚い氷の下に潜めば,衛星からも探知されにくいのは事実で,北極は原潜の訓練場になってきた。【八木沢 三夫】
【探検史】
古代ギリシアでは極北の地をトゥーレThoulē(ラテン語ではThule,またとくにUltima Thule)と呼んで世界の北端と信じ,ヒッパルコスによればトゥーレ周辺は人間の住み得ぬ土地とされていた。しかし前320年ころギリシア人ピュテアスがマッサリア(現,マルセイユ)を出発し,ブリタニア(グレート・ブリテン島)を発見し,北方にあるこのトゥーレの探査を試みた。…
…19世紀にはトゥクロール族のハジ・ウマルが立ち上がり,セネガンビア地方からさらに東のニジェール川流域地方へと進出して,広大な領域を持つイスラム国家を形成した。ついで19世紀末にはマンデ系のサモリ・トゥーレが出てサモリ帝国を形成し,当時進出を開始したフランス植民地勢力に抵抗した。サモリは現在でも国民的英雄として愛されている。…
※「トゥーレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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