改訂新版 世界大百科事典 「エンリケ航海王子」の意味・わかりやすい解説
エンリケ[航海王子]
Henrique o Navegador
生没年:1394-1460
ポルトガルのアビス朝創始者ジョアン1世の第5子としてポルトに生まれた。航海王子というあだ名からも知られるように,ポルトガル海外進出最大の貢献者とされているが,ポルトガルの歴史上最も評価の分かれる人物の一人である。基礎資料である15世紀の《ギニア航海記》(1841)では,イスラム教徒の征討に熱心な十字軍士としての側面が強調されているが,ポルトガル南西端サン・ビセンテ岬付近のサグレスに航海学校を創設したり,インド遠征を企図したルネサンス的賢人だったという,いわゆる〈エンリケ伝説〉が19世紀までに形成され,ついにはポルトガルの運命を切り開いた予言者として神格化されるに至った。日本でも和辻哲郎が《鎖国》(1950)の中で17世紀外国に門戸を閉ざした当時の為政者を,15世紀ポルトガルの海外進出を指導したエンリケに対比させて独自の評価を与えたが,同時にエンリケ伝説がそのまま日本に紹介された。しかし,19世紀末以降の実証的な歴史研究によって,エンリケ伝説は次々と否定されるとともに,近年のエンリケ研究からは超人的・ルネサンス的イメージは後退し,より人間的・中世的側面が浮かび上がってきた。
1415年のアフリカ北西端セウタの征服はポルトガルの進出の出発点とされているが,それは同時にエンリケが歴史の舞台に登場する最初の機会でもあった。セウタは当時ヨーロッパに欠乏していた金がアフリカのスーダンから流入する豊かな市場として,またその後背地モロッコは古代ローマ時代から穀倉地帯として知られており,父王ジョアン1世が都市商人層の商業的欲求と貴族階級の領土的野心を合わせて満足させることのできる格好の攻撃目標であった。征服後エンリケは同市の防衛をまかされ,数年後セウタに最も近いアルガルベの終身知事に任命されると,ラゴスに居を構えた。さらに,1420年キリスト騎士団長に任命されることによって,人材と収入の面でその後の活動に大きな保証が得られることとなった。ジョアン1世死後の宮廷では海外進出政策をめぐって,エンリケに代表されるモロッコの軍事的侵略を主張する封建貴族一派と,ブルジョアジーに支持されて西アフリカ沿岸への商業的進出を企図する兄ドン・ペドロ一派との対立があった。37年エンリケの強硬な主張によりタンジール攻略が行われたが,完全な失敗に終わった。翌38年ドゥアルテ王の死後即位したアフォンソ5世の摂政をめぐって再び両派が対立した。結局ペドロが摂政に就くと,エンリケはペドロから西アフリカ沿岸の交易独占権を付与された。すでに1434年,彼の従士ジル・エアネスはボジャドル岬越えに成功してヨーロッパに未知の世界を切り開いたが,新しい世界への好奇心からエンリケはラゴスの居館に天文学者や数学者を招き,ヌノ・トリスタン,ペロ・デ・シントラやイタリア人カダ・モストらの航海者はエンリケに仕えて西アフリカ探検を進めた。こうして,1440年代以降金取引と奴隷捕獲によって西アフリカ航海はようやく経済的にも見通しが明るくなってきた。しかし,1448年アフォンソ5世が親政をとると,ポルトガルは封建王制の最終段階を迎え,再びモロッコ侵略政策が推進された。58年エンリケは甥のアフォンソ王にモロッコのアルカセル・セギル攻略を進言した。イスラム教徒の征討はキリスト騎士団長としての彼の使命だったとされる。アルカセル・セギル征服2年後の60年,エンリケは66歳の生涯を閉じたが,その時までにポルトガル人はシエラレオネまで到達しており,そこからインド到達まではわずか38年しか要しなかった。まさに彼は中世の理念を守ろうとしながらも西アフリカ探検航海事業を指揮することにより近代の幕あけを準備していたことになる。
執筆者:金七 紀男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報