日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギニア」の意味・わかりやすい解説
ギニア(国)
ぎにあ
Guinea
西アフリカ南西部、大西洋に面する国。正称はギニア共和国République de Guinée。北はギニア・ビサウ、セネガル、東はマリ、コートジボワール、南はシエラレオネ、リベリアと接する。面積24万5836平方キロメートル、人口815万(2000推計)、1052万3261(2014センサス)。首都はコナクリ。
[大林 稔]
自然
ギニアは四つの地域に大別される。第一は海岸平野の沿海ギニア(下ギニア)で、年降水量3000~4000ミリメートルに達する熱帯雨林地帯である。首都のコナクリは年降水量3622ミリメートルと世界でもっとも雨量の多い首都として知られる。第二は内陸に続くフータ・ジャロン山地(中ギニア)で、標高600~1500メートル、年降水量1500~2300ミリメートルの台地である。第三はさらに内陸の上ギニアで、400~420メートルの低い台地をなし、年降水量1500ミリメートルを超えないスーダン型サバナである。そして第四は南部の熱帯雨林山地(森林ギニア)で、年降水量は2000~2700ミリメートルである。地方によって期間は異なるが、乾期、雨期の二つの季節をもつ。ギニアは雨量の多い山地、台地を有するので、セネガル川、ガンビア川、ニジェール川など西アフリカの主要な河川が源を発し、「西アフリカの水がめ」とよばれる。
[大林 稔]
歴史
ギニアのいくつかの地方は古くから栄えた諸帝国の一部であった。3世紀にはすでにガーナ帝国がギニアの一部を含むマンディンゴ王国をその支配下に置き、11世紀まで栄えた。13世紀に成立したマリ帝国もギニアの一部を支配し、14世紀にその繁栄の頂点に達したが、15世紀に入って衰退した。その後ニジェール川中流ではソンガイ帝国ほかいくつかの王朝が興亡した。フータ・ジャロン山地には17世紀末から18世紀にかけプール(フラニ)人が大量に移住した。そのなかでイスラム教勢力が強大となり、1726年にこの地域を制圧して神権国家をつくりあげた。上ギニアおよびマリ南部においては、マリンケ人のイスラム教徒サモリ・トゥーレがサモリ帝国を樹立、強力な軍隊と統治機構により強大な国家を組織した。この帝国は1870年に成立し、1880年代末に最盛期を迎え、当時この地方への侵略を本格化しつつあったフランス軍と衝突した。対フランス戦争は1891年から7年間続いた。サモリは軍隊と住民を率いて移動しつつ激しく戦ったが、1898年に捕らえられ、1900年流刑地ガボンで死亡した。やはりフランス軍と戦ったといわれるプール人のアルファ・ヤヤとともに、サモリは現ギニアの国民的英雄とされている。
ギニア地方に到来したヨーロッパ人は、記録によればポルトガル人が初めである。17世紀なかばまでポルトガル人とスペイン人がこの地の奴隷貿易を独占していたが、18、19世紀には各国が競って商館を設けた。列強の競合のすえ、ギニアは1882年、最終的にフランスの支配下に入った。当初ギニアはセネガルの付属地「南部河川地方」とされていたが、1890年に独立の行政単位とされ、1899年フランス領西アフリカの一部となった。しかし当時のギニアは現在の版図とは一致せず、今日の国境が定まったのは1904年である。同年ギニアはフランスの保護領から領土になった。以後ギニアは他のフランス領西アフリカと同様の歴史をたどった。しかし、1958年9月28日のフランス第五共和政憲法に対する住民投票では、ギニアだけが同憲法の拒否を表明した。10月2日ギニアはフランス共同体を離脱してフランスの植民地のなかで最初の独立国となり、セク・トゥーレが首相となった。
[大林 稔]
政治・外交
独立から1984年まではセク・トゥーレによる独裁の時代が続いた。独立運動を率いたセク・トゥーレは、初代大統領に就任すると社会主義的な国家建設を目ざし、すべての国民を単一政党となったギニア民主党(PDG)に統合した。さらに1978年には党と国家を正式に一体化し、国名をギニア共和国からギニア人民革命共和国に変更した。こうした独裁体制に反対する動きは絶えることなく、反政府陰謀の摘発と粛清が繰り返され、反対派は外国の陰謀の手先と非難された。
経済面では農業の集団化、流通と工業の国営化が進められた。しかし生産活動は衰退し、インフレが進行、闇(やみ)経済と汚職が横行した。1977年物資不足と経済警察の横暴に対する民衆の怒りから、全国の主要都市に暴動が広がった。この結果PDGは社会主義的経済政策を緩和し、商業の一部自由化、農業集団化の見直しなどを余儀なくされた。
1984年3月にセク・トゥーレは病死した。セク・トゥーレへの権力の集中によって支えられていたPDG一党体制は、その死からわずか8日後に起きたクーデターによって崩壊した。権力を掌握した国家再建軍事委員会(CMRN)議長ラザナ・コンテLansana Conte大佐は、ただちに大統領に就任、国名をふたたびギニア共和国に復すると同時に、人権と表現の自由の尊重を宣言、経済の自由化を約束し、26年間の社会主義体制に終止符を打った。
セク・トゥーレの死の直後には、亡命していたギニア人20万人が帰国するなど将来への国民の期待が高まった。しかし大統領コンテは民政移管を遅らせ、1980年代後半は強権的な軍政が継続した。また、人権面でも改善がみられなかった。1985年7月前首相トラオレDiarra Traoré(1935―1985)によるクーデター未遂事件が発生すると、事件の関係者およびトゥーレ政権の有力者に秘密法廷で死刑が宣言された。この司法手続きは、国際人権機関から批判を受けた。
1990年12月に第三共和国憲法草案が国民投票で承認され、民政への移行が始まった。しかし大統領と野党との間で移行手続きをめぐる対立が生じ、民政移管が終了するにはさらに5年の年月を要した。民主化により17の政党が公認されたが、コンテは与党の統一進歩党(PUP)を優遇し、反対派を弾圧した。社会的混乱と緊張のなかで1993年12月に大統領選挙が実施された。野党の分裂に助けられて、コンテが多数を獲得した。さらに1995年6月の国政選挙および地方選挙でも、与党PUPが大勝したが、野党はこれらの選挙に不正があったとして抗議した。第三共和制移行以後も政治は安定しなかった。1996年2月には給料の未払いから兵隊の反乱が発生し、大統領のコンテが一時拘束されるという事件が起きた。1998年12月の大統領選でコンテは再選された。2003年3選。
1990年よりリベリア、シエラレオネの難民数十万人が流入した。国際人権機関は、難民の増加による治安の悪化を人権抑圧の口実として利用しているとギニア政府を批判した。
セク・トゥーレ時代には、外国に対する不信感からギニアは外交的に孤立しがちであった。コンテ政権は対外関係の改善に努め、とくにフランスとの関係は大きく好転した。またイスラム国家との関係、なかでもイランとの関係は良好である。しかし地域的な問題では、ギニアがシエラレオネ、リベリアの内戦に介入しているとの批判もある。
[大林 稔]
経済・産業
ギニアは農鉱業およびエネルギー資源に恵まれているが、経済発展は遅れている。1人当りGDP(国内総生産)は550ドル(1995)とされているが、実際の国民の生活水準は1人当りGDPが200~300ドルの国の水準にある。ギニアの経済はセク・トゥーレ時代に荒廃した。1人当り国民所得は低下し、農業は衰退、農民は自給経済に回帰した。過度の規制のためボーキサイト採掘・輸出と政府関連部門以外の近代部門は発展せず、民衆はインフォーマル部門に依存する生活を送った。また政府財政の悪化から、教育、保健などの社会サービスも低下した。クーデター後、コンテ政権は経済の開放と自由化に踏み切り、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の協力を得て構造調整政策を進めた。そのため1986~1989年の実質成長率は4.5%に上昇した。しかしその後は不安定な政治と社会情勢の悪化のため、経済改革と民間投資は進まず、経済は停滞した。
農業(漁業・林業・狩猟を含む)は全労働力の87%を雇用しているが、GDPに占める割合は24%にすぎない。おもな食糧作物はキャッサバ、米であり、主要商品作物として果実、やし油、落花生、コーヒーを産する。鉱工業(鉱業、製造業、建設、電力)はGDPの約30%を占めるが、雇用面での貢献は2%以下である。中心をなすのはボーキサイト、ダイヤ、金などの鉱業でGDPの約20%を生産し、製造業は未発達である。ギニアは世界のボーキサイト資源の3分の1を埋蔵しているといわれ、1990年代なかばより海外資本による石油開発も開始されている。また、世界最大のボーキサイト輸出国であり、ボーキサイトとアルミニウムは全輸出の80%近く、政府の歳入の40~70%を占めている。ほかにも鉄鉱石、みかげ石、ウラニウム、コバルト、ニッケル、プラチナの埋蔵が確認されている。
ギニアはかつて農産品輸出国であったが、独立後は鉱業の発展と農業の衰退から、ボーキサイト輸出・食糧輸入国に転向した。おもな輸入相手国はフランス(29%、1993)、ほかにコートジボワール、アメリカ、香港(ホンコン)、ベルギーなどである。主要輸出先はアメリカ(20%、1993)を中心に、ベルギー、アイルランド、スペイン、フランスなどである。ギニアは西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、ガンビア川開発機構(OMVG)、マノ川同盟のほか、ロメ協定にも参加している。
[大林 稔]
社会・文化
住民は多数の民族からなるが、沿海ギニアのスースー、フータ・ジャロン地方のプール(フラニ)、上ギニアのマンディンゴ(マリンケ)が三大グループである。森林ギニアにはキシ・ゲルゼ人、トマ人などが住む。人口の大半がイスラム教徒であるが一部は伝統的宗教を信仰し、沿海地方にはキリスト教徒もいる。公用語はフランス語。経済の停滞および政治的理由から、約200万人が国外に居住しているといわれる。
ギニアの出生時平均余命は45年、成人識字率は34%で、ともに世界でもっとも低いグループに属する。義務教育は7~13歳までであるが、就学率は46%(1993)にすぎない。人口増加率は2.1%(1960~1993)でサハラ以南アフリカの平均2.8%を下回る。
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ギニア(地方名)
ぎにあ
Guinea
アフリカ西部、ギニア湾岸の地方名。広義にはアフリカ西端のベルデ岬からアンゴラ海岸までをさし、カメルーンのドゥアラ西方のカメルーン山とガボン沖合いのサントメ島を結ぶ線より、西を上ギニア、南を下ギニアとよぶ。狭義に使用するときは、リベリア東端のパルマス岬とガボンのロペス岬の間の海岸地方をさす。気候は高温多雨で、熱帯雨林型の植生を示す。
ギニアとはヨーロッパ人が名づけた名で、上ニジェールの商業都市ジェンネか、西スーダンの王国ガーナの転訛(てんか)とみられる。ヨーロッパの地図にギニアの名が現れるのは1350年だが、一般に使用されるようになったのは15世紀末である。ヨーロッパではギニアは金の産地と考えられていた。金を求めてポルトガル人が15世紀なかばに来航、しばらく交易を独占した。1530年以降、その他のヨーロッパ人も次々にギニア海岸に商館や堡塁(ほうるい)を建設し、交易を行った。海岸は、ヨーロッパ人により、主要な交易品にちなんで、穀物海岸(シエラレオネ、リベリア)、象牙(ぞうげ)海岸(コートジボワール)、黄金海岸(ガーナ)、奴隷海岸(トーゴ、ベナン、ナイジェリア)などの名称をつけて区分されたが、主要な「商品」はなんといっても奴隷であった。1870年までの間、新大陸向けの奴隷の大半はこの地方から「積み出され」た。
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