ポルポト(読み)ぽるぽと(その他表記)Pol Pot

翻訳|Pol Pot

デジタル大辞泉 「ポルポト」の意味・読み・例文・類語

ポル‐ポト(Pol Pot)

[1925?~1998]カンボジア政治家軍人。本名サロト=サル。1976年4月から1979年1月まで首相クメールルージュ最高指導者として過激な共産主義革命を試みた。反対派とみなされて虐殺された国民は100万人を超えるといわれるが、正確な数字は不詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルポト」の意味・わかりやすい解説

ポル・ポト
ぽるぽと
Pol Pot
(1925―1998)

カンボジアの政治家。コンポン・ソム州生まれ。本名サロト・サル。1954~1963年、革命運動に参加。1960年カンボジア共産党創設とともに中央委員、1963年書記長に就任。1975年のプノンペン解放とともに全権を掌握、1976年シアヌークにかわり新生の民主カンボジアの首相となる。「全面的、徹底的な社会革命」と「社会浄化」の名のもとに、大量粛清を含む残虐な内政と強硬な外交を推進。1978年末のベトナム侵攻で反撃され首都を放棄、ゲリラ戦に転じる。国際的批判の高まりに直面して1979年、首相を辞し国民軍最高軍事委員長に転出、1985年8月高等国防研究所長の閑職に退いた。1990年代に入り、カンボジアの和平が進行した結果、クメール・ルージュポル・ポト派)内部の対立が激化し、1997年6月にポル・ポトは身柄を拘束され、7月に人民裁判にかけられ終身刑の判決を受けた。その後、民主カンボジア時代の大量虐殺の責任者として国際法廷にかけられる動きが具体化するなかで、1998年4月突然死去が発表された。

 カンボジア内のポル・ポトを中心とする勢力はクメール・ルージュとよばれ、1991年パリ和平協定でカンボジア紛争が終結した後、1993年に実施された国連カンボジア暫定統治機構UNTAC(アンタック))監視下の総選挙をボイコット、新カンボジア王国に敵対する唯一の勢力となった。1996年元ポル・ポト政権副首相イエン・サリIeng Sary(1925―2013)派が大量投降、その後も派内の内紛が続いた。1997年独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC(フンシンペック))のラナリットNorodom Ranariddh(1944―2021)による元クメール・ルージュ幹部キュー・サムファン抱き込み工作がさらに内紛を激化させ、ポル・ポト自身も対抗勢力に投降したと伝えられた。1997年7月、クメール・ルージュはラナリットからのフン・セン派(カンボジア人民党)に対する統一戦線の呼びかけに応じる一派と、FUNCINPEC、カンボジア人民党双方にあくまで抵抗すべしとのポル・ポトらに分裂した。

[黒柳米司]

『小倉貞男著『ポル・ポト派とは?』(1993・岩波ブックレット)』『D・P・チャンドラー著、山田寛訳『ポル・ポト伝』(1994・めこん)』

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百科事典マイペディア 「ポルポト」の意味・わかりやすい解説

ポル・ポト

カンボジアの政治家。1940年代にホー・チ・ミンのもとで反フランス抵抗運動に参加。1953年フランス留学を終えて帰国,教師のかたわら反フランス地下活動に参加。1960年カンボジア共産党中央常任委員。1963年書記となり,1967年頃クメール・ルージュ(ポル・ポト派)という反政府武装組織を作り,義弟イエン・サリらとともにゲリラ闘争を指揮。1975年ロン・ノル政権を打倒。1976年首相に就任,急激な農業集団化と,大量虐殺を伴う大粛清国民運動を断行したが,1979年カンボジア救国民族統一戦線のプノンペン無血入城の前にヘン・サムリン勢力によりプノンペンを追われ,ゲリラ戦に移った。ポル・ポト派の勢力は次第に減少し,1996年にイエン・サリがカンボジア政府に投降,1997年には内部分裂し,ポル・ポト自身も同派の人民裁判で終身刑となった。ポル・ポト時代の大量虐殺と人道に対する罪を裁くため,国連総会は2003年特別法廷設置を認める決議案を採択した。
→関連項目カンボジアカンボジア人民党シアヌーク田英夫プノンペンフン・セン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポルポト」の意味・わかりやすい解説

ポル・ポト
Pol Pot

[生]1925/1928.5.19. コンポンチャム
[没]1998.4.15. カンボジア北部国境付近
カンボジアの政治家。別名サロット・サル Saloth Sar。プノンペン工科大学卒業後,フランスへ留学。 1952年帰国後,プノンペンの私立学校教師。 60年カンプチア共産党の創立に参加,63年には書記長に就任,イエン・サリ,ソン・センらとともに地下に潜行,赤いクメールの中心人物として反政府運動を展開。 70年右派ロン・ノル将軍のクーデターで失脚したシアヌークと提携し,反米=反ロン・ノル闘争を指導,75年4月ロン・ノル政権打倒に成功した。翌 76年「民主カンプチア」の首相として農本主義的共産主義改造を強行,その恐怖政治のため国民の支持を失い,78年 12月にはベトナムの介入を招き,ポル・ポト政権はタイ国境地帯に撤退,79年には首相を解任された。 85年の民主カンプチア軍最高会議議長兼総司令官退任後も,依然としてポル・ポト派軍の最高司令官であり,同派の最高指導者であったが,97年内部対立から身柄を拘束され,同派の人民裁判で終身刑を宣告されていた。 98年国境付近で死亡との情報があり,調査隊がチョンチャンガムという集落で遺体を確認した。

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20世紀西洋人名事典 「ポルポト」の解説

ポル・ポト
Pol Pot


1928.5.19.(1925.説もあり) -
カンボジアの政治家。
元・カンボジア首相。
コンポントム省生まれ。
別名サロト・サル(Salot Sar〉。
1949〜53年パリに留学。帰国後、反仏反日闘争に参加。’60年カンボジア共産党中央委員会常任委員、’63年党書記などを経て、’70〜75年党軍事委員長を務め、解放闘争を指揮。’75年のプノンペン解放とともに全権を掌握、翌’76年シアヌークに代わり新生民主カンプチアの首相。数百万人にのぼる大量虐殺を行ったほか、強硬な外交を推進するが、’78年末のベトナム侵攻でプノンペンを追われ、ゲリラ活動に入る。’79年首相を辞任し、民主カンボジア軍最委員会議長、最高司令官を兼任。’85年には高等国防研究所所長となる。89年同所長を辞任。第一線から引退後もポル・ポト派に隠然たる影響力を持っているといわれる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ポルポト」の解説

ポル=ポト
Pol Pot

1925(28)〜98
カンボジアの政治家。民主カンプチア政府首相(在任1976〜79)
カンボジア中部の地主の家に生まれ,1949〜53年のフランス留学中に共産党に入党。帰国後1963年にカンボジア共産党書記長,75年には親米ロン=ノル政権を倒して,翌年民主カンプチア(民主カンボジア)の首相となる。親中国路線で農村に基礎を置く社会主義建設をめざしたが,都市と貨幣の廃止,集団農場での強制労働などの極端な政策と反対派の粛清により,100万人以上が犠牲になったといわれる。1979年には反中国のヴェトナム軍とヘン=サムリン派により首都プノンペンを追われた。以後は山岳地帯を拠点に抗戦したが,1993年のカンボジア王国の成立以降は勢力の内部分裂が進行する中,タイ国境近くで病死した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ポルポト」の解説

ポル・ポト

生年月日:1928年5月19日
民主カンボジア軍最高会議議長,総司令官
1998年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のポルポトの言及

【インドシナ戦争】より

…したがって,75年の解放は国内的には政治的・軍事的闘争の終焉,国外的にはアメリカの東南アジア政策の完全な失敗を意味するが,国内の経済的・社会的闘争は戦後にいたってはじめて顕在化する。76‐79年には大量のベトナム人が難民として流出したり,放逐されたりし,カンボジアではポル・ポト政権によって民衆の大量虐殺が行われた。また植民地分割統治期の民族差別に基礎をおく国家間対立は,78年以来のベトナム・カンボジア戦争,79年以降のカンボジア内戦にいたった。…

※「ポルポト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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