明石康(読み)あかしやすし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「明石康」の意味・わかりやすい解説

明石康
あかしやすし
(1931― )

国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))代表。秋田県生まれ。東京大学大学院終了後、フルブライト留学生としてアメリカのバージニア大学大学院で国際政治学を専攻。1957年(昭和32)、日本人として初めて国連事務局入り。1966年タイ・カンボジア紛争調停国連特使補佐官、1972年国連大学創立委員会事務長。1974年から日本の国連代表部参事官、公使大使を歴任する。1979年国連広報担当事務次長、1987年軍縮担当事務次官となり、1989年(平成1)に国連軍縮京都会議を主宰した。1992年1月、UNTACの国連事務総長特別代表に任命され、同年3月からカンボジアに駐在。国連がカンボジアの軍事・行政両面を暫定的に預かるという史上初の試みを現地で指揮、1993年5月に行われたカンボジア初の自由選挙の成功を導いた。1994年1月より旧ユーゴスラビア地域担当の国連事務総長特別代表、1996年1月、東チモール担当、同年2月人道問題局長となる。国連事務次官辞任後、1999年に東京都知事選挙に出馬したが石原慎太郎に敗れた。

[編集部]

『『国連から見た世界――国際社会の新秩序を求めて』(1992・サイマル出版)』『『忍耐と希望――カンボジアの560日』(1995・朝日新聞社)』『『平和へのかけ橋』(1996・講談社)』『『生きることにも心せき――国際社会に生きてきたひとりの軌跡』(2001・中央公論新社)』『『日本の領土問題』(2002・自由国民社)』『『国際連合』第2版(岩波新書)』

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百科事典マイペディア 「明石康」の意味・わかりやすい解説

明石康【あかしやすし】

もと国連官僚。秋田県生れ。東大大学院終了。バージニア大大学院,フレッチャー・スクール大学院に留学し,極東情勢についての報告で注目され,日本の国連加盟の翌1957年,日本人として最初の国連職員となる。政治担当官としてハンガリー動乱キューバ危機などの情報収集,政策立案にあたる。1972年行政担当になり,国連大学設立委員会事務長を務め,東京誘致決定に尽力する。1974年外部からの人材登用を求めた外務省に入り国連代表部参事官,公使,大使を務めた。1979年事務次長(広報担当)として国連に戻り,1987年より同軍縮担当。1992年1月国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の最高責任者(国連事務総長特別代表)となり,翌1993年9月離任。1993年12月から旧ユーゴスラビア問題国連事務総長特別代表,1995年11月から国連事務総長特別顧問,1996年3月から国連人道援助局長を務め,1997年退任。1998年から広島平和研究所長(1999年2月辞任)。1999年の東京都知事選に自由民主党公明党の推薦で出馬したが落選。2002年スリランカ問題担当の日本政府代表に就任
→関連項目アナン

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明石康」の解説

明石康 あかし-やすし

1931- 昭和後期-平成時代の国連官僚。
昭和6年1月19日生まれ。アメリカのフレッチャー-スクールでまなび,昭和32年日本人初の国連職員となる。49年日本の外務省にはいり,のち国連大使。54年国連事務次長。平成4年UNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)の事務総長特別代表。5年旧ユーゴスラビア問題担当の国連事務総長特別代表。10年広島平和研究所の初代所長。秋田県出身。東大卒。

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