カンボジア紛争(読み)かんぼじあふんそう(英語表記)Cambodian conflict

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

カンボジア紛争
かんぼじあふんそう
Cambodian conflict

ベトナムのカンボジア侵攻に端を発し、中国・旧ソ連およびASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)諸国をも巻き込んで争われた国際的内戦。カンボジア独立(1953)後の反米的シアヌーク政権を不満としたロン・ノルLon Nol(1913―1985)は、1970年のクーデターによりシアヌークを排除、親米の「クメール共和国」を樹立し実権を握った。失脚したシアヌークは、亡命先の北京(ペキン)でクメール・ルージュ(ポル・ポト派)と手を結び、1975年にプノンペンを武力制圧した。クメール・ルージュは、翌1976年にポル・ポト独裁の「民主カンボジア」を宣言、国内的には大量虐殺を伴う共産化政策を、対外的には中国を後ろ盾とする反ベトナム政策を展開した。これに反発したベトナムは、旧ソ連に依存することによって中国に対抗する一方、1978年12月、カンボジアに侵攻、翌1979年に親ベトナム派の「カンボジア人民共和国」(ヘン・サムリン政権)を樹立し、カンボジアはふたたび内戦状態に陥った。[黒柳米司]

パリ和平協定

ベトナムの軍事占領下でカンボジアを実効支配するヘン・サムリン政権の既成事実化に反対する中国とASEAN諸国は、1982年、正統政府ながら劣勢で孤立したポル・ポト政権を強化すべく、シアヌーク派の独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC(フンシンペック))、ソン・サン派のカンボジア人民民族解放戦線(FNLPK)を加えた三派連合政府「民主カンボジア連合政府(CGDK)」を成立させ、同政権による国連代表権の維持に成功した。
 かくして内戦は長期泥沼化したが、1980年代後半から始まった脱冷戦や中ソ関係正常化といった国際環境の激変に伴い、
(1)カンボジア対立諸派の直接対話
(2)ベトナム軍の撤退
(3)カンボジア和平のためのジャカルタ非公式会議やパリ国際会議の開催
など、一連の条件整備が進んだ。この結果1991年10月、カンボジア諸派、国連安全保障理事会常任理事国、ASEAN・インドシナ諸国、日本などが合意する、いわゆる「パリ和平協定」が成立した。同協定の眼目は、
(1)カンボジア諸派で構成するカンボジア最高国民評議会(SNC。議長シアヌーク)が同国の主権を代表する
(2)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))が、停戦そして武装・動員解除を経て総選挙を実施する
(3)民意に基づく新政府の下で非同盟中立のカンボジアの恒久平和を実現する
ことにあった。[黒柳米司]

総選挙を実施

1992年3月、パリ和平協定に基づきUNTAC(代表は国連事務総長特別代表明石康(あかしやすし))が設立され、総選挙実施への地固めが始まった。しかしクメール・ルージュは、ベトナム軍の残留、プノンペンのヘン・サムリン政権の存続を不満として、和平プロセスの第二段階「武装・動員解除」の実行を拒否、10月には選挙不参加を表明した。以降続発したクメール・ルージュのテロ活動を含む妨害にもかかわらず、カンボジア総選挙は1993年5月23~28日、89%余りの投票率で実施され、シアヌーク派改めラナリット派(FUNCINPEC)58議席、ヘン・サムリン政権(カンボジア人民党=CPP)51議席、ソン・サン派(仏教自由民主党)10議席、その他1議席という制憲議会が成立した。6月、シアヌークは制憲議会の権限委譲を受け、国家元首としてFUNCINPECとCPPの連合体としての暫定政府を成立させた。また9月の制憲議会で新憲法を採択、立憲君主制の「カンボジア王国」として新たなスタートをきり、国王にはシアヌークが復位した。[黒柳米司]

政争の激化

1994年7月、カンボジア国会はクメール・ルージュを非合法化。1996年8月にはクメール・ルージュの元ナンバー2であったイエン・サリIeng Sary(1930― )が兵士約4000人とともに同派を離脱しカンボジア政府軍に統合されるなど、クメール・ルージュ衰退の兆しが現れた。
 国際社会も総選挙を通じた内戦の終結というUNTACの画期的成果に満足し、1997年5月にASEANはラオス、ミャンマーと並んでカンボジアを正式メンバーとして受け入れることを決定した。しかし、FUNCINPECのラナリットNorodom Ranariddh(1944― )を第一首相、CPPのフン・センを第二首相とする二人首相制下のカンボジアは安定にはほど遠く、共通の敵であったクメール・ルージュの退潮につれて、両派の政争が激化していった。
 かくしてフン・センは、ラナリット派のクメール・ルージュとの接触、武器不法輸入などを理由として、1997年7月、武力に訴えてラナリット派部隊を制圧、8月には国外に逃亡したラナリットの後任として、第一首相に同派のウン・フォトUng Huot(1947― )を就任せしめた。これを事実上のクーデターとみたアメリカ、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD=世界銀行)は、カンボジアへの援助・融資を凍結した。これに続いて日本も一部援助を凍結し、ASEANもまた「武力による秩序混乱」を遺憾としてカンボジアの加盟を延期した。CPPとFUNCINPECの連立回復と事態の平和的解決を訴えたラナリットは、1998年3月国際社会の圧力に直面したフン・センの要請に基づくシアヌークの恩赦を得て帰国した。[黒柳米司]

連立政権の成立

フン・センの事実上のクーデターからほぼ1年後の1998年7月26日に実施されたカンボジア王国初の総選挙には、39政党が参加、有権者の90%が投票した。その結果、国会122議席のうち64議席をCPP、43議席をFUNCINPEC、15議席をサム・レンシーSam Rainsy(1949― )を中心とするサム・レンシー党(FUNCINPECからの分派「クメール国民党」から改称)が獲得した。CPPは第一党にはなったものの、憲法上組閣に要する議席数(議会の3分の2)に達しなかったため、不足分18議席を他党との連立で獲得しようとした。しかし、FUNCINPECとサム・レンシー党は選挙の無効を訴え、プノンペンの「民主の広場」で街頭行動を展開、フン・セン派との対決色を強めた。CPP政府当局による選挙制度の恣意(しい)的改正、選挙民への威嚇などの不正を指摘する声もあったが、ASEAN、ヨーロッパ連合(EU)、国連が組織した国際合同監視団(JIOG)など国際社会の大勢は選挙を「自由かつ公正」として容認し、野党の態度を無責任として批判した。同1998年9月、ラナリット、サム・レンシーは身辺の危機を察してタイに亡命、フン・センは名実ともに独裁的地歩を固めた。11月、シアヌークの調停により、CPPのフン・センを首相、FUNCINPECのラナリットを国会議長とする連立政府が発足した。
 1999年3月、カンボジアにCPPのチア・シムChea Sim(1932―2015)を議長とする上院(定数61)が発足したことにより、ASEANはカンボジアが1997年の政変からの正常化を完結したとみた。これを受け1999年4月、カンボジアのASEAN正式加盟が実現した。[黒柳米司]

人道への犯罪

1998年4月15日ポル・ポト死去、1年後の1999年3月には最強硬派のタ・モクTa Mok(1926?―2006)も当局に逮捕され、クメール・ルージュが事実上壊滅の運命を迎えたことにより、カンボジア紛争はほぼ20年ぶりに終結した。しかし、これと相前後してポル・ポト政権下での大量虐殺に関する国際法廷設置を勧告する国連調査団報告が提出され、事態は新たな局面を迎えた。同報告は、政府側に投降した元最高幹部も訴追対象から除外しないよう求めている。問題は、1996年ごろから断続的に政府軍に投降したクメール・ルージュ幹部が、政府・軍内部に地歩を与えられており、フン・センに対し訴追なら再蜂起(ほうき)との威嚇をかけているという点にある。つまり、カンボジアと国際社会は、ある意味で「正義か平和か」の二者択一を迫られたのである。1978年までクメール・ルージュの中堅幹部であったフン・センは、当初、国際法廷の設置そのものに否定的であったが、国際圧力の高まりに直面して、国際法廷をカンボジアに開設し、カンボジアの主導下に運営されるべきであるとか、真相究明委員会方式で対処するなどの論理で抵抗した。こうして法廷設置をめぐる交渉は難航し、カンボジア政府と国連が対立する状況となった。
 2003年には、国連とカンボジア政府との間で、クメール・ルージュ政権下で行われた人道に対する罪や大量虐殺を裁くため、カンボジア裁判所内に国際裁判官と現地裁判官が共同で指揮する二審制の「特別裁判部」を設置するという協定が成立した。特別裁判部の裁判官は27人、うち国際裁判官は10人である。2007年からツールスレン収容所元所長のカン・ケク・イウKaing Guek Eavを被告人とする第1号事件の予審審理が開始され、2010年7月、禁錮35年の判決が下った。また、元人民代表議会議長ヌオン・チアNuon Chea、元副首相兼外相イエン・サリ、元首相キュー・サムファン、元社会問題相イエン・チリトIeng Thirithら4人が被告となっている。[黒柳米司]
『岡部達味編『ポスト・カンボジアの東南アジア』(1992・日本国際問題研究所) ▽明石康著『忍耐と希望――カンボジアの560日』(1995・朝日新聞社) ▽池田維著『カンボジア和平への道――証言 日本外交試練の5年間』(1996・都市出版) ▽河野雅治著『和平工作――対カンボジア外交の証言』(1999・岩波書店) ▽四本健二著『カンボジア憲法論』(1999・勁草書房) ▽和田博幸著『カンボジア、地の民』(2001・社会評論社) ▽フランソワ・ビゾ著、中原毅志訳『カンボジア 運命の門――「虐殺と惨殺」からの生還』(2002・講談社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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