ASEAN(読み)あせあん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ASEAN」の意味・わかりやすい解説

ASEAN
あせあん

東南アジア諸国連合Association of Southeast Asian Nationsの略称。1967年8月8日、インドネシアマレーシアフィリピンシンガポール、およびタイという海洋部東南アジアの5か国外相会議で設立された地域協力機構。2010年時点の参加国は、前記5か国に加え、ブルネイカンボジアラオスミャンマーベトナムの計10か国である。

 21世紀初頭の時点で、その活動内容がヨーロッパ連合(EU)に次いで高い国際的評価を得ている。設立時に採択された「バンコク宣言」では、域外からの干渉排除と地域的問題の地域的解決を骨子とし、具体的には経済・社会・文化的発展のための地域協力など7項目の目標を掲げた。これは、一方では欧米列強による植民地支配の体験やベトナム戦争に象徴される冷戦的環境への対応であり、他方では、1960年代前半に独立方式や領有権問題をめぐってインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールを巻き込んだ一大地域紛争である「マレーシア紛争」のような危機の再燃を回避しようとする地域的要請への対応ともいえるものであった。ただ発足当初は、対内的には、「マレーシア紛争」の記憶が新しく、域内諸国間の相互不信が根強かったから、対話会合)を定期的に開催することで政府首脳部の相互理解を高める一方、実益が実感できる経済協力を積み重ねることで地域協力機構としてのASEANへのコミットメント(誓約)を確保することに努めた。また対外的には、安全保障協力を志向することが周辺の共産主義諸国(とりわけ中国や当時の北ベトナム)からの反発を増幅しかねないことから、経済協力を最優先課題として強調せざるをえなかった。

 しかし、米中接近などの国際環境の変容に対応して、1971年に「東南アジア平和・自由・中立地帯」(ZOPFAN)宣言を発表し、社会主義陣営との関係改善を志向したこと、インドシナの全面社会主義化という地域情勢の革命的地殻変動に対応して、1976年に初のASEAN首脳会議を開催し、「ASEAN協和宣言」(バリ宣言)、「東南アジア友好協力条約」(TAC)を採択したことに集約されるように、域内諸国の政治安全保障面での結束強化によって国際的に注目されるに至った。こうした成果は、1978年にベトナムのカンボジア侵攻によって開始された「カンボジア紛争」の政治的解決へのASEANの貢献と相まって、Pax Aseana(ASEANによる平和)として認知されるに至った。こうした成果の背景としては、欧米や日本など先進諸国との連携による持続的経済発展という要因に加えて、域内諸国間の対話と協力を蓄積する過程で醸成された行動原理としての「ASEANウェイ」(紛争の平和的解決、内政不干渉コンセンサス方式、非公式主義など)の効果もまた見落とせない。1993年、アメリカ、中国、日本、EUなど域外大国を巻き込んだ広域安全保障対話メカニズムとしての「ASEAN地域フォーラム」(ARF)が創設され、ASEANがその「運転席に座る」ことを容認されたことは象徴的現象であるといえよう。他方、1984年には独立直後のブルネイが、1995年にはかつて敵対したベトナムが加盟し、1997年にはラオスとミャンマーが、そして1999年にはカンボジアも加わったことで、全東南アジアのASEAN化が実現した。

[黒柳米司]

1997年の破局

以上のような「成功物語」の背後に深刻な危機が潜んでいたことを暴露したのが、タイの通貨バーツの切り下げを端緒とし、急速に近隣諸国に伝播(でんぱ)した「1997年の破局」として知られる激甚な経済危機であった。つとに東アジア経済の脆弱(ぜいじゃく)性に警鐘をならしてきたマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授(当時)で経済学者のポール・クルーグマンPaul Krugman(1953― )は、この経済危機の背景を「バブル、モラル・ハザード、群集心理」という三つのキーワードに集約している。このうち、モラル・ハザードは、権力と経済の癒着という「開発独裁」体制の構造的脆弱性を意味するが、マレーシアのマハティール首相(当時)は、危機の背景にはASEAN諸国の反米色に反発するアメリカの意を体した、悪意ある投機家(とりわけヘッジファンド経営者ユダヤ系アメリカ人ジョージ・ソロスGeorge Soros(1930― ))の陰謀があると反発している。いずれにせよ、この危機の震源地となったタイの通貨バーツの価値は55%下落し、そのあおりを受けてインドネシアのルピアは49%(しかもこの危機の渦中で過去32年間にわたって強権支配を誇ってきたスハルト体制が崩壊した)、フィリピンのペソは28%と急速に下落するなど、過去十数年にわたる経済発展の成果が水泡に帰するほどの打撃を受けた。しかも、新規加盟国を加えた域内の政治・経済・文化的な異質性は増幅され、合意形成は一段と困難になっていた。この結果、1990年代後半を転機としてASEANのあり方に対して批判的な論調(ASEAN幻想論)が台頭し、従来のASEAN待望論と拮抗(きっこう)するに至った。ASEAN幻想論の一方には、ASEAN諸国は結局非力で、推進してきた協調的安全保障は単なる「おしゃべりの場」talk shopでしかないとする現実主義からの批判があり、他方には、内政不干渉原則で強権支配下の人権侵害を放置するのは「非自由主義的平和」illiberal peaceでしかないとする構成主義からの批判があった。

[黒柳米司]

危機からの再活性化をめざして

ASEAN諸国は、「1997年の破局」からの再活性化を「深化と拡大」という二つの方向で模索してきた。深化は域内協力と一体化の推進であり、拡大はASEANが主導権を握る広域対話の推進である。前者の努力は(1)2003年の「第2バリ宣言」で提唱された経済・政治安全保障・社会文化の三局面にまたがる「ASEAN共同体」構想、(2)(1)の実現に向けた新規加盟国(CLMV諸国)と原加盟国の格差是正、(3)「ASEANウェイ」を軌道修正すべく、拘束力のある規範に基づいた機構をめざした2007年のASEAN憲章採択、などに集約される。後者の努力は(1)1997年に着手されたASEAN+3(ASEAN諸国に日本、中国、韓国を加えたもの)の機能的協力の推進、(2)(1)の延長線上で浮上した「東アジア共同体」構想、として模索されるところとなった。

 ただし、これら一連の努力が必ずしも所期の成果を生み出すには至っていないのもまた事実である。たとえば、域内協力の深化という観点からは、ミャンマー軍事政権の民主化抑圧・人権侵害に対して、ASEANが内政不干渉原則ゆえに有効な圧力をかけられずにいる状況は、域内外からの批判の的とされてきた。ASEAN憲章もまた、内政不干渉やコンセンサス方式など「ASEANウェイ」の軌道修正に踏み込んでおらず、これに基づいて設立されたASEAN人権機構(ASEAN政府間人権委員会)も、(1)基本的には人権擁護というより人権問題に関する「協議機関」であり、(2)人権侵害国家への制裁権限を持たず、(3)主として女性、子供、移民の人権を対象とし政治犯には関与しない、など一連の欠陥が指摘されている。さらに、2006年に域内民主化先進国たるタイの軍事クーデターでタクシン政権が崩壊したこと、2008年以降はタイとカンボジアの間に死者を伴う国境紛争が勃発(ぼっぱつ)したこと、保守派の抵抗によるASEAN民主化の低迷に幻滅したインドネシアにASEAN離れの傾向がみられることなど一連の退廃現象が相まって、ASEANへの国際的評価は低迷を余儀なくされた。ASEANは幾度目かの岐路に立っているといえる。

[黒柳米司]

『山影進著『ASEAN』(1991・東京大学出版会)』『山影進著『ASEANパワー』(1997・東京大学出版会)』『佐藤考一著『ASEANレジーム』(2003・勁草書房)』『黒柳米司著『ASEAN35年の軌跡』(2003・有信堂)』『黒柳米司編『アジアの地域秩序とASEANの挑戦』(2005・明石書店)』

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