イタリア北部ロンバルディア州の州都で、商業や工業、金融の中心都市。人口は約126万人とローマに次ぎ2番目。古くから服飾や繊維などファッション産業が盛んで、毎年春と秋の2回開催されるミラノ・コレクションには世界から有名デザイナーが参加する。建築やデザイン、アートなどの国際見本市も多数開かれる。観光地としても人気で、町のシンボルでもある大聖堂や、イタリア・オペラの殿堂、スカラ座などが有名。(ミラノ共同)
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イタリア北部,ロンバルディア州の州都で,またミラノ県の県都。ミラノ市の人口は131万(2005)であるが,北イタリアの工業地帯の中心都市として周辺の都市を合わせた大都市圏を形成して,ミラノ大都市圏の人口は約300万に達する。ミラノ県は人口約372万(2003),イタリアの中で都市化と工業化が最も進んだ県であり,南部は穀物栽培と酪農が盛んであるとはいえ,農業人口の比率は5%に満たない。1人当り可処分所得も,イタリアのなかで,ジェノバ県に次いで高い。
地形的には,ランブロ川,オロナ川など,ポー川の支流が乱流してつくり上げた氷河および河川の堆積物からなる複合扇状地の上に位置している。ローマ時代のミラノの中心は,現在のドゥオモ(ミラノ大聖堂)のすぐ南に位置していたことが遺跡によって確認されているし,近代のミラノ市の中心は,ドゥオモとミラノ城とを結ぶ軸であったから,ミラノの歴史的中心部は,2000年以上にわたって変わらずに,市街地が連続して存在してきたことになる。市を取り巻く城壁には,875年から880年にかけて建設されたもの,12世紀のフリードリヒ1世(バルバロッサ)による破壊の後に建設されたもの,スペイン統治下の16世紀前半に建設されたものがあり,それぞれミラノの外延的発展の跡を示している。12世紀の城壁に囲まれたミラノの面積は約3km2で,環状の道路によってその跡が確認される。16世紀前半のものは,城門の一部や城壁が部分的に残っているが,取り壊されて環状道路(チルコンバラツィオーネ)になっており,それによって囲まれた市街地の面積は約13km2である。
都心部から放射状に道路網が各城門に向かって延びていて,近代における城壁外への発展も,この放射状道路網に沿ってなされたという点で,ミラノはイタリアの大都市のなかでは,典型的な,放射状および環状道路網を備えた都市である。18世紀末,北および北東に向かって,すでに城壁外に市街地が拡大し始めていたが,19世紀後半,産業革命期,およびそれに続く重化学工業化の時期における工業地帯の発展も,北西,北,および北東に向かってなされた。豊かな水田地帯の広がる東方および南方に郊外の住宅地や工業地帯が本格的に発展し始めるのは,第2次大戦後のことである。
第2次大戦中,とくに1943年の空襲によって,ミラノには大きな被害があり,多くの建物が破壊された。有名なレオナルド・ダ・ビンチの《最後の晩餐》のあるサンタ・マリア・デレ・グラーツィエSanta Maria delle Grazie教会(15世紀後半)も土囊を積んで保護してあった壁画部分を残して瓦れきの山と化した。第2次大戦後,爆撃による被害の修復と,イタリアの経済中枢としての急速な発展に対応すべく都心部の再開発および郊外の整備が行われた。都心部の再開発として,ドゥオモ周辺部の古い建物を取り壊して高層化がなされ,また,都心部と中央駅との間の地帯を新しく業務中心地区として再整備する計画が実行され,そこに,ピレリ本社をはじめとする多くの高層建築が出現し,ミラノの都心部はその様相を一変した。また,住宅地が,西,東および南に向かって拡大し,現在のミラノの市街地は,行政単位としてのミラノ市の外側にまで広がっている。ミラノは,欧米都市の中では,珍しく路面電車網が今なお,公共交通機関として重要な役割を果たしているが,都市部で交わって郊外に延びる2本の地下鉄路線も市民の足として重要である。
歴史的にみると,ミラノは北イタリア諸都市を結ぶ道路網の中心であったばかりでなく,大運河,パビア運河など,いくつかの運河がミラノに集まっていて,ポー川水系と結ばれ,水上交通の中心でもあった。運河の一部は現在でも盛んに利用されている。現在のミラノは,交通の結節点として,鉄道網の中心であるのみでなく,トリノ方面,ジェノバ方面,ボローニャ,フィレンツェを経てローマ方面,ベネチア方面およびコモを経てスイス方面へ向かう多くの高速自動車道の起点になっている。
イタリアにおける政治の中心はローマで,経済の中心がミラノである。民間大企業および国家資本が参加している企業の本社の大部分はミラノにあり,特に金融業に関しては,イタリアの中心であるだけでなく,西ヨーロッパ金融業界の中心の一つでもある。このような事情を反映して,日本の主要な商社,金融機関の多くが,ミラノに支店または代理店を開設している。
19世紀からミラノには,繊維産業をはじめとする軽工業が発達していたが,水力電力の開発とともに,19世紀末ころから重化学工業地帯が,ミラノ市の北郊および隣接するモンツァおよびセスト・サン・ジョバンニにかけて,多く立地した。1930年代から,西および東の郊外に,機械工業などの工場が建設され始め,第2次大戦後この傾向はますます強まった。これらの重化学工業と並んで,近くのコモを中心とする繊維産業,カントゥを中心とする家具製造などの地場産業も,ミラノ大都市圏の産業として重要である。60年代になると,かつての水田地帯であった南部にもさまざまな種類の中小の工場が建設された。
イタリアの文化的および政治的分権的傾向を反映して,イタリアの出版業は,特に一都市に集中するという傾向はなかったが,第2次大戦後,大衆雑誌やペーパーバックの普及に伴って,ミラノは出版業に関しても,イタリアの他の都市を大きく引き離して,イタリアで大きな比重を占めるようになった。ミラノの代表的新聞《コリエーレ・デラ・セーラ》は,依然として北イタリアで広く読まれているとはいえ,全国紙的傾向をもつようになってきている。
音楽におけるスカラ座,演劇におけるピッコロ・テアトロなどを通じて,舞台芸術においてもミラノは国際的な中心になっている。その他,美術の創作活動,ファッション産業などでも,ミラノは,他のイタリア諸都市とは違った独自の特色をもっている。学術面でも,ミラノ国立大学,工科大学,ボッコーニ商科大学,聖心カトリック大学と,イタリアの都市の中で最も多くの大学をもっている。
ミラノの起源は,前400年ころ,ケルト人によって建設された交易の中心,軍事的拠点を兼ねた都市であるが,前3世紀,ローマ人によって征服され,メディオラヌムMediolanum,すなわち〈平野の中の町〉といわれるようになった。これが現在の地名の起源であり,前1世紀ころから,北イタリアの商業,産業および文化の中心として急速な発展を遂げた。
ミラノにキリスト教が伝えられたのは,1世紀末であるが,374年ミラノ司教に選ばれたアンブロシウスのもとで,北イタリアにおけるキリスト教の中心地としても重要な都市になった。386年に彼が創建したサンタンブロージョ教会は,その後11~12世紀に修理されて現存している。アンブロシウスはミラノの守護聖人であり,その祝日12月7日は,ミラノの祝日で,たとえばスカラ座の初日は毎シーズンこの日に決まっている。
何回かのゲルマン諸族による占領および略奪にもかかわらず,ミラノは6世紀後半,ランゴバルド族によって,征服されるまで,基本的にはローマ都市としての性格を保ち続けた。ランゴバルド王国のもとで,ミラノはすっかり没落したが,9世紀末から政治・経済の中心として徐々に北イタリアにおいて重きをなすようになった。1097年には,憲章を定めて自治都市(コムーネ)になった。
1161年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって市は破壊されたが,76年にはロンバルディア同盟の一員として,レニャノの戦において皇帝軍を破り自治権を拡大した。12世紀末からは,ティチノ川およびアッダ川を結ぶ運河網が建設され始め,また,近郊農村では土地改良が進められて,ロンバルディアの中心としてのミラノの地位が固められた。政治的には,13世紀末にはビスコンティ家がミラノのシニョーレ(シニョリーア制)となり,以後わずかの中継を除いて,1447年までビスコンティ家の支配が続いて,ミラノはおおいに繁栄した。1386年には,ジャン・ガレアッツォ・ビスコンティによって,壮大なドゥオモの建設が開始された。
短期間の共和政の後,1450年,ビスコンティ家のもとでの将軍であったフランチェスコ・スフォルツァがシニョーレとなり,1535年スペインのハプスブルク家の支配下にはいるまで,スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に現存するミラノ城の再建,大病院の建設などがなされ,ブラマンテ,レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする芸術家も集まって,ミラノは黄金時代を迎えた(1809年に開設されたブレラ美術館Pinacoteca di Breraなど,現在も多くの美術館がある)。
スペイン支配および17世紀前半における疫病の蔓延などもあって,ミラノは一時沈滞期を迎えるが,1707年に始まるオーストリア支配のもとで,さまざまな経済改革が実施され,繊維産業をはじめとする工業も興り,ミラノは経済的におおいに発展した。この繁栄は,1814年オーストリアの直接支配が始まる頃まで続いたが,それ以後は,ナポレオン戦争によって喚起されたナショナリズムと,他方,重税とミラノにとっては不利なオーストリアの保護貿易政策による経済的沈滞のために,ミラノ人の反オーストリア感情は強まっていった。1848年には〈ミラノの五日間〉と呼ばれる反オーストリア蜂起が起こり,やがて59年ミラノはサルデーニャ王国によって占領され,イタリア王国のもとで新しい発展を遂げる。
執筆者:竹内 啓一
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イタリア北西部、ロンバルディア州の州都。英語およびフランス語名ミランMilan。面積約182平方キロメートル、人口118万2693(2001国勢調査速報値)。イタリア最大の工業都市で、同国のいわば「経済的首都」である。ロンバルディア平原の中央部、オローナ川とランブロ川に沿った標高122メートル地点に位置する。シンプロン峠、シュプリューゲン峠、サン・ゴタルド峠などを通るアルプス越えの道路が集中する交通の要衝で、ローマ(「太陽道路」)、トリノ、ジェノバ(「花の高速道路」)、ベネチアなどの大都市とも高速道路によって結ばれている。
[堺 憲一]
ロンバルディアの平野部における豊かな農業生産や、丘陵地帯で生産される生糸を経済的基盤としながらも、国家統一(1861)期のミラノは依然として商業都市の域を出なかった。ところが、1870年から1920年にかけて、カントーニ(綿業)、ピレッリ(ゴム)、エジソン(電力)、ブレダ(機械)、ファルク(製鉄)、アルファ・ロメオ(自動車)などの企業の創設・発展をみ、第一級の工業都市に転身した。現在は機械、製鉄、化学、薬品、石油化学、ゴム、電気、繊維などきわめて多様な工業活動が展開している。トリノにあるフィアット社を除けば、イタリアの大企業のほとんどが本社をミラノに置いており、全国の株式会社の資本金の約40%がこの地に集中している。もっとも、大企業の実際の生産機構については、とくに第二次世界大戦後は市の周辺部に分散する傾向がみられ、市内に残るものの多くは中小規模の生産単位である。それゆえ、ミラノの場合は広範囲な周辺地域を含めて一つの大工業地帯を形成しているといえる。1861年には約24万人にすぎなかった人口は、1973年にピークの174万5220人を記録し、以後減少傾向を続けている。
[堺 憲一]
近代的な商工業都市ミラノは、また多くの歴史的建築物、博物館、美術館、大学などに囲まれた文化と伝統が息づく町でもある。市の中心部にあるドゥオモ(大聖堂)は、1386年にビスコンティ家のジャン・ガレアッツォ・ビスコンティの意向を受けて着工され、1809年にナポレオンの命令でようやく完成をみたイタリアにおけるゴシック様式の代表的建築物である。ルネサンス様式のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(1464~90ころ)には、レオナルド・ダ・ビンチの不朽の名作である壁画『最後の晩餐(ばんさん)』が収められている。374年にミラノの大司教となり、いまでも同市の守護聖人となっている聖アンブロシウスによって創設され、彼の遺骨が祀(まつ)られているロマネスク様式のサンタンブロージョ教会(11世紀に再建)も名高い。ルネサンス期ミラノの支配者フランチェスコ・スフォルツァFrancesco Sforza(ミラノ公1450~66)によってつくられ、現在では博物館となっているスフォルツァ城、国際的に有名なオペラの殿堂スカラ座(1776~78)、ドゥオモ広場とスカラ座前の広場を結び、ガラス張りの天井を有するビットリオ・エマヌエレ2世アーケード(1865~77)などもみるべき建築物である。美術館では、ルネサンス時代の名画を集めたアンブロジアーナ絵画館、とくに15~18世紀のロンバルディア派やベネチア派の絵画などを収めたブレラ美術館が知られる。大学にはボッコーニ商科大学(1902)、カトリック大学(1920)、ミラノ大学(1924)などがある。毎年4月に国際見本市(いち)が開催される。
[堺 憲一]
紀元前222年、ローマは先住のケルト人を征服し、ミラノを得た。紀元後3世紀、ゲルマン人の脅威の増大に対処する重要軍事拠点となり、同世紀末にディオクレティアヌス帝の改革で帝国西部の行政中心地となった。404年の行政府のラベンナ移行まで西帝の本拠であった。聖アンブロシウスがミラノ大司教に就任し(374)、アリウス派異端を反駁(はんばく)してから、ミラノ大司教はローマ大司教にも劣らぬ権威をもった。5世紀以後、異民族の侵入に悩まされたが、こうしたなかでミラノ大司教はしだいに世俗権力を獲得し、オットー諸帝時代(10世紀後半)には大封建領主となった。11世紀、皇帝の援助で大司教の権力から独立化した大司教の封臣は都市貴族となり、商工業の発展で有力化していた市民層と一時対立したが、1067年この両者が共同でコムーネ(都市共同体)を形成し、大司教の権力は後退した。
イタリアの支配を目ざした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)はロンバルディア都市同盟に敗北し、1183年両者間にコンスタンツの和約が成立したが、ミラノ都市共同体はこの和約で広範な自治権を得た。すでにミラノはロンバルディアの一大勢力であり、毛織物やアルプス諸鉱山を背景にした武具の生産で繁栄していた。1237年皇帝フリードリヒ2世に対する敗北が契機となり、従来の都市貴族と新興の商・工業者との対立がいっそう激化した。1277年前者の代表ビスコンティ家が政権を獲得し、やがて1395年、同家のジャン・ガレアッツォの公位獲得によりミラノ公国が成立した。公国はイタリアの一大勢力となり、ルネサンス文化の一中心地となった。ビスコンティ家にかわりスフォルツァ家が公位を継いだが、1515年強大なフランス王フランソア1世に公国の譲渡を余儀なくされた。
イタリア戦争でフランソア1世に勝利した皇帝カール5世(カルロス1世)は、1535年ミラノを獲得し、やがて1540年息子フェリペ2世に与えた。以後ミラノはスペインの過酷な支配を受け、その政治的・経済的重要性はしだいに減少した。1714年スペイン継承戦争でオーストリアに帰属し、18世紀後半、その啓蒙(けいもう)主義的政治により経済がかなり発展した。1796年以後ミラノはナポレオン1世の支配を受けたが、1815年オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国の一部となり、1859年サボイア王国(後の統一イタリア王国)へ併合された。イタリアでいち早く産業革命を達成したミラノは現在に至るまで同国の一大経済中心地となっている。
[斉藤寛海]
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イタリア北部ロンバルディア地方の中心都市。前5世紀にガリア人により建設され,前2世紀にローマに服属。ローマ帝国の東西分裂により,西ローマ帝国の首都となる。4世紀にはアンブロシウスによってキリスト教化され,大司教座が置かれた。西ローマ帝国の崩壊後,ランゴバルド,フランクに服属。11世紀には自治都市となり,毛織物業などで発展する。1162年にはフリードリヒ1世に包囲され破壊されるが,ロンバルディア同盟の支援により再建され,同盟の中心都市となった。13世紀末にヴィスコンティ家が政治の実権を握り,14世紀末には同家のジャンガレアッツォはロンバルディア全域を征服してミラノ公国の基礎を築いた。15世紀後半に傭兵出身のスフォルツァ家が実権を握るが,1499年にフランスに支配されるとその後は外国勢力の支配を受けた。1535年からはスペイン・ハプスブルク家,1706年からはオーストリアの支配に服し,後者のもとでは啓蒙改革が行われ経済的に発展した。ナポレオン期にはチザルピーナ共和国,イタリア共和国の首都となったが,ウィーン体制後は再びオーストリアの支配に服し,1859年のイタリア‐オーストリア戦争の過程でサルデーニャ王国に併合された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…イタリアの詩人。当時オーストリアの支配下にあったミラノで官吏の子に生まれ,長じて父同様に官職についたが,かたわらミラノの文学伝統に正当な位置を占める方言詩の創作に励み,またロマン派の若い文学者のサークルに加わった。方言を用いて明らかに古典主義への反抗を意図したそのリアルな筆法は,修道士を辛辣に風刺する一方,貧民の生活を冷静に描き出した。…
…面積2万3804km2,人口889万8653(1981)。州都はミラノ。地名は,中世初頭ビザンティン勢力のもとにあったラベンナを中心とする地方をロマーニャと呼んだのに対置して,6世紀以降,ロンゴバルド(ランゴバルド)族の勢力下にあった地帯を,ロンゴバルディアLongobardiaと呼んだのに由来している。…
※「ミラノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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