ガーナの政治家。パン・アフリカニズムの指導者。英領ゴールド・コースト(現,ガーナ)南西部沿岸のエンジマで,アカン族の鍛冶屋の子として生まれ,1930年首都アクラの師範学校を卒業,初等学校,カトリック系神学校で教員をつとめたのち,35-45年アメリカに,45年からイギリスに留学,西アフリカ学生同盟(ロンドン)副会長となった。45年10月の第5回パン・アフリカ会議(マンチェスター)ではパドモアとともに書記をつとめ,以後パン・アフリカニズムの第一の指導者として,運動の主導権をアメリカ黒人の手からアフリカ人の手に移すことに貢献した。47年帰国し,統一ゴールド・コースト会議書記長をへて,49年会議人民党を創設,その書記長としてゴールド・コーストの即時独立を目指す運動を指導。50年反英ストで逮捕され,翌年の総選挙に獄中から立候補して当選。釈放されて首相に就任した。57年のガーナ独立とともに初代首相,60年の共和制移行で初代大統領に就任,オサギエフォ(救世主)と呼ばれた。社会主義に裏打ちされたアフリカ大陸の政治的統一を強く主張し,アフリカ合衆国の創設を目指したが,中国を訪問中の66年2月軍部クーデタが起こって失脚し,友邦ギニアに亡命。復権の希望もむなしく,療養先のブカレストの病院で客死した。《わが祖国への自伝》(1957)ほか著書多数。
→パン・アフリカニズム
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1909~72
ンクルマともいう。ガーナの政治家,建国の父。イギリス領ゴールド・コースト時代のガーナで教育を受けたのち,1935~45年アメリカ,45年からはイギリスに留学し,西アフリカ学生同盟副会長となり,パン・アフリカニズムの指導者となった。47年,ガーナに帰国し民族運動を率いた。50年,反英ストで逮捕されるも,51年の総選挙では獄中から立候補し当選した。57年,ガーナ独立とともに初代首相(在任1957~60),60年共和政移行時に初代大統領(在任1960~66)。社会主義を基盤にしたアフリカ統一を唱えた。66年,クーデタにより失脚。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…先鞭をつけたのは47年に創設された統一ゴールド・コースト会議(UGCC)で,〈できるだけ早く自治を達成すること〉を目標に運動を展開した。1935‐45年のアメリカ留学を終えてロンドンでパン・アフリカニズム運動を推進していたエンクルマは,請われて帰国ののちUGCCの書記長に就任し,48年2~3月に起こった一連のデモや暴動を機に,ゴールド・コーストの行政権を〈族長と民衆の代表からなる暫定政府〉に即時移譲するよう要求した。しかしイギリスはこれを拒否し,エンクルマを含むUGCCの幹部を逮捕するといった強硬手段にでたため,UGCC指導部内にエンクルマの急進主義に対する批判が強まり,彼は書記長を解任された。…
…同連盟の準備活動を基礎に,第2次世界大戦直後の45年10月マンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。この会議は,運動の主導権がそれまでのアフリカ系知識人からエンクルマらアフリカ知識人に移ったこと,多数のアフリカの政党,政治組織の参加を得てアフリカ・ナショナリズムと結合したこと,などの点で画期的な会議であった。 これ以後パン・アフリカニズムはアフリカ大陸に導入され,アフリカの独立と統一を直接の目標として一大飛躍を遂げた。…
※「エンクルマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一粒の種子をまけば万倍になって実るという意味から,種まき,貸付け,仕入れ,投資などを行えば利益が多いとされる日。正月は丑(うし),午(うま)の日,2月は寅(とら),酉(とり)の日というように月によって...
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加