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カッターネオ Cattaneo, Carlo

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カッターネオ
Cattaneo, Carlo

[生]1801.6.15. ミラノ
[没]1869.2.6. スイス,ルガーノ近郊
イタリアの文学者,数学者,法律学者,言語学者,民族学者。 1839年に進歩的な文化雑誌『ポリテクニコ』 Il Politecnicoを発刊。 1848年の革命時にはミラノで民衆を指導したが,オーストリア政府の復権後,スイスに亡命。同地で『ポリテクニコ』を再刊し,リソルジメント (国家統一運動) に力を尽した。主著『ロンバルディア地方の自然と文化について』 Notizie naturali e civili su la Lombardia (1844) 。

カッターネオ
Cattaneo, Danese (di Michele)

[生]1509頃.カラーラ
[没]1573. パドバ
イタリアの彫刻家。ヤコボ・サンソビーノの弟子として,ローマ,フィレンツェベネチアで共同制作。 1533年ペルジャで聖アントニオ聖堂の礼拝堂に石膏浮彫を制作。 65年以後ベロナ,ベネチアで活躍し,72年再びパドバにおもむき,聖アントニオ聖堂の礼拝堂のために大浮彫を計画したが,制作のなかばで没した。

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世界大百科事典 第2版の解説

カッターネオ【Carlo Cattaneo】

1801‐69
イタリアの歴史家,経済学者,政治活動家。ミラノ生れ。1839‐44年科学・文化に関する雑誌《ポリテークニコ》を主宰。48年3月〈ミラノの五日間〉と呼ばれる有名な反オーストリア蜂起では,〈戦争協議会〉の代表者として指導的役割を果たした。しかしオーストリアに対する軍事的勝利が確定し,臨時政府が樹立されると,サルデーニャ王国の介入に反対する彼の立場は少数派に転じた。その後オーストリア軍が再びミラノを奪還すると,パリに逃れ,のちルガノに移った。

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世界大百科事典内のカッターネオの言及

【ポリテクニコ】より

…1839年C.カッターネオによって創刊されたミラノの科学・文化誌。月刊誌として発足したが,2年目から隔月刊となる。…

【リソルジメント】より

…他方,民主主義派では48年革命の敗北後,国家統一と社会革命の関係をめぐって激しい論争が生じた。マッツィーニがイタリアの主導性,国家統一の最優先,社会革命の否定という立場をとるのに対して,ミラノ革命で活躍したC.カッターネオG.フェラリのグループは連邦共和制,政治革命と社会革命の結合,フランス共和派との連携を唱えて反マッツィーニ派の結集を図った。C.ピサカーネは国民的再生の運動は社会革命なしには実現しえないとしたが,フェラリらと違ってフランスに依存せずイタリア独自の主導性をもたねばならないと主張し,57年にサプリ遠征を試みた。…

※「カッターネオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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