翻訳|Gambia
基本情報
正式名称=ガンビア共和国Republic of the Gambia
面積=1万0689km2
人口(2011)=180万人
首都=バンジュルBanjul(日本との時差=-9時間)
主要言語=英語,マンデ語,ウォロフ語
通貨=ダラシDalasi
西アフリカの西端部,ガンビア川沿岸を領域にもつ共和国。国土は,東から西に流れるガンビア川に沿って,幅20~45km,長さ300kmと細長く,セネガル領内に深くくさび形に入り込んだ形をとっている。面積的にアフリカで最も小さい国の一つで(香川・愛媛・徳島の3県の合計よりやや小さい),かつてはイギリスのアフリカで最も古い植民地であった。
国土は,首都バンジュルのあるガンビア河口のセント・メアリー島と河口から直線距離で300km上流までのガンビア川沿岸一帯とからなっており,すべて標高100m以下の低地で,湿地も多い。気候は全体的にサバンナ気候に属し,6~10月が雨季,11~5月が乾季となっている。年降水量は,海岸と内陸とで異なるが,約750~1250mm程度であり,その大部分は雨季に降る。植生は全体にサバンナであるが,部分的には熱帯雨林もみられる。
執筆者:端 信行
住民はガンビア川の狭い両岸に居住し,人口密度は90.8人/km2(1993)と,アフリカとしては稠密である。おもに五つの部族があるが,A.ヘイリーの《ルーツ》で著名なマンディンゴ族の人口が最も多く,ガンビア川下流の沼沢地を開拓し,稲の栽培を行っている。マンディンゴ族は13世紀に東から入ってきたが,イスラムを持ち込み,ガンビア川流域に小王国を形成した。その結果,今日ガンビア住民の90%はイスラム教徒である。隣国セネガルの主要部族でもあるウォロフ族は19世紀後半より入ってきたが,首都バンジュルの支配的住民として商業を営むかたわら,商品作物のラッカセイ栽培も行う。フルベ(フラニ)族は上流地域で牛を飼育する牧畜民である。ジョラ族はマンディンゴ族に追われ,イスラム化に抵抗して河口から南に追いやられた。セラフリ族はマンディンゴ族と同じくマンデ語グループに属するが,おもに東部に居住し商業に従事している。ガンビアは植民地化のいきさつから英語を公用語とする英語圏に入ったが,この国をすっぽり包みこむ形の隣国セネガルがフランス語圏であるため,言語の違いが両国間の行き来の障害の一つとなっている。
執筆者:赤阪 賢
ポルトガルのエンリケ航海王子に雇われたベネチア人カダ・モストは,15世紀半ばにガンビア河口に到達し,16世紀にイギリス人商人がこの地方に交易拠点を置いた。1816年にイギリス政府は,ガンビア河口のセント・メアリー島に奴隷貿易取締基地バサースト(現,バンジュル)を建設した。その後,イギリス領シエラレオネの管轄下に入り,1843年にシエラレオネから分かれ,66年から一時期,イギリス領西アフリカ植民地に組みこまれたが,88年に再び別個の植民地となった。1860年代から70年代には,英仏間の領域拡大にあたって取引材料として取り扱われたが,89年の両国間の協定でフランス領セネガルとの国境が確定した。
1888年から1945年までの間,イギリス植民地政府は,バサーストを主都として少数の官吏によって統治し,主都圏以外の保護領では伝統的首長の支配にまかせるという間接統治方式をとった。主要輸出産品は,19世紀末からラッカセイだけであった。1945年以降,バサースト港の改良,道路網の整備が進められ,輸出品目の多角化計画として鶏卵増産がとりあげられたが失敗した。
独立運動は50年代にようやく動き始めた。60年の選挙に際して,保護領住民のマンディンゴ族を基盤にして保護領人民党がダビッド・ジャワラDavid Jawaraによって組織され,統一党(UP。1951年創設で,ウォロフ族を支持基盤とする)に勝った。しかし,総督は統一党のP.S.ヌジーを首相に任じた。62年の選挙では,名称を人民進歩党(PPP)と変更したジャワラの党が再び勝利を獲得し,イギリスとの独立交渉を進めた。65年2月18日,独立を達成し,共和制移行についての国民投票は過半数を得なかったが,ジャワラが首相に就任した。65年にダビッド・ジャワラはイスラムに改宗し,ダウダ・ジャワラDauda Jawaraと改名した。70年4月の再度の国民投票によって共和制移行が決定し,ジャワラが初代大統領になった。
1970年の国民投票で制定された憲法は,一院制の議会を定めている。1966年以降野党であった統一党はしだいに衰退し,72年,77年の選挙では,PPPが圧倒的勝利をしめた。その後,農村部のマンディンゴ族の支持を得た国民会議党(NCP),首都の過激派を動員した国民解放党(NLP)が組織され,NCPが主要な野党となった。
セネガルとの協力関係は,独立後,独立を維持したまま,経済,政治,文化の各面で進められた。1967年に両国間連携協定が結ばれ,73年にジャワラ大統領が両国の統合問題についてセネガルを訪問し,統合が不可避であることを認めたが,直ちに政治的統合を実施することには反対した。78年にはガンビア川開発機構が組織され,両国間の関係はより緊密化した。
81年7月,大統領の訪英中に急進左翼によるクーデタが起こり,一時,バンジュルは占拠されたが,ジャワラ大統領はセネガル軍の派兵を要請して制圧した。この事件を契機に同年11月,セネガルとの間に国家連合confederationを結成する協定を結んだ。この協定により,82年2月,国家連合はセネガンビアSenegambiaという名称のもと,ディウフ・セネガル大統領が大統領に,ジャワラ・ガンビア大統領が副大統領になって発足した。セネガンビア国家連合は一面,従来の両国間の協力関係の継続であったが,より緊密な政治的・経済的統合を意図するセネガルと,経済的に弱体であり,主権を維持したままの統合を考慮するガンビアとの間の亀裂が明確となり,両国の合意により89年9月解体した。
1982年,87年,92年の選挙でもPPPが勝利し,ジャワラは72%,59%,58%の得票率で大統領に再選された。94年7月,ヤヒヤ・ジャメYahya Jammeh大尉による軍部クーデタが発生し,ジャワラは国外に脱出した。軍部暫定政権は憲法を停止し,政党活動を禁止した。民政移管が進められ,96年8月,新憲法が国民投票の結果承認された。新憲法は,複数政党制,一院制の国会の設置を定め,国会は3分の2の賛成により,内閣だけでなく大統領をも解任できると規定している。政党活動は解禁されたが,1994年クーデタ以前から活動していたPPPやNCP,ガンビア人民党(GPP)は認められなかった。ジャメは愛国再建同盟(APRC)の候補として大統領選挙に臨み,統一民主党(UDP)のO.ダルボを破って当選した。97年1月の議会選挙でもAPRCが33議席を獲得して勝利し,UDPがそれに続いた。
総輸出額の80~90%を占めるラッカセイ,ラッカセイ油が経済活動の中心である。総栽培面積の60%を占め,約4分の3の労働力人口が従事している。ラッカセイの世界市場価格の不安定性,降雨量による生産量の大幅な変動は,経済をさらに脆弱化させている。換金作物以外に,米,キビ,モロコシなどの食料作物を耕作しているが,輸入に依存している。製造業は,ラッカセイなどの食品加工に限られている。経済活動の多様化のため,水稲増産計画が中国の援助を受けて進められているが,まだ自給の域に達していない。漁業開発計画で,EU,日本,イタリアなどの援助を受け,エビ・魚類は輸出品になっている。
1990年代初期の主要貿易相手国は,輸出ではベルギー,イタリア,日本,輸入では香港,中国,イギリスである。輸出品目ではラッカセイ,ラッカセイ油が圧倒的で,エビ・魚類がそれに続く。輸入品目では軽工業品,機械・輸送機器,食料品など。またガンビアは近隣諸国よりも関税率が低いため,再輸出される比率が高い。1960年代半ばから,ヨーロッパ(おもに北欧,イギリスなど)からの団体観光客を受け入れはじめた。ジャワラ政権下に観光施設が整備され,80年代末には年間入国者は10万人を超え,この国最大の外貨獲得産業になった。ただし治安などの条件によって収入額は安定していない。
執筆者:中村 弘光
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
西アフリカ,ガンビア川流域の細い帯状地域を国土とする共和国。旧イギリス領植民地。セネガルに3方を囲まれ,住民はマンディンゴ人を主とするものの民族構成としてはセネガルと同様であるため,合わせてセネガンビアと称されることもある。1965年独立。70年に共和政に移行。産業化が遅れていることもあり,政権は不安定で90年代以降クーデタが頻発している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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