出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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フン・セン
Hun Sen
- 職業・肩書
- 政治家 カンボジア首相,カンボジア人民党中央委員会副議長(副党首)
- 国籍
- カンボジア
- 生年月日
- 1951年4月4日
- 出生地
- コンポンチャム州
- 旧名・旧姓
- Hun Bunal
- 学歴
- プノンペン大学,国立政治アカデミー
- 学位
- Ph.D.
- 資格
- ロシア科学アカデミー会員〔2002年〕
- 経歴
- 中農の家の生まれ。高校生時代の1970年クメール・ルージュ(ポル・ポト派)に参加したが、戦闘で左眼を負傷し失明。若くして東部管区第21地区副連隊長に就任したが、’77年大虐殺に抗して自らが粛清の対象となったためベトナムへ逃亡。’78年12月親ベトナムのカンボジア救国民族統一戦線中央委員。’79年1月ベトナム軍侵攻によるプノンペン陥落、ヘン・サムリン政権発足の際、人民革命評議会委員兼外相。’81年国会議員。’81年5月人民革命党政治局員。同年6月プノンペン政権で副首相兼外相。’85年1月首相兼外相に就任、世界最年少の首相と騒がれた。’86年12月外相兼務を解かれるが、’87年12月〜’90年9月再度外相兼務。’90年6月カンボジア和平東京会議に出席。’91年10月第5回党大会で人民革命党から人民党に党名変更するとともに、新設の中央委員会副議長(副党首)。’93年5月総選挙で第2党となり、6月暫定国民政府共同首相(内相・国防相兼任)、9月新生カンボジア王国の第2首相に就任。’97年7月ラナリット第1首相との権力争いが激化、大規模戦闘の末、国内を制圧し、第1首相を武力追放した。’98年7月総選挙でカンボジア人民党が勝利を収め、11月単独の首相に就任。2004年7月総選挙で勝利し、首相再任。2008年9月3期目。2013年9月4期目就任。1998年には自らが作詞を手がけた「草原への道」がカンボジアで大ヒット。’99年2月カンボジア支援国会合出席のため来日。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
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フン・セン
Hun Sen
[生]1952.8.5. コンポンチャム
カンボジアの革命家,政治家。首相(1985~2023)。1970年代半ばまでに赤いクメール(クメール・ルージュ)に参加し東部地区の部隊長に就任したが,党内対立激化をうけてベトナムに渡り,ポル・ポト打倒の動きに加わる。1979年1月プノンペン政府(→カンプチア人民共和国)成立とともに外務大臣となり,1985年に首相となった。優れた交渉者として国際的に知られ,ノロドム・シアヌークとの二者会談を含む精力的な活動を通じてカンボジア和平に努力した。1991年秋のカンボジア最高国民評議会 SNC成立以後も内外諸勢力のバランスを巧みに保ちながら地位を維持し,総選挙後の 1993年9月から第二首相となった。 1997年第一首相であったフンシンペック党のノロドム・ラナリットとの対立が激化し武力衝突に発展,ラナリットを国外追放し事実上政権を掌握した。1998年7月の総選挙で自身が副党首を務めるカンボジア人民党が勝利を収め,11月に単独の首相に就任。長期政権を維持し,2023年8月に長男のフン・マネットに首相職を譲った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フン・セン
カンボジアの政治家。1970年代からカンボジア共産党(クメール・ルージュ)の革命運動に参加したが,ポル・ポト派が主流となったためベトナムに亡命。1978年,ヘン・サムリンらとともにカンボジア救国民族統一戦線結成に参加。1979年ヘン・サムリン政権の発足に協力。1985年首相兼外相。1991年カンボジア人民党の副議長。1993年6月,暫定国民政府の第二首相となり,1997年7月にはラナリット第一首相(フンシンペック党)をクーデタ的に追放した。1998年7月選挙で人民党が勝ち,同年11月首相となり,ラナリットを国会議長に任じた。
→関連項目カンボジア
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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