フン・セン
ふんせん
Hun Sen
(1952― )
カンボジアの政治家。8月5日にコンポン・チャーム州で生まれる。出生時の名前はフン・ブンナルHun Bunal(1972年にフン・センに改名)。地元の小学校で学んだ後、進学のため1964年に首都プノンペンへ移り、ニアクボアン寺院で暮らしながらリセ・インドラ・テービーで学ぶ。同寺院の僧侶で革命思想をもつ師が、国家元首のノロドム・シアヌークによる左派弾圧で逮捕されたことをきっかけに、1968年に学業を捨ててポル・ポトが率いる共産主義ゲリラに加わる。カンプチア民族統一戦線の戦闘兵として反ロン・ノルLon Nol(1913―1985)闘争を戦い、1975年4月の戦闘で左眼を負傷し失明。ポル・ポト政権(1975年4月~1979年1月)下で東部管区第21地区の副連隊長に就任したが、1977年6月に同政権から離反してベトナムへ亡命し、1978年12月にヘン・サムリン、チア・シムChea Sim(1932―2015)らとカンプチア救国団結戦線を結成。ポル・ポト政権を打倒した1979年1月に人民革命党政権(ヘン・サムリン政権)の外務大臣に、1981年5月に国民議会議員とカンプチア人民革命党中央委員会政治局員に、同年6月に副首相兼外務大臣に選出される。1984年12月に首相のチャン・シーChan Si(1932―1984)が急死したことに伴い、1985年1月に外務大臣を兼任したまま32歳の若さで首相に就任。敵対する民主カンプチア連合政府の大統領シアヌークと1987年12月に直接会談を行って以降、和平交渉を積極的に推進し、1991年10月23日にパリ和平協定の締結に至る。マルクス・レーニン主義を放棄して党名をカンボジア人民党に改称した同月17~18日の臨時党大会で、副党首に選出された。国連管理下で行われた1993年5月の制憲議会選挙でフンシンペック党(FUNCINPEC党、親シアヌーク政党)に敗北を喫したが、政治工作によって同等の権力分有を要求して第二首相に就任。1997年の「7月政変」で第一首相のノロドム・ラナリットNorodom Ranariddh(1944―2021)を放逐して連立政権の主導権を握り、人民党が勝利した1998年総選挙後に単独首相に復帰。以後、2003年、2008年、2013年、2018年の総選挙後も首相に再任され、2023年総選挙後に長男で前国軍副総司令官兼陸軍司令官のフン・マネットHun Manet(1977― )にその座を譲るまで、約38年7か月に及ぶ長期政権を担う。首相辞任後、人民党党首の座にとどまったまま、2023年8月に国王高級顧問団長に任命され、さらに2024年4月に上院議長に就任。次男フン・マニットHun Manith(1981― )を2023年2月に陸軍副司令官に、三男フン・マニーHun Mani(1982― )を2024年2月に公務員大臣を兼務したまま副首相に登用するなど、自らを頂点とする一族支配を強化した。カンボジア赤十字社総裁を務める妻ブン・ラニーBun Rany(1954― )との間に3男2女。
[山田裕史 2025年8月19日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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フン・セン
Hun Sen
- 職業・肩書
- 政治家 カンボジア首相,カンボジア人民党中央委員会副議長(副党首)
- 国籍
- カンボジア
- 生年月日
- 1951年4月4日
- 出生地
- コンポンチャム州
- 旧名・旧姓
- Hun Bunal
- 学歴
- プノンペン大学,国立政治アカデミー
- 学位
- Ph.D.
- 資格
- ロシア科学アカデミー会員〔2002年〕
- 経歴
- 中農の家の生まれ。高校生時代の1970年クメール・ルージュ(ポル・ポト派)に参加したが、戦闘で左眼を負傷し失明。若くして東部管区第21地区副連隊長に就任したが、’77年大虐殺に抗して自らが粛清の対象となったためベトナムへ逃亡。’78年12月親ベトナムのカンボジア救国民族統一戦線中央委員。’79年1月ベトナム軍侵攻によるプノンペン陥落、ヘン・サムリン政権発足の際、人民革命評議会委員兼外相。’81年国会議員。’81年5月人民革命党政治局員。同年6月プノンペン政権で副首相兼外相。’85年1月首相兼外相に就任、世界最年少の首相と騒がれた。’86年12月外相兼務を解かれるが、’87年12月〜’90年9月再度外相兼務。’90年6月カンボジア和平東京会議に出席。’91年10月第5回党大会で人民革命党から人民党に党名変更するとともに、新設の中央委員会副議長(副党首)。’93年5月総選挙で第2党となり、6月暫定国民政府共同首相(内相・国防相兼任)、9月新生カンボジア王国の第2首相に就任。’97年7月ラナリット第1首相との権力争いが激化、大規模戦闘の末、国内を制圧し、第1首相を武力追放した。’98年7月総選挙でカンボジア人民党が勝利を収め、11月単独の首相に就任。2004年7月総選挙で勝利し、首相再任。2008年9月3期目。2013年9月4期目就任。1998年には自らが作詞を手がけた「草原への道」がカンボジアで大ヒット。’99年2月カンボジア支援国会合出席のため来日。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
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フン・セン
Hun Sen
[生]1952.8.5. コンポンチャム
カンボジアの革命家,政治家。首相(1985~2023)。1970年代半ばまでに赤いクメール(クメール・ルージュ)に参加し東部地区の部隊長に就任したが,党内対立激化をうけてベトナムに渡り,ポル・ポト打倒の動きに加わる。1979年1月プノンペン政府(→カンプチア人民共和国)成立とともに外務大臣となり,1985年に首相となった。優れた交渉者として国際的に知られ,ノロドム・シアヌークとの二者会談を含む精力的な活動を通じてカンボジア和平に努力した。1991年秋のカンボジア最高国民評議会 SNC成立以後も内外諸勢力のバランスを巧みに保ちながら地位を維持し,総選挙後の 1993年9月から第二首相となった。 1997年第一首相であったフンシンペック党のノロドム・ラナリットとの対立が激化し武力衝突に発展,ラナリットを国外追放し事実上政権を掌握した。1998年7月の総選挙で自身が副党首を務めるカンボジア人民党が勝利を収め,11月に単独の首相に就任。長期政権を維持し,2023年8月に長男のフン・マネットに首相職を譲った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フン・セン
カンボジアの政治家。1970年代からカンボジア共産党(クメール・ルージュ)の革命運動に参加したが,ポル・ポト派が主流となったためベトナムに亡命。1978年,ヘン・サムリンらとともにカンボジア救国民族統一戦線結成に参加。1979年ヘン・サムリン政権の発足に協力。1985年首相兼外相。1991年カンボジア人民党の副議長。1993年6月,暫定国民政府の第二首相となり,1997年7月にはラナリット第一首相(フンシンペック党)をクーデタ的に追放した。1998年7月選挙で人民党が勝ち,同年11月首相となり,ラナリットを国会議長に任じた。
→関連項目カンボジア
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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