精選版 日本国語大辞典 「ギニア」の意味・読み・例文・類語
ギニア
- ( Guinea )
- [ 一 ] アフリカ西部、大西洋岸の地域の総称。広くはモロッコ南部からアンゴラ南部までを、狭くはギニア湾に面する地域をさす。一六世紀から一九世紀にかけてヨーロッパ諸国の貿易港が開かれ、交易商品の種類により穀物海岸、象牙海岸、黄金海岸、奴隷海岸などの名が付けられた。
- [ 二 ] =ギニアきょうわこく(━共和国)
- [ 三 ] ⇒せきどうギニア(赤道━)
- [ 四 ] ⇒ギニアビサウきょうわこく(━共和国)
翻訳|Guinea
基本情報
正式名称=ギニア共和国République de Guinée
面積=24万5857km2
人口(2010)=1054万人
首都=コナクリConakry(日本との時差=-9時間)
主要言語=フランス語,マリンケ語,フルフルデ語,スス語ほか
通貨=ギニア・フランGuinea Franc
西アフリカの南西端に位置する共和国。国土の西部は大西洋に面しているが,北はギニア・ビサウ,セネガル,マリと,東はコートジボアールと,南はシエラレオネ,リベリアとそれぞれ国境を接している。この地方が,さらに東のギニア湾に沿ったギニア地方の名にちなんで,ギニアと称されるようになったのは比較的新しく,1890年以後のことである。
大西洋に面した海岸線は,出入りが複雑で,かつ低湿なためマングローブが繁茂している。この海岸線から内陸に向かって,ギニアはその地勢と自然条件によって,大きく4地域に区分される。(1)海岸線につづく幅50~90kmの海岸平野は,低ギニアと呼ばれ,典型的な熱帯雨林地帯となり,年降水量は3000mmにも達する。(2)その内陸につづく中部ギニアは,平均標高900mのフータ・ジャロン山地からなる高原地帯である。この高原は約8万km2にもわたって広がっており,西アフリカ西部の内陸部と海岸地方との分水界をなしている。(3)ギニアの北東部は,草原と低い樹木によって占められたサバンナ地帯である。この地域は高ギニアと呼ばれ,この地を横切るティンキソ川をはじめ,西アフリカの長流ニジェール川の上流をなすいくつかの川の流域となっている。(4)南部ギニアはシエラレオネとリベリアとの国境地帯にあたり,花コウ片麻岩などからなる急峻な山地で,熱帯雨林におおわれている。この地方の最高峰は南東国境にある標高1768mのニンバ山であり,付近は年間2200mmに達する降水量を示す。
一年は雨季と乾季に分かれる。雨季は4月ころから11月ころまでつづき,あらしをともなった雨が集中的に降る。乾季にはサハラ砂漠方向からの乾いた熱風(ハルマッタン)が吹き,気温も高くなる。
執筆者:端 信行
ギニアの行政区分はほぼ地理的区分に沿って4区分され,住民のおもな分類もそれにしたがっている。海岸平野の低ギニア地域には,北からヨラ族,ナル族,バガ族,スス(ソソ)族が居住し,低湿地で稲作を行っている。首都コナクリとその北東の都市キンディアの住民は,マンデ系のスス族である。バガ族,ナル族や,ボケ近辺に居住するランドゥマ族は,言語的には大西洋岸West Atlantic語群に属し,セネガル共和国やガンビア共和国のセレル族,ウォロフ族と近縁である。
中部のフータ・ジャロン山地には牧畜民のフルベ族(フラニ,プール)のほか,トゥクロール族やマンデ系のジャロンケ族が居住する。さらに北にはコニアギ族とバッサリ族が居住する。北東部の高ギニア地域にはマンデ系のマリンケ族が居住し,ニジェール川上流部で稲作農耕を行っている。
南部のシエラレオネ共和国,リベリア共和国,コートジボアール共和国と境を接する森林地域はコーヒー栽培地帯であるが,キシ族,トマ族,マノン族,ゲルゼ族などの部族が居住している。公用語はフランス語であるが,そのほかおもな住民の言語人口は,マリンケ語が40%,フルフルデ語(フルベ族)が30%,そしてスス語が23%を占めている。スス族,フルベ族そしてマリンケ族は他部族にくらべて人口も多く,重要な部族となっている。
住民の90%はイスラム教徒であるといわれている。この地域にイスラムを持ち込むにあたり,フルベ族が重要な役割を果たした。フルベ族は一般に牛を飼う遊牧民として知られている。サハラ南縁のマリ,ニジェール,ナイジェリア,カメルーンなどに広く分布しているが,言語的には西アフリカ西端の大西洋岸語群とつながりがある。フータ・ジャロン地方には,17世紀にはイスラム化したフルベ族が移住しており,かなり定住的な生活を行っていた。18世紀に入るとフルベ族はジハード(聖戦)を起こし,ティンボを首都とするイスラム国家を形成し,この地方は西アフリカのイスラムの中心となった。19世紀にはトゥクロール族のハジ・ウマルが立ち上がり,セネガンビア地方からさらに東のニジェール川流域地方へと進出して,広大な領域を持つイスラム国家を形成した。ついで19世紀末にはマンデ系のサモリ・トゥーレが出てサモリ帝国を形成し,当時進出を開始したフランス植民地勢力に抵抗した。サモリは現在でも国民的英雄として愛されている。イスラムが普及しているとはいえ,なお伝統的生活様式も村落部では強く残っており,その事情はマリンケ族出身のカマラ・ライエCamara Laye(1928-80)の自伝的小説《黒い子》(1953。邦訳《アフリカの子》)にもうまく描かれている。グリオと呼ばれる口頭伝承を語る吟遊詩人や呪術をつかさどる鍛冶師が,社会生活において重要な役割を担っている。割礼をともなう成人式の儀礼も広く行われている。
政府は教育制度の整備に熱心であり,1968年から八つの部族(スス族,マリンケ族,フルベ族,キシ族,ゲルゼ族,トマ族,バッサリ族,コニアギ族)の言語を国語として,そのアルファベット化もはかり,教育にとり入れようと努めている。
執筆者:赤阪 賢
現ギニア領の内陸は,判明している最も古い時期にはガーナ王国の領土であり,13世紀には,これを滅ぼしたマリ帝国の版図に入った。マリ帝国が15世紀に衰退した後には,ニジェール川中流にソンガイ帝国ほかいくつかの諸王朝の興亡がみられた。中部ギニアのフータ・ジャロン地方では18世紀に入ると,北方から移住していたフルベ族が急速にイスラム化し,周辺のマリンケ族を征服して一種の奴隷制の王国をつくりあげた。19世紀にはマリンケ族のサモリ・トゥーレが高地ギニアとマリ南部を平定,ビサンドゥグに首都を置くサモリ帝国が1870年に成立した。帝国は80年代末に最盛期を迎え,当時侵略を本格化したフランス軍と戦った。サモリはフランス軍の攻撃が激しくなった91年以降,軍隊,住民を率いて移動しつつ抵抗,フランス軍を悩ましたが,98年ついに敗走,逮捕され,2年後に流刑地のガボンで死去した。
ヨーロッパ人が最初にギニア地方に現れたのは,15世紀のポルトガル人の来航であったといわれる。この地方の分割戦が本格化するのは18~19世紀であり,イギリス,ポルトガル,フランスが貿易の独占を目ざして争ったが,最終的に1882年にフランスがギニア地方を自国領とした。当時ギニア地方はセネガル総督の下に置かれ,その沿岸地帯は〈南部河川地方Rivières du Sud〉と呼ばれた。95年,フランス領西アフリカ連邦の一構成領土となり,現在の版図がほぼ確定したのは99年である。しかしフランス植民地化への抵抗は激しく,サモリとの16年余の戦いの後も,辺境地帯では幾度も討伐作戦が行われた。ゲルゼ族の反乱を鎮圧した1911-12年の討伐がようやく最後のものとなった。ギニアで民族運動が再び活発となるのは,他のフランス領西アフリカ同様50年代である。1947年,アフリカ民主連合の支部ギニア民主党(PDG)が結成され,郵政職員出身でサモリの曾孫セク・トゥーレが書記長に就任した。PDGは急進的な主張を掲げ農村にも浸透した。58年9月のフランス第五共和政憲法下の住民投票で,ギニアは同憲法を拒否し,同年10月2日,唯一完全独立を選択,トゥーレが首相の地位についた。
唯一の政党PDGは児童を除く全国民が加盟し,アフリカで最も強力な組織をもつ党の一つといわれ,トゥーレ・セク大統領がPDGの書記長を兼務した。フランスから独立したギニアは,独自通貨ギニア・フラン(現在の名称はシリsyli)を発行しフラン圏を離脱,経済面でも自立を強めた。外交的には非同盟を標榜したが,独立直後はフランスとの関係悪化のためソ連との結びつきを強めた。
国内では農業集団化,流通国営化などの社会主義路線をとったが,生産の低下,インフレ,闇市,密貿易,汚職などに悩まされ,こうした経済不安を背景に大統領暗殺計画などの陰謀の摘発,粛清が繰り返された。また70年11月にはポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)の解放運動を支援するギニアに,ポルトガル人と亡命ギニア人の傭兵が侵入,首都を脅かす事件が起こっている。ギニア政府はこれら諸事件の背後に外国の介入があったとアメリカ,フランス,西ドイツや近隣諸国を非難し,西側諸国との関係改善は70年代半ばまではかどらなかった。77年8月,物資の不足と経済警察の横暴への不満からコナクリの市場で暴動が発生,これ以降PDGは民間商業の復活,農業集団化政策の柔軟化等の国内経済自由化政策に転じた。外交面でも翌年,長く対立関係にあったコートジボアール,セネガル両隣国と和解,またジスカール・デスタン仏大統領をコナクリに迎え,以後西側諸国との関係緊密化に向かった。
84年3月トゥーレが死亡し,ベアボギ首相が元首代行となったが,4月コンテ・ランサナ大佐Conté Lansana(1934- )による無血クーデタが起こった。コンテが大統領になり,PDGと国民議会は解散し,78年にギニア革命人民共和国と改めた国名をギニア共和国に戻した。
執筆者:大林 稔 コンテ大統領は89年10月,5年間の移行期間を経て民政移管すると発表。複数政党制,大統領の直接選挙などを盛り込んだ新憲法案は90年12月に国民投票で承認された。複数政党制で初の大統領選は93年12月にようやく実施され,現職のコンテが当選,95年6月の総選挙でも大統領与党の統一前進党(PUP)が勝利した。
執筆者:南 武志
ギニアは低所得国に分類されるが,1人当りGNPは550ドル(1995)とサハラ以南アフリカの平均(490米ドル)を上回る。しかしGNPはアルミニウムの原料であるボーキサイトの生産に大きく依存しており,国民の生活水準はサハラ以南アフリカの平均に及ばない。経済の停滞のため約200万人が国外に流出しているといわれる。1995年のギニアの経済構造は,農業24%,工業31%,サービス45%とアフリカの他の国と大きく変わるところはない。しかし工業のうち製造業は5%にすぎない(サハラ以南アフリカの平均は15%)。これはギニアの工業がボーキサイト生産に偏っているためである。他方,労働人口の87%は農業部門に雇用されている(1995)。主要農産物は米,キャッサバ,トウモロコシ,バナナ,パイナップル,ヤシ核などである。
ギニアは植民地時代には農業輸出地域であったが,独立後のトゥーレ・セク時代には鉱業開発が進み,世界有数のボーキサイト輸出国となった。反面,農業は衰退し食糧輸入国となった。また国民の貧困化が進んだ。植民地時代のギニアの生産構造は,自給的農業と,フランス人プランテーションとアフリカ人小農の換金作物栽培による輸出農産物生産からなっていた。主要輸出作物であったバナナの生産は,フランス領西アフリカ全体の8割を占めていた。第2次大戦後,世界の埋蔵量の3分の1を占めるといわれるボーキサイト鉱が注目され,フランス資本によって採掘が開始された。外交的孤立にもかかわらず,ボーキサイト開発およびアルミナ工場の建設は,政府と外資の合弁企業により着々と進展した。1978年にはボーキサイトの生産は約1200万tに達し,生産量のほぼ全量は輸出に向けられた。1960年には42対58であった鉱産物と農産物の輸出比率が78年には98対2となり,ギニアの輸出構造はボーキサイトに特化したものとなった。他方,製造業は独立以来みるべき発展をみせなかった。農村では社会主義的集団化,流通国営化の失敗のため輸出作物生産は低下した。また食糧生産も人口増加(年率3%)に追いつかず,目標とする食糧は達成できなかった。
荒廃した経済を受け継いだコンテ政権は,社会主義経済を廃止して経済の自由化に踏み切った。具体的には,構造調整プログラムを導入して内外の規制緩和,為替の切り下げ,財政の引き締めを実施した。しかし既得権層の抵抗,生活苦に対する都市住民の不満の増大から改革の速度は低下している。これに民間投資の停滞,国際アルミニウム価格の低迷が加わり,経済は本格的な復興の経路にのっていない。1995年のギニアの対外債務比率は対GNP比が91.2%,財・サービス輸出比率が453.4%と低・中所得国平均(各39.6%,151.4%)を大きく上回る。他方,国民1人当りで換算すると65.6米ドル(1993)の公的開発援助を受け取っている。これはサハラ以南アフリカの平均35.7米ドル(1993)の2倍弱にあたる。1975年よりロメ協定に参加し,西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に75年の創立時より加盟している。さらに80年よりリベリア,シエラレオネとのマノ川同盟(MRU)に加盟している。
執筆者:大林 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西アフリカ南西部、大西洋に面する国。正称はギニア共和国République de Guinée。北はギニア・ビサウ、セネガル、東はマリ、コートジボワール、南はシエラレオネ、リベリアと接する。面積24万5836平方キロメートル、人口815万(2000推計)、1052万3261(2014センサス)。首都はコナクリ。
[大林 稔]
ギニアは四つの地域に大別される。第一は海岸平野の沿海ギニア(下ギニア)で、年降水量3000~4000ミリメートルに達する熱帯雨林地帯である。首都のコナクリは年降水量3622ミリメートルと世界でもっとも雨量の多い首都として知られる。第二は内陸に続くフータ・ジャロン山地(中ギニア)で、標高600~1500メートル、年降水量1500~2300ミリメートルの台地である。第三はさらに内陸の上ギニアで、400~420メートルの低い台地をなし、年降水量1500ミリメートルを超えないスーダン型サバナである。そして第四は南部の熱帯雨林山地(森林ギニア)で、年降水量は2000~2700ミリメートルである。地方によって期間は異なるが、乾期、雨期の二つの季節をもつ。ギニアは雨量の多い山地、台地を有するので、セネガル川、ガンビア川、ニジェール川など西アフリカの主要な河川が源を発し、「西アフリカの水がめ」とよばれる。
[大林 稔]
ギニアのいくつかの地方は古くから栄えた諸帝国の一部であった。3世紀にはすでにガーナ帝国がギニアの一部を含むマンディンゴ王国をその支配下に置き、11世紀まで栄えた。13世紀に成立したマリ帝国もギニアの一部を支配し、14世紀にその繁栄の頂点に達したが、15世紀に入って衰退した。その後ニジェール川中流ではソンガイ帝国ほかいくつかの王朝が興亡した。フータ・ジャロン山地には17世紀末から18世紀にかけプール(フラニ)人が大量に移住した。そのなかでイスラム教勢力が強大となり、1726年にこの地域を制圧して神権国家をつくりあげた。上ギニアおよびマリ南部においては、マリンケ人のイスラム教徒サモリ・トゥーレがサモリ帝国を樹立、強力な軍隊と統治機構により強大な国家を組織した。この帝国は1870年に成立し、1880年代末に最盛期を迎え、当時この地方への侵略を本格化しつつあったフランス軍と衝突した。対フランス戦争は1891年から7年間続いた。サモリは軍隊と住民を率いて移動しつつ激しく戦ったが、1898年に捕らえられ、1900年流刑地ガボンで死亡した。やはりフランス軍と戦ったといわれるプール人のアルファ・ヤヤとともに、サモリは現ギニアの国民的英雄とされている。
ギニア地方に到来したヨーロッパ人は、記録によればポルトガル人が初めである。17世紀なかばまでポルトガル人とスペイン人がこの地の奴隷貿易を独占していたが、18、19世紀には各国が競って商館を設けた。列強の競合のすえ、ギニアは1882年、最終的にフランスの支配下に入った。当初ギニアはセネガルの付属地「南部河川地方」とされていたが、1890年に独立の行政単位とされ、1899年フランス領西アフリカの一部となった。しかし当時のギニアは現在の版図とは一致せず、今日の国境が定まったのは1904年である。同年ギニアはフランスの保護領から領土になった。以後ギニアは他のフランス領西アフリカと同様の歴史をたどった。しかし、1958年9月28日のフランス第五共和政憲法に対する住民投票では、ギニアだけが同憲法の拒否を表明した。10月2日ギニアはフランス共同体を離脱してフランスの植民地のなかで最初の独立国となり、セク・トゥーレが首相となった。
[大林 稔]
独立から1984年まではセク・トゥーレによる独裁の時代が続いた。独立運動を率いたセク・トゥーレは、初代大統領に就任すると社会主義的な国家建設を目ざし、すべての国民を単一政党となったギニア民主党(PDG)に統合した。さらに1978年には党と国家を正式に一体化し、国名をギニア共和国からギニア人民革命共和国に変更した。こうした独裁体制に反対する動きは絶えることなく、反政府陰謀の摘発と粛清が繰り返され、反対派は外国の陰謀の手先と非難された。
経済面では農業の集団化、流通と工業の国営化が進められた。しかし生産活動は衰退し、インフレが進行、闇(やみ)経済と汚職が横行した。1977年物資不足と経済警察の横暴に対する民衆の怒りから、全国の主要都市に暴動が広がった。この結果PDGは社会主義的経済政策を緩和し、商業の一部自由化、農業集団化の見直しなどを余儀なくされた。
1984年3月にセク・トゥーレは病死した。セク・トゥーレへの権力の集中によって支えられていたPDG一党体制は、その死からわずか8日後に起きたクーデターによって崩壊した。権力を掌握した国家再建軍事委員会(CMRN)議長ラザナ・コンテLansana Conte大佐は、ただちに大統領に就任、国名をふたたびギニア共和国に復すると同時に、人権と表現の自由の尊重を宣言、経済の自由化を約束し、26年間の社会主義体制に終止符を打った。
セク・トゥーレの死の直後には、亡命していたギニア人20万人が帰国するなど将来への国民の期待が高まった。しかし大統領コンテは民政移管を遅らせ、1980年代後半は強権的な軍政が継続した。また、人権面でも改善がみられなかった。1985年7月前首相トラオレDiarra Traoré(1935―1985)によるクーデター未遂事件が発生すると、事件の関係者およびトゥーレ政権の有力者に秘密法廷で死刑が宣言された。この司法手続きは、国際人権機関から批判を受けた。
1990年12月に第三共和国憲法草案が国民投票で承認され、民政への移行が始まった。しかし大統領と野党との間で移行手続きをめぐる対立が生じ、民政移管が終了するにはさらに5年の年月を要した。民主化により17の政党が公認されたが、コンテは与党の統一進歩党(PUP)を優遇し、反対派を弾圧した。社会的混乱と緊張のなかで1993年12月に大統領選挙が実施された。野党の分裂に助けられて、コンテが多数を獲得した。さらに1995年6月の国政選挙および地方選挙でも、与党PUPが大勝したが、野党はこれらの選挙に不正があったとして抗議した。第三共和制移行以後も政治は安定しなかった。1996年2月には給料の未払いから兵隊の反乱が発生し、大統領のコンテが一時拘束されるという事件が起きた。1998年12月の大統領選でコンテは再選された。2003年3選。
1990年よりリベリア、シエラレオネの難民数十万人が流入した。国際人権機関は、難民の増加による治安の悪化を人権抑圧の口実として利用しているとギニア政府を批判した。
セク・トゥーレ時代には、外国に対する不信感からギニアは外交的に孤立しがちであった。コンテ政権は対外関係の改善に努め、とくにフランスとの関係は大きく好転した。またイスラム国家との関係、なかでもイランとの関係は良好である。しかし地域的な問題では、ギニアがシエラレオネ、リベリアの内戦に介入しているとの批判もある。
[大林 稔]
ギニアは農鉱業およびエネルギー資源に恵まれているが、経済発展は遅れている。1人当りGDP(国内総生産)は550ドル(1995)とされているが、実際の国民の生活水準は1人当りGDPが200~300ドルの国の水準にある。ギニアの経済はセク・トゥーレ時代に荒廃した。1人当り国民所得は低下し、農業は衰退、農民は自給経済に回帰した。過度の規制のためボーキサイト採掘・輸出と政府関連部門以外の近代部門は発展せず、民衆はインフォーマル部門に依存する生活を送った。また政府財政の悪化から、教育、保健などの社会サービスも低下した。クーデター後、コンテ政権は経済の開放と自由化に踏み切り、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の協力を得て構造調整政策を進めた。そのため1986~1989年の実質成長率は4.5%に上昇した。しかしその後は不安定な政治と社会情勢の悪化のため、経済改革と民間投資は進まず、経済は停滞した。
農業(漁業・林業・狩猟を含む)は全労働力の87%を雇用しているが、GDPに占める割合は24%にすぎない。おもな食糧作物はキャッサバ、米であり、主要商品作物として果実、やし油、落花生、コーヒーを産する。鉱工業(鉱業、製造業、建設、電力)はGDPの約30%を占めるが、雇用面での貢献は2%以下である。中心をなすのはボーキサイト、ダイヤ、金などの鉱業でGDPの約20%を生産し、製造業は未発達である。ギニアは世界のボーキサイト資源の3分の1を埋蔵しているといわれ、1990年代なかばより海外資本による石油開発も開始されている。また、世界最大のボーキサイト輸出国であり、ボーキサイトとアルミニウムは全輸出の80%近く、政府の歳入の40~70%を占めている。ほかにも鉄鉱石、みかげ石、ウラニウム、コバルト、ニッケル、プラチナの埋蔵が確認されている。
ギニアはかつて農産品輸出国であったが、独立後は鉱業の発展と農業の衰退から、ボーキサイト輸出・食糧輸入国に転向した。おもな輸入相手国はフランス(29%、1993)、ほかにコートジボワール、アメリカ、香港(ホンコン)、ベルギーなどである。主要輸出先はアメリカ(20%、1993)を中心に、ベルギー、アイルランド、スペイン、フランスなどである。ギニアは西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、ガンビア川開発機構(OMVG)、マノ川同盟のほか、ロメ協定にも参加している。
[大林 稔]
住民は多数の民族からなるが、沿海ギニアのスースー、フータ・ジャロン地方のプール(フラニ)、上ギニアのマンディンゴ(マリンケ)が三大グループである。森林ギニアにはキシ・ゲルゼ人、トマ人などが住む。人口の大半がイスラム教徒であるが一部は伝統的宗教を信仰し、沿海地方にはキリスト教徒もいる。公用語はフランス語。経済の停滞および政治的理由から、約200万人が国外に居住しているといわれる。
ギニアの出生時平均余命は45年、成人識字率は34%で、ともに世界でもっとも低いグループに属する。義務教育は7~13歳までであるが、就学率は46%(1993)にすぎない。人口増加率は2.1%(1960~1993)でサハラ以南アフリカの平均2.8%を下回る。
[大林 稔]
アフリカ西部、ギニア湾岸の地方名。広義にはアフリカ西端のベルデ岬からアンゴラ海岸までをさし、カメルーンのドゥアラ西方のカメルーン山とガボン沖合いのサントメ島を結ぶ線より、西を上ギニア、南を下ギニアとよぶ。狭義に使用するときは、リベリア東端のパルマス岬とガボンのロペス岬の間の海岸地方をさす。気候は高温多雨で、熱帯雨林型の植生を示す。
ギニアとはヨーロッパ人が名づけた名で、上ニジェールの商業都市ジェンネか、西スーダンの王国ガーナの転訛(てんか)とみられる。ヨーロッパの地図にギニアの名が現れるのは1350年だが、一般に使用されるようになったのは15世紀末である。ヨーロッパではギニアは金の産地と考えられていた。金を求めてポルトガル人が15世紀なかばに来航、しばらく交易を独占した。1530年以降、その他のヨーロッパ人も次々にギニア海岸に商館や堡塁(ほうるい)を建設し、交易を行った。海岸は、ヨーロッパ人により、主要な交易品にちなんで、穀物海岸(シエラレオネ、リベリア)、象牙(ぞうげ)海岸(コートジボワール)、黄金海岸(ガーナ)、奴隷海岸(トーゴ、ベナン、ナイジェリア)などの名称をつけて区分されたが、主要な「商品」はなんといっても奴隷であった。1870年までの間、新大陸向けの奴隷の大半はこの地方から「積み出され」た。
[大林 稔]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アフリカの共和国。19世紀後半,サモリ・トゥーレがフランス軍に抵抗したのは有名だが,のちフランス植民地になった。1958年,フランス共同体加入を拒否し,独立した。セクー・トゥーレ大統領は厳格な社会主義政策をとったが,その裏で政敵を抹殺するという恐怖政治をしいた。民族的な迫害もなされ,多くの避難民を生み経済は停滞した。84年のセクー・トゥーレ大統領死去後,軍事政権となったが,93年12月複数政党制での大統領選挙が実施された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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