日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミラノ」の意味・わかりやすい解説
ミラノ
みらの
Milano
イタリア北西部、ロンバルディア州の州都。英語およびフランス語名ミランMilan。面積約182平方キロメートル、人口118万2693(2001国勢調査速報値)。イタリア最大の工業都市で、同国のいわば「経済的首都」である。ロンバルディア平原の中央部、オローナ川とランブロ川に沿った標高122メートル地点に位置する。シンプロン峠、シュプリューゲン峠、サン・ゴタルド峠などを通るアルプス越えの道路が集中する交通の要衝で、ローマ(「太陽道路」)、トリノ、ジェノバ(「花の高速道路」)、ベネチアなどの大都市とも高速道路によって結ばれている。
[堺 憲一]
工業
ロンバルディアの平野部における豊かな農業生産や、丘陵地帯で生産される生糸を経済的基盤としながらも、国家統一(1861)期のミラノは依然として商業都市の域を出なかった。ところが、1870年から1920年にかけて、カントーニ(綿業)、ピレッリ(ゴム)、エジソン(電力)、ブレダ(機械)、ファルク(製鉄)、アルファ・ロメオ(自動車)などの企業の創設・発展をみ、第一級の工業都市に転身した。現在は機械、製鉄、化学、薬品、石油化学、ゴム、電気、繊維などきわめて多様な工業活動が展開している。トリノにあるフィアット社を除けば、イタリアの大企業のほとんどが本社をミラノに置いており、全国の株式会社の資本金の約40%がこの地に集中している。もっとも、大企業の実際の生産機構については、とくに第二次世界大戦後は市の周辺部に分散する傾向がみられ、市内に残るものの多くは中小規模の生産単位である。それゆえ、ミラノの場合は広範囲な周辺地域を含めて一つの大工業地帯を形成しているといえる。1861年には約24万人にすぎなかった人口は、1973年にピークの174万5220人を記録し、以後減少傾向を続けている。
[堺 憲一]
文化施設
近代的な商工業都市ミラノは、また多くの歴史的建築物、博物館、美術館、大学などに囲まれた文化と伝統が息づく町でもある。市の中心部にあるドゥオモ(大聖堂)は、1386年にビスコンティ家のジャン・ガレアッツォ・ビスコンティの意向を受けて着工され、1809年にナポレオンの命令でようやく完成をみたイタリアにおけるゴシック様式の代表的建築物である。ルネサンス様式のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(1464~90ころ)には、レオナルド・ダ・ビンチの不朽の名作である壁画『最後の晩餐(ばんさん)』が収められている。374年にミラノの大司教となり、いまでも同市の守護聖人となっている聖アンブロシウスによって創設され、彼の遺骨が祀(まつ)られているロマネスク様式のサンタンブロージョ教会(11世紀に再建)も名高い。ルネサンス期ミラノの支配者フランチェスコ・スフォルツァFrancesco Sforza(ミラノ公1450~66)によってつくられ、現在では博物館となっているスフォルツァ城、国際的に有名なオペラの殿堂スカラ座(1776~78)、ドゥオモ広場とスカラ座前の広場を結び、ガラス張りの天井を有するビットリオ・エマヌエレ2世アーケード(1865~77)などもみるべき建築物である。美術館では、ルネサンス時代の名画を集めたアンブロジアーナ絵画館、とくに15~18世紀のロンバルディア派やベネチア派の絵画などを収めたブレラ美術館が知られる。大学にはボッコーニ商科大学(1902)、カトリック大学(1920)、ミラノ大学(1924)などがある。毎年4月に国際見本市(いち)が開催される。
[堺 憲一]
歴史
紀元前222年、ローマは先住のケルト人を征服し、ミラノを得た。紀元後3世紀、ゲルマン人の脅威の増大に対処する重要軍事拠点となり、同世紀末にディオクレティアヌス帝の改革で帝国西部の行政中心地となった。404年の行政府のラベンナ移行まで西帝の本拠であった。聖アンブロシウスがミラノ大司教に就任し(374)、アリウス派異端を反駁(はんばく)してから、ミラノ大司教はローマ大司教にも劣らぬ権威をもった。5世紀以後、異民族の侵入に悩まされたが、こうしたなかでミラノ大司教はしだいに世俗権力を獲得し、オットー諸帝時代(10世紀後半)には大封建領主となった。11世紀、皇帝の援助で大司教の権力から独立化した大司教の封臣は都市貴族となり、商工業の発展で有力化していた市民層と一時対立したが、1067年この両者が共同でコムーネ(都市共同体)を形成し、大司教の権力は後退した。
イタリアの支配を目ざした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)はロンバルディア都市同盟に敗北し、1183年両者間にコンスタンツの和約が成立したが、ミラノ都市共同体はこの和約で広範な自治権を得た。すでにミラノはロンバルディアの一大勢力であり、毛織物やアルプス諸鉱山を背景にした武具の生産で繁栄していた。1237年皇帝フリードリヒ2世に対する敗北が契機となり、従来の都市貴族と新興の商・工業者との対立がいっそう激化した。1277年前者の代表ビスコンティ家が政権を獲得し、やがて1395年、同家のジャン・ガレアッツォの公位獲得によりミラノ公国が成立した。公国はイタリアの一大勢力となり、ルネサンス文化の一中心地となった。ビスコンティ家にかわりスフォルツァ家が公位を継いだが、1515年強大なフランス王フランソア1世に公国の譲渡を余儀なくされた。
イタリア戦争でフランソア1世に勝利した皇帝カール5世(カルロス1世)は、1535年ミラノを獲得し、やがて1540年息子フェリペ2世に与えた。以後ミラノはスペインの過酷な支配を受け、その政治的・経済的重要性はしだいに減少した。1714年スペイン継承戦争でオーストリアに帰属し、18世紀後半、その啓蒙(けいもう)主義的政治により経済がかなり発展した。1796年以後ミラノはナポレオン1世の支配を受けたが、1815年オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国の一部となり、1859年サボイア王国(後の統一イタリア王国)へ併合された。イタリアでいち早く産業革命を達成したミラノは現在に至るまで同国の一大経済中心地となっている。
[斉藤寛海]