現代外国人名録2016 「キュー・サムファン」の解説
キュー・サムファン
Khieu Samphan
- 職業・肩書
- 政治家 元民主カンボジア(ポル・ポト派)代表(議長)
- 国籍
- カンボジア
- 生年月日
- 1931年7月27日
- 出生地
- スバイ・リエン州
- 別名
- 別名=Hem
- 学歴
- リセ・シソワット卒,パリ大学卒
- 学位
- 経済学博士
- 経歴
- フランス留学中に左派系留学生の運動を指導。1959年帰国後、プノンペンで左派系紙「オプセルバトゥール」の編集長として政府攻撃、数回投獄される。’62年シアヌーク政権下で商業担当国務相に就任、8ケ月後辞任。同年国民議会議員に選出。’67年クメール・ルージュに参加、左派分子の弾圧で地下に潜行。’70年ロンノル将軍のクーデター後、ポル・ポト派反政府ゲリラの解放闘争に入り、4月シアヌーク殿下の王国民族連合政府(在北京)副首相兼国防相。’71年民族解放軍総司令官。ポル・ポト政権成立後の’76年1月民主カンボジア政府樹立、4月国家幹部会議長(元首)。’79年1月のプノンペン陥落後はタイ国境の山岳地帯でゲリラ戦に突入。12月首相および民族統一民主愛国戦線臨時議長を兼任。’82年7月民主カンボジア三派連合政府(カンボジア国民政府)樹立で外務担当副大統領。’85年8月ポル・ポト派代表(議長)に就任。’90年6月カンボジア和平東京会議に出席。’91年11月四派和平成立後プノンペン入りしたが、群衆に襲われバンコクに避難。’92年11月“カンボジア国家統一党”結成。’94年7月ポル・ポト派が樹立した“暫定国民団結救国政府”の首相兼国防相に就任。’96年内閣改造で国防相を退任。’98年4月ポル・ポト死去により、ポル・ポト派は壊滅状態となる。12月ヌオン・チア元人民代表議会議長とともにカンボジア政府に投降、タイ国境で隠居生活。2006年ポル・ポト派特別法廷が設置され、2007年11月逮捕される。2010年9月他の幹部とともに起訴される。2011年6月初公判。2013年10月検察側が終身刑を求刑。2014年8月終身刑の判決が出された。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報